Koeniggraetz:
オーストリア対プロイセン 1866
#275 July 2012


ケーニヒグレーツ: オーストリア対プロイセン 1866

1815年のナポレオン戦争の戦後処理の中で、神聖ローマ帝国の領土を領域とした新しい連合政体が誕生した。ドイツ連邦(Deutscher Bund)とよばれたその国は、30以上の主権国家の連合体であり、1866年の時点でドイツと言えば、中央ヨーロッパをおおまかに定義する言葉にすぎなかった。
Bundの中で突出して重要だった国はオーストリアとプロイセンである。結成当初は、神聖ローマ帝国を継承していたハプスブルグ・オーストリアが権勢をふるった。Bund連邦議会が貿易と外交政策を決定、その首長は常にオーストリア出身だった。
ホーエンツォレン家プロイセンによる政治の寄せ集め工作によってオーストリアの力が弱まっていくと、プロイセンは主権獲得を目標にした。1848年革命でプロイセンがオーストリアに真っ向から勝負を挑んだが、オーストリア軍の方が動員が早かった。プロイセンは小ドイツ主義による国家独立から大きく後退せざるを得ず、この時の敗北は「オルミュッツの屈辱」と称された。

Bundの二番目の危機は14年後、シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国をデンマークより戦争によって割譲した後におきた。
戦争を遂行したのはオーストリア・プロイセン軍だったが、割譲した領土の分割方法で両国は争いになった。オーストリアはシュレースヴィヒ・ホルシュタイン協定を否認、プロイセンと再び激しく対立したが、プロイセンはこれまでにない反撃に転じた。
すなわち1866年6月15日に先手を打って宣戦布告したオーストリアに対し、フォン・モルトケを参謀本部総長とするプロイセン軍はかねてからの準備計画通りに総攻撃を開始した。プロイセン軍はザクセン王国、ヘッセン=カッセル選帝侯国、ハノーファー公国に侵攻、これが7週間戦争とも呼ばれる普墺戦争のはじまりだった。

7月3日ケーニヒグレーツ会戦
三軍団に分かれて南下したプロイセン軍は、Huhnerwasser、Sichrow、Podot、Soor、Koniginhofでオーストラリア軍を破り、ボヘミアに侵入した。
オーストリア軍総司令官ベネディクは、三方向から集結してくるプロイセン軍を個別撃破する計画をたてた。それはナポレオンが蘇ったような戦術であり、決戦場はケーニヒグレーツ要塞の西北だった。

 

付録ゲーム「Battle of Koeniggraetz」
S&T#275の付録ゲームは、普墺戦争の勝敗を決めたケーニヒグレーツの戦いです。マスケット時代(18〜19世紀)の戦争を再現する「マスケット&サーベル」ルールによる戦術級で、1ヘクス300メートル、砲兵は8ヘクスの射程を持っているようです。

 

最初の聖戦: ヤルムーク河畔の戦い

メッカを征服した予言者ムハマンドが次に戦いを挑んだのは異教徒だった。
ヤルムーク河畔の戦いは、イスラムとビザンチン帝国の決戦となった戦いである。ビザンチン帝国は20,000名の兵士を結集、これに相対するイスラム軍の数はその1/4だったと言われる。636年のこの戦闘は6日間続いた。戦いが終わった時、イスラム軍が勝利し、これはイスラム史においてもっとも重要な戦いと言われる。これにより、ビザンチン帝国のシリア支配は終わったのだった。

ユゼフ・ピウスツキ: 政治家の軌跡

他の独裁者と同様、ピウスツキも尋常でない時間を政治に費やした。労働時間は昼から深夜3時まで及び、仔細な業務や政治的対立を好まない彼は、そのような業務を持ち込まれると不機嫌になった。年を追うごとに神経質、不寛容、非合理的になっていたピウスツキは、政府の日々の業務の要求に対し精神的に対応できなくなり、本人もそれを認めていた。

ピウスツキの机は常に散らかっており、内政には関心がなく、外交と軍備に集中した。彼はポーランド軍を300,000名に拡大する計画を進めていたが、これはドイツ軍の三倍規模だった。
公平な精神を持つピウスツキは、独裁者であるにもかかわらず政敵を弾圧しなかった。自身の道徳的権威と大衆での人気のおかげで暗殺の試みは行われず、ボディガードも必要としなかった。ポーランドに政治犯を収容する収容所がはじめて建設されたのは彼が死亡する1年前の1934年であり、これは当時の独裁者にとっては珍しいことだった。

ピウスツキが亡くなったのは1935年5月12日である。残された政府官僚達は大混乱に陥った。ピウスツキ最大の敵、アドルフヒトラーでさえ彼の死を公に追悼、ベルリンの教会でピウスツキ追悼のミサを行うよう命じただけでなく、ヘルマンゲーリングをワルシャワの葬儀に参列させた。ゲーリングは、ピウスツキ未亡人の隣に座って会食をした。その4年後、ルフトヴァッフェがワルシャワを空襲した。

 

フクバラハップの反乱: 1946 - 1954

400年の間、フィリピンの農地はprincipalia(町村の貴族)が支配していた。principaliaとは、町(プエプロ)、村(パリオ)の統治行政者を意味する。スペイン政庁はフィリピン統治に際して、各地域の原住民統治者をその地域の支配層として存続させた。投票権・行政権・土地所有権を持つprincipalia達は、やがて地主階級として発達し、長い間、地域の行政と福祉を監督した。

20世紀、アメリカ人統治時代に入ると社会は新しい変化を遂げた。より多くの利益と近代的繁栄に誘惑された地主階級は都市部に住むようになり、従来的な小作人と地主の信頼関係が壊れたのである。1920年代にはPKP(フィリピン共産党、Partido Komunista ng Pilipinas)が結成、1942年にPKPはフクバラハップ(人民軍、Hukbong Bayan Laban sa mga Hapon)を組織、日本統治に抵抗した。

日本政府は、フィリピン人協力者を行政と警察業務に従事させていた。こらのフィリピン人協力者は、しばしば、日本人と同様にフィリピン人に対して横暴であったため、フクバラハップの戦いは日本人のみならずこれらのフィリピン人協力者にも及んだ。1945年のフクバラハップは25,000名であったと推定される。
日本統治への抵抗組織は、フクバラハップだけではなかった。USAFFE(US Armed Forces Far East)はアメリカがスポンサーの軍事組織で、フクバラハップがルソン島に展開していたのに対し、USAFFEはフィリピン全土で活動した。フクバラハップとUSAFFEもまた、日本人統治時代にお互いに戦争をした。原因は、いずれかがいずれかのテリトリーに侵入したからであった。

1946年になると、フクバラハップはルソン島中部に独自の政府を置き、日本軍とアメリカ軍から捕獲した武器で武装するようになった。第二次大戦後選ばれたマヌエル・ロハス大統領は対日協力者であり、反共主義者だった。ロハス大統領は60日以内にフクバラハップを壊滅させる命令を出したが、1948年に、その試みは失敗したことが証明された。横行する政治腐敗および手段を選ばない政府の武力行使が共産主義への支持を高めたのである。
二代目大統領エルピディオ・キリノの政権も同様に無能であり腐敗していたため、1950年までにフクバラハップはルソン島のほとんどを支配、村落やフィリピン軍はフクバラハップに襲撃され、あるいは収奪された。