1066:
へースティングの戦い
#240 December 2006

ノルマン・コンクエスト 1066: 中世のターニングポイント

1066年10月14日にイングランドのヘースティングス付近で発生したノルマンディ公Williamとイギリス王Haroldの戦いは、その後のヨーロッパの歴史を大きく変えた。
戦場に結集したのは双方とも6000〜7000人程度の軍勢だったが、これはこの時代の補給と輸送力を考えれば最大級だった。一時間程度で終わるのが普通の戦争だった当時、ヘースティングスの戦いは朝から日没まで続いた。

攻撃側のWilliam軍の主体が弓兵と騎兵であったのに対し、防御側のHarold軍の主体は歩兵だった。Harold軍はWilliam軍の突撃を数度に渡ってはじき返し、密集した槍と盾の壁がいかに騎兵の突撃に有効であるかを証明した。William軍は壊走しかかり、William公自ら馬を下りて干戈を交えなければならないほど劣勢にたたされた。

夕闇迫る頃にWilliam軍が行った最後の突撃でHalold王が目を矢で射抜かれ、William公は勝利を手にした。

 


独立戦争の第二戦線:
Bernardo de Galvezとