Ticonderoga:
ジョージ湖の戦い
#277 October 2012


Ticonderoga: ジョージ湖の戦い

1754年5月28日、イギリスバージニア市民軍は、オハイオ渓谷にいたフランス軍偵察部隊を攻撃、10名を殺害した。市民軍の指揮官はジョージ・ワシントン大佐(22歳)であり、この戦闘は北アメリカにおける英仏全面戦争 - フレンチ・インディアン戦争 - の魁となるものだった。

英仏の対立はヨーロッパの他の国家にも拡散、欧州の国々はいずれかと同盟して戦争になった。人類初の世界戦争 - 七年戦争の勃発であり、戦場はインド諸島、東アフリカ、インド、アルゼンチン、西インド諸島、フィリピンまで拡大した。

フレンチ・インディアン戦争と七年戦争が終わった時、ヨーロッパの勢力図に大きな変化は見られなかったものの、北アメリカの地図は完全に変わっていた。1763年のパリ条約によって、フランスはミシシッピ川以東の地域をイギリスに、ニューオリンズ以西をスペインにそれぞれ割譲した。

この戦争により、新世界におけるイギリスの優位が確立した。フランスの領土はセントローレンス湾とカリブ海の島のみとなり、大英帝国は、新大陸の大西洋側のほとんどすべてを手に入れたのである。

フレンチ・インディアン戦争の非対称性
勝敗を決定づけた最大の要因は、イギリスの海軍力だった。フランスの2.5倍の海軍力を誇るイギリスは、戦争中、カナダの海上封鎖を行いフランス軍を"干上がらせる"一方で、北アメリカの必要な地点にイギリス陸軍を送ることができた。

戦争が勃発した時、北アメリカに居住していたイギリス人が25,000,000人であったのに対し、フランス人は65,000人だった。イギリス人は大西洋側の海岸に都市を作り、フランス人はカナダの内陸に居住した。

イギリス人社会は植民地経済が発達し、人々は中流社会を営む余裕があった。市民の4人にひとりは黒人奴隷で、人々はイギリス国王の臣民であったものの、立法のための議会があり、法の下での平等が約束され、陪審員による裁判制度があった。
一方、フランス人植民地は、領主が商人と農奴を管理する硬直した封建社会だった。カナダ産の魚と毛皮、ルイジアナの砂糖による収益はわずかで、フランス人政府が植民地を維持するコストの方が高かった。一般の暮らしは楽ではなかったが、それでもフランス本国にいた時よりましだった。

地理的な要因からイギリス人とフランス人の交流は稀だったが、フランスもイギリスも、相手側との交易を禁ずる法律があった。二国が出会う時、それはライバルか敵としてであり、交易は違法な闇取引で行われ、それは戦争中も継続された。

インディアン社会
より多くのインディアンを味方につける、という点でも両者は競い合った。インディアン社会は、村単位の合議が何よりも優先され、首長が命令できる部分はごくわずかだった。戦うかどうかはその都度決定された。
仮にその村が戦争することを決めても、各々の戦士は参加しない自由があった。反対に、村が非戦を決定しても戦争に参加することができた。

(関連記事 S&T#231「フレンチインディアン戦争」)

付録ゲーム「Ticonderoga」
William NesterとEric Harveyによるこのゲームは、1755〜58年のタイコンデロガ砦におけるイギリスとフランスの戦いを複数のシナリオでシュミレートする。リーダーシップを重視したルールだという。

 

モンゴル帝国

広大なユーラシア大陸をわずか半世紀で征服したモンゴル人の支配は、Kublai Khanの時代(1260-1294)になって急速に衰え、その帝国は彼の死とともに終わりを遂げた。

衰退の原因は、周辺国に仕掛けた征服戦争だった。

シリア
モンゴル人が最初に敗退したのは、1260年のAin Jalut(シリア)の戦いである。20,000名の部隊が全滅し、1262年の第二次遠征でも同様の敗退を喫した。Kublai Khanが翌年に命じた第三次遠征は部下Berke Khanの非協力により実施されなかった。

この戦いは、モンゴル人の中東進出が不可能であることを証明しただけでなく、元(Yuan Dynasty)が内部分裂する原因となった。

日本
Kublai Khanの次の目標は日本だった。1260年に朝鮮を属国にした後の彼の間違いは、日本を朝鮮の属国だと信じたことである。5度におよぶ外交交渉は成立せず、1274年に博多に上陸した23,000名のモンゴル兵で生きて帰ることができたのは7,200名だった。

40,000名の兵力で行った1281年の遠征では、2ヶ月間の熾烈な地上戦の後に3/4の兵力を喪失した。原因のひとつは、遠征軍が使用した船の構造にあった。納期に間に合わせるため、朝鮮人が量産した船は河川用の平底船だったのである。

Kublaiは1284年に第三次遠征を命ずるが、命令は二年後にキャンセルされ、外征の主力は東南アジアに向けられた。

第三、第四、第五の神風
今日でさえ日本人の間では、1274、1281年の「神風」が、祖先がもたらした奇跡として言い伝えられている (彼らの国教神道は先祖と自然崇拝の混合である)。米海軍に脅かされた1944-45年、人々は神風を呼ぶために神道や仏教寺院に集まり祈った。

1944年12月17日、その祈りが聞き届けられたように、フィリピン海に停泊していた米海軍に台風が直撃、3隻の駆逐艦と870名の艦載員を喪失した。東京のラジオ放送は、これを「第三の神風」と宣言した。第四の神風は1945年6月5日だが、この時は艦船は沈まなかった。

