OPERATION ANACONDA:
AFGANISTAN 2002
#276 September 2012


アナコンダ作戦: 2002年アフガニスタン戦争

9.11の貿易センターへの攻撃に対するアメリカの反応は迅速だった。「不朽の自由作戦(Operation Enduring Freedom)」によって世界のアルカイダ拠点を叩いた。中でも、Taliban政府がAl Qaedaに聖域を与えていたアフガニスタンが作戦の中心舞台となった。

10月までにアメリカ空軍および海軍の全面支援を受けた特殊部隊がアフガニスタンに派遣された。初期のアメリカ軍の戦略は、Talibanと対立している軍閥・北部同盟と連携し内戦を継続することだった。北部同盟の懐柔には外交と現金が用いられた。

米英軍の参戦は、少なくとも最初の数ヶ月間は北部同盟に有利に働いた。400機による空襲は米空軍とNATO軍の混成で、ペルシャ湾の米空母およびパキスタン、ウズベキスタンの空軍基地から攻撃した。ワシントン政府は、両国の支援をとりつけていたのである。中でも"K-2"と呼ばれたウズベキスタンのKurshiとKandabadは、不朽の自由作戦において重要な役割を果たした。

圧倒的空軍力を背景に、多国籍軍(米英軍)と北部同盟軍は電撃戦を遂行、Al QaedaとTalibanの軍事拠点、補給、対空基地を破壊した。11月13-14日にアフガニスタンの首都Kabul、12月7日にはTalibanの拠点Kandaharを占領したが、実際には、Taliban勢力は撤退戦術をとったのだった。

〇特集記事はこちら--->

(関連記事 S&T#256「アナコンダ作戦とアルカイダ掃討」)

付録ゲーム「Operation Anaconda」
S&T#276の付録ゲームは、湾岸戦争以来最大の立体作戦、米軍とAl Qaedaの戦いを描いた「Operation Anaconda」。3日で終わるはずだった作戦は、米軍指揮系統の混乱その他から二週間かかり、多数のAl Qaedq高官を逃しました。チット・プル・アクティベーションを採用しているようです。Joseph Mirandaがデザイナー。

 

トイトブルクの惨殺

紀元9年アウグストゥスの時代、4日間に及んだ戦闘の後に残されたのは14,000名の惨殺体だった。男だけでなく女子供までもがsaltus Teutoburgiensis (トイトブルク森)で殺害された。ウァルスの率いるローマ軍団を全滅させたのは、ゲルマンの首長アルミニウスだった。

敗北の知らせを受けたローマはパニックに陥った。ライン川とGaulとの間には二個軍団しか残っておらず、野蛮人のローマへの道は開かれたも同然だったからである。恐怖におののく市民は、世界一の軍団が野蛮人に滅ぼされたことに強いショックを受けた。

トイトブルクの惨殺は、ローマがゲルマニア経営を断念する発端であり、ライン川東がドイツとして発展するもとになった。

開拓地の血と闇: チェロキー戦争 1654-1865

17世紀半ばから19世紀にかけて、チェロキー・ネーション(民族国家)は、ほとんど常に戦争していた。

最初の戦争は1654年、ジェームズタウンの民兵500名との戦いで、白人の目的は奴隷狩りだった。白人民兵はパムンキー族700名の支援を受けていた。しかしチェロキー族の援軍を前にパムンキー族は逃亡、取り残された民兵100名が死亡した。

1711年には、Roanoke川で数百名の白人移民が、そこが狩猟場であるという理由から、タスカローラ族に殺害された。翌年、白人600名の軍隊はチェロキー族の支援を受けてNarhantes砦のタスカローラ族を襲撃、数百名を殺害するとともに100名の女子供を奴隷として売った。

チェロキー族は、ノースカロライナとバージニアのイギリス人領事から、タスカローラ族を追放した後の土地はすべてチェロキー族のものになるという保証を得ていた。1713年、Neoheroka砦でチェロキー族とカトーバ族は1,000名のタスカローラ族を殺害、生き残ったタスカローラ族はニューヨークに逃れ、イロコイ族の6部族連合(連邦国家)の一部となった。

1715年には、カトーバ、クリーク、ヤマシーと同盟したチェロキー族が、サウスカロライナのイギリス系移民数百名を殺害、家屋のすべてに放火した(ヤマシー戦争)。この争いは数百名のインディアンが捕獲され奴隷になる結末となるが、戦争の間、たくさんのインディアン女性が誘拐され、サウスカロライナの白人移民と強制的に結婚させられた。

戦乱によりサウスカロライナは荒廃、2,000名まで減少した植民地社会は崩壊の瀬戸際に追い込まれた。その白人を救ったのはチェロキー族とクリーク族の何世代にもわたる対立だった。白人はクリーク族撲滅のためにチェロキー族との同盟を提案、チェロキー族は、誘拐したチェロキー族女性と奴隷の解放、ならびに銃と弾薬の提供を条件にこれを承諾したのである。白人と同盟したチェロキー族は、二年かけてクリーク族とヤマシー族を撲滅、サウスカロライナに平和が戻ったのである。

サウスカロライナの白人とチェロキー族の関係は、しばらくの間友好的だった。鹿の皮は銃や弾薬と交換され、脱走したアフリカ黒人奴隷はチェロキー族が捕獲し白人が買い戻した。

両者の関係が変わったのは、1758年、フランス軍のDuquesne砦(ピッツバーグ)の攻略が再開された時だった。それより3年前、Duquesne砦を攻めたイギリス軍は900名のフランス・インディアン混成軍に敗退し、1,000名の損害を出していた。イギリス軍指揮官John Forbes卿は、民兵とチェロキー族を投入することにしたのである。
しかし、チェロキー族の戦士達はイギリス軍からは野蛮人扱いされ、わずか三週間で戦場から逃亡した。帰路の途中でサウスカロライナ民兵の待ち伏せにあい数十名が殺害され、留守中、彼らの狩猟場は白人に荒らされていた。1759年、チェロキー族は報復のためにサウスカロライナの白人30名を殺したのだった。

サウスカロライナの領事William Lyttletonがチェロキー族とのすべての交易を中止させると両者は戦争になった。イギリス・チェロキー戦争(1758-61)の始まりであり、アラバマのフランス軍と同盟を結んだチェロキー族は、フランス軍10,000名の正規兵とともにフレンチ・インディアン戦争を戦った。その年、ケベックを奪われたフランス軍はチェロキー族を必要としていたのである。

(関連記事 S&T#231「フレンチインディアン戦争」、#236「リトルビックホーンの戦い」、#240「スー族の反乱の戦い」)