400年の間、フィリピンの農地はprincipalia(町村の貴族)が支配していた。principaliaとは、町(プエプロ)、村(パリオ)の統治行政者を意味する。スペイン政庁はフィリピン統治に際して、各地域の原住民統治者をその地域の支配層として存続させた。投票権・行政権・土地所有権を持つprincipalia達は、やがて地主階級として発達し、長い間、地域の行政と福祉を監督した。
20世紀、アメリカ人統治時代に入ると社会は新しい変化を遂げた。より多くの利益と近代的繁栄に誘惑された地主階級は都市部に住むようになり、従来的な小作人と地主の信頼関係が壊れたのである。1920年代にはPKP(フィリピン共産党、Partido
Komunista ng Pilipinas)が結成、1942年にPKPはフクバラハップ(人民軍、Hukbong Bayan Laban
sa mga Hapon)を組織、日本統治に抵抗した。
日本政府は、フィリピン人協力者を行政と警察業務に従事させていた。こらのフィリピン人協力者は、しばしば、日本人と同様にフィリピン人に対して横暴であったため、フクバラハップの戦いは日本人のみならずこれらのフィリピン人協力者にも及んだ。1945年のフクバラハップは25,000名であったと推定される。
日本統治への抵抗組織は、フクバラハップだけではなかった。USAFFE(US Armed Forces Far East)はアメリカがスポンサーの軍事組織で、フクバラハップがルソン島に展開していたのに対し、USAFFEはフィリピン全土で活動した。フクバラハップとUSAFFEもまた、日本人統治時代にお互いに戦争をした。原因は、いずれかがいずれかのテリトリーに侵入したからであった。
1946年になると、フクバラハップはルソン島中部に独自の政府を置き、日本軍とアメリカ軍から捕獲した武器で武装するようになった。第二次大戦後選ばれたマヌエル・ロハス大統領は対日協力者であり、反共主義者だった。ロハス大統領は60日以内にフクバラハップを壊滅させる命令を出したが、1948年に、その試みは失敗したことが証明された。横行する政治腐敗および手段を選ばない政府の武力行使が共産主義への支持を高めたのである。
二代目大統領エルピディオ・キリノの政権も同様に無能であり腐敗していたため、1950年までにフクバラハップはルソン島のほとんどを支配、村落やフィリピン軍はフクバラハップに襲撃され、あるいは収奪された。
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