第五の神風は台風ではなく暴力の嵐であり、すなわち1945年8月15日まで続いた米軍艦艇への"Kamikaze"自殺攻撃である。総計3,192機の攻撃によって34隻の米海軍艦船が沈没、368隻以上が損傷、9,700名の死者が出た。それでも、その後の日本人の祈りがあったにもかかわらず、4,600隻の米海軍艦船が日本人本土を目指し勝利した。

ビルマ
Kublai Khanは1273年からビルマに朝貢を求めていたが、Narathihapate王はそれに応じないだけでなく、モンゴルが保護国化していたKaungai(タイ)を侵略した。

そこで1277年、Kublaiは12,000名の兵士をビルマに送った。迎え撃ったのは20,000名の歩兵と200頭の象部隊だった。ジャングルでは疫病が蔓延、モンゴル軍は戦力の半分以上を失い、戦果として中国に持ち帰ることができたのは12頭の象だけだった。1283年の遠征軍も疫病により敗退した。

1286年、Narathihapate王が暗殺されるとビルマは混乱状態に陥った。翌年、首都はモンゴル軍に占領され略奪にあうが、またもや疫病が発生、モンゴル軍は撤退しなければならなかった。
1299年および1301年の遠征も成功せず、ビルマの熱帯雨林はモンゴル人にとって鬼門であることが証明された。

ベトナム
1282年および1283年、Dai Vietに侵攻したモンゴル軍が直面したのは、Dai Viet軍の焦土作戦とゲリラ戦術、奇襲だった。5,000〜300,000名のモンゴル軍は飢餓状態におかれ、激しい消耗によって撤退、Kublaiが軍を立て直すのに二年を要した。

1288年、330,000名のモンゴル兵を陸路と海路にわけ、再びDai Vietを攻略したが勝つことができなかった。
最後にKublaiはChampaとDai Vietの同時攻勢を命じたが、実施されることはなかった。財政難のため1292年までに用意できたのは20,000名の兵と1,000隻の小型船だけだった。

結論
南宋の占領を除いて、Kublaiが成功した侵略戦争は皆無だった。Kublaiの死までに帝国の財政は破綻し、モンゴル軍はシリア、日本、東南アジアにおける敗退で極度に弱体化した。それゆえ帝国は分裂し栄華は過去のものとなったのである。

第一次大戦のドイツ軍対戦車戦術

膠着状態になったソンム会戦(1916)を打開するため、イギリスは9月15日、「タンク」を前線に投入した。
25両の「タンク」 は西側が開発した陸上巡洋艦であり、鉄条網と機関銃に守れられた塹壕を突破するための秘密兵器であった。

戦闘に参加したイギリス兵によれば、「ジェリー(ドイツ兵)は怯えたウサギのように四散した」。
にもかかわらず、機械的な欠陥と不十分な速度から、初戦では戦果をあげることはなかった。その後も連合軍は戦車を改良し続けたが、ドイツ軍が対戦車戦術を考案するのも早かった。

9月15日の初日、ソンム河のフレール方面に投入されたMk.I戦車に対してドイツ軍がとった戦術は、他のどのターゲットに対する攻撃とも同じものだった。すなわち、装甲版の開口部を銃撃し、手榴弾を投げ、直射照準砲撃を浴びせたのである。
これらの通常兵器による攻撃は、それが戦車を大破するほどのものでなくても、周辺の歩兵を四散させるのにしばしば十分なものだった。歩兵の擁護のない戦車は極めて脆弱だった。

戦場に戦車が登場してから一週間で、ドイツは捕獲した戦車をベルリンに送り、弱点を洗い出した。ドイツ軍歩兵は、破壊され遺棄された戦車を使用して対戦車戦術の訓練を行った。

当時の戦車の最大の弱点は整地しか移動できないことだった。ドイツ軍は戦車壕、水壕、対戦車地雷で戦車の進路を妨害した。初期に導入された対戦車ライフルは、射程距離の短さと扱いの悪さから使用されなくなった。

対戦車兵器としてもっとも使用されたのが、強力手榴弾だった。前線では、上層部が包括的な対戦車戦術を指示する前から、手榴弾頭を7つ束ねた棒状手榴弾 - マッシュポテト - が使用されていた。前線ではまた、榴弾を改造した即席の対戦車地雷も作られた。

野砲の直接照準射撃は当たれば効果的だったが、当時の砲は間接射撃を行うためのものであり、塹壕より後方に配置されていた(塹壕線上に置いた場合、砲そのものが敵の第一の攻撃目標となった)。しかも戦場の視界は、しばしば煙幕によって遮られた。

イギリス軍が200両のMk.IVを投入したカンブレー戦い(1917年)の頃には、ドイツ軍の対戦車戦術は体系化され、対戦車用に編成された「歩砲兵連合部隊」によって戦車の前進を阻止できるようになっていた。

その対戦車戦は、機銃掃射で擁護する敵歩兵を分散させることからはじまる。銃撃で戦車の開口部を狙い可能な限りの損害を与え、奇襲効果が生じている間に、塹壕や森林、小道に隠れていた対戦車分隊が突撃、強力弾薬や手榴弾で戦車の軌道を破壊した。

対戦車砲として有効だったのは、短砲身で低初速の37mm砲であった。軌道を破壊した後、戦車の機関銃と砲を無効化するのは砲兵の任務だった。対戦車砲は、2〜3門を一組にして塹壕と砲兵陣地の中間に配置した。対戦車砲は壕もしくはカモフラージュネットで隠匿し、突入してきた戦車を砲撃した。


ラインメタル製37mm対戦車砲