RAF The Battle of Britain1940
#256 May 2009

バトルオブブリテン

空中戦は第一次大戦の時から存在したが、バトルオブブリテンは世界初の空軍同士の総力戦であり、その結果は戦いに参加した軍人のみならず、世界を驚かせるものだった。

1939年9月、ドイツ軍がポーランドに進駐しても、最初の数ヶ月間、西側連合国はドイツの都市に空爆を行わなかった。
理由のひとつは政治的なものであり、ドイツも連合国も、戦略爆撃は相手国のさらなる報復を招くと考えていた。
もうひとつの理由は、連合国は重爆撃機や護衛用の長距離戦闘機を持っていなかったことである。イギリス空軍が行った中距離爆撃機による空襲では自軍に深刻な損害が出た。フランス空軍は、近代的な航空機を持っていたが組織化が不十分で、その爆撃機は地上の戦闘支援を目的にしていた。一方、ドイツ空軍は来るべき攻勢に向けて戦力を温存していた。

5月14に、ドイツ軍がオランダ・ロッテルダムに侵攻した時、空襲によって1000人の市民が死亡した。イギリス空軍は報復にルール川を空爆した。これが戦争中に繰り返されたパターンの始まりだった。報復爆撃は、それを行った国の戦意を高めることには貢献したものの、敵に対しては実質的なあるいは継続的な打撃を与えなかったのである。



有名な勝利: マールバラ公の古典的戦い

マールバラ公ジョン・チャーチルは、イギリスの歴史のみならず、「理性の時代」の主要な人物である。
彼が戦ったスペイン継承戦争は結局のところ何も解決しなかったが、マールバラ公は、火打ち式マスケット銃とソケット型銃剣を運用した最初の司令官であり、ナポレオン時代に全盛をきわめる横隊戦術のパイオニアだった。ナポレオンと異なり、マールバラ公は一度も戦争に敗れたことはなかった。

付録ゲーム「Marlborough's Battles」
Richard H. Bergデザインによる「Marlborough's Battles」は、中程度の難易度のゲームである。1へクス約200mで、歩兵ユニットは2,000〜3,000名、騎兵は600騎、砲兵ユニットは12〜18門をあらわしている。戦闘ルールは、火打ち式マスケット銃とソケット型銃剣で武装した歩兵を表現する。

マールバラ公の時代、歩兵が戦場の華だった。マスケット銃は歩兵の攻撃力を高め、銃剣は敵の騎兵に有効だった。
マスケット銃を持つ歩兵によって、三十年戦争時代の槍による密集隊形は廃れ、やがて槍そのものが使われなくなった。密集陣形の代わりに主流になったのは、横列陣形だった。マスケット銃の威力を最大限に発揮できたからである。

この時代、大砲は移動が困難だったので、戦場における決定的な戦力ではなかった。ナポレオン時代の師団級、軍団級のフォーメーションはなく、最大の部隊単位が連隊か旅団だった。これを再現するために、ゲームでは指揮単位をひとつずつ活性化するシステムを採用した。

ゲームターンが時間を現していないことも、このゲームのユニークな点である。マールバラ公の時代の戦争はしばしば均衡状態になって双方の動きが止まったという事実を反映するため、1ターンは軍の活動量を表している。

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ブルドーザーの勝利: Defensive Shield作戦

2000年9月に第2次インティファーダがはじまって以来、パレスチナ人のイスラエルへの攻撃は激しさを増していた。標的は市民の乗るバス、ナイトクラブ、レストランであり、手段は仕掛け爆弾か自爆攻撃だった。2002年に入ると状況はさらに激化し、3月27日には過越の祭で祝うパークホテルが爆破され、150名が死傷した。

悪名高いDefensive Shield作戦の目的は、反イスラエルネットワークの根絶であり、次なる作戦に向けての情報収集だった。3月29日から始まった作戦でイスラエル軍は30,000名の地上軍を投入、BethlehemとRamallahを難なく占領したが、これは、ウエストバンクにおける第三次中東戦争以来の大規模な軍事作戦だった。Ramallahのアラファト邸は包囲され、イスラエル軍は邸宅の1階まで占領、アラファトの護衛と銃撃になった。

dパレスチナ人が抵抗らしい抵抗ができたのは、難民キャンプのあるJeninだった。13,000人の市民が住むJeninは、、パレスチナ・ゲリラの巣窟であり爆弾工場だった。4月3日からの攻勢でイスエラル軍は1000名の兵士を送り、200〜300とされるパレスチナ兵士と戦った。パレスチナ人側には、少なくとも過去12回の市民攻撃に関わったとされるTabaat Mardawiも含まれていた。
Jenin地区には攻撃ヘリ以外での空襲や砲爆撃が行えなかったので、イスラエル兵は、ブービートラップが仕掛けられた家々一戸ずつ捜索しなければならなかった。4月7日には13名のイスラエル兵が死亡、そこで開発された兵器は武装したD-9ブルドーザーだった。機関銃とグレネードランチャーを装備するD-9は車体が50トンで、M-1エイブラムスとほぼ変わらない重量がある。D-9は、パレスチナ人の立てこもる家をゆさぶり、崩壊した。危険な任務だったにもかかわらず、作戦中、D-9の操縦者で死亡した者はいなかった。

4月21日に作戦が終わった時、ウエストバンクのパレスチナ人経済とインフラは破壊され、少なくとも500人のパレスチナ人が死亡、1500人が負傷、数千名がイスラエル軍に拘束され、その中には重要なパレスチナ人指揮官も複数含まれていた。イスラエル軍の損害は29名の死亡と127名の負傷だった。
Defensive Shield作戦は、第2次インティファーダへの有効な反撃だった。2002年3月のイスラエル人死者が154人であったのに対し、4月には17人に減り、2003年の死者の合計は129人だった。2004年には90人、2005年は32人、2006年はわすか14人である。

アナコンダ作戦とアルカイダ掃討

dシャヒコト峡谷(Shahi-kot)はカブールの南30kmにあり、パキスタン国境には40kmで到達する。この峡谷は、2002年3月にアルカイダとタリバンと米軍が大規模な戦闘を繰り広げた場所である。

CENTCOM(アメリカ中央軍)は、アナコンダ作戦実施に際し、SOF(多国籍軍特殊作戦部隊、Coalition Special Operations Forces)、空軍、地元の非正規軍を統合する戦法を考案した。
その戦法の主たる目的は、「ソビエト軍と同じ過ちをしない」ことだった。ソビエト軍が、大規模な正規軍を送ったことが、地元に強大な反勢力を作った。砲爆撃の広範囲な使用は、住民への被害を大きくし、同様に敵対勢力を作る。

CENTCOMは、参加するSOFの規模を旅団戦闘チーム(BCT)とすることで、かつてのソビエト軍が行ったような大掛かりな作戦に見えないようにした。攻勢側の中心は地元の非正規軍 - パシュトゥン人だったが、彼らは多国籍軍の指揮下に入ることを嫌い、展開する地域もまったく別だった。パシュトゥン人はアフガニスタンにおける独自の地位を拡張するために多国籍軍を利用しているにすぎなかった。
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