膠着状態になったソンム会戦(1916)を打開するため、イギリスは9月15日、「タンク」を前線に投入した。
25両の「タンク」 は西側が開発した陸上巡洋艦であり、鉄条網と機関銃に守れられた塹壕を突破するための秘密兵器であった。
戦闘に参加したイギリス兵によれば、「ジェリー(ドイツ兵)は怯えたウサギのように四散した」。
にもかかわらず、機械的な欠陥と不十分な速度から、初戦では戦果をあげることはなかった。その後も連合軍は戦車を改良し続けたが、ドイツ軍が対戦車戦術を考案するのも早かった。
9月15日の初日、ソンム河のフレール方面に投入されたMk.I戦車に対してドイツ軍がとった戦術は、他のどのターゲットに対する攻撃とも同じものだった。すなわち、装甲版の開口部を銃撃し、手榴弾を投げ、直射照準砲撃を浴びせたのである。
これらの通常兵器による攻撃は、それが戦車を大破するほどのものでなくても、周辺の歩兵を四散させるのにしばしば十分なものだった。歩兵の擁護のない戦車は極めて脆弱だった。
戦場に戦車が登場してから一週間で、ドイツは捕獲した戦車をベルリンに送り、弱点を洗い出した。ドイツ軍歩兵は、破壊され遺棄された戦車を使用して対戦車戦術の訓練を行った。
当時の戦車の最大の弱点は整地しか移動できないことだった。ドイツ軍は戦車壕、水壕、対戦車地雷で戦車の進路を妨害した。初期に導入された対戦車ライフルは、射程距離の短さと扱いの悪さから使用されなくなった。
対戦車兵器としてもっとも使用されたのが、強力手榴弾だった。前線では、上層部が包括的な対戦車戦術を指示する前から、手榴弾頭を7つ束ねた棒状手榴弾
- マッシュポテト - が使用されていた。前線ではまた、榴弾を改造した即席の対戦車地雷も作られた。
野砲の直接照準射撃は当たれば効果的だったが、当時の砲は間接射撃を行うためのものであり、塹壕より後方に配置されていた(塹壕線上に置いた場合、砲そのものが敵の第一の攻撃目標となった)。しかも戦場の視界は、しばしば煙幕によって遮られた。
イギリス軍が200両のMk.IVを投入したカンブレー戦い(1917年)の頃には、ドイツ軍の対戦車戦術は体系化され、対戦車用に編成された「歩砲兵連合部隊」によって戦車の前進を阻止できるようになっていた。
その対戦車戦は、機銃掃射で擁護する敵歩兵を分散させることからはじまる。銃撃で戦車の開口部を狙い可能な限りの損害を与え、奇襲効果が生じている間に、塹壕や森林、小道に隠れていた対戦車分隊が突撃、強力弾薬や手榴弾で戦車の軌道を破壊した。
対戦車砲として有効だったのは、短砲身で低初速の37mm砲であった。軌道を破壊した後、戦車の機関銃と砲を無効化するのは砲兵の任務だった。対戦車砲は、2〜3門を一組にして塹壕と砲兵陣地の中間に配置した。対戦車砲は壕もしくはカモフラージュネットで隠匿し、突入してきた戦車を砲撃した。
ラインメタル製37mm対戦車砲
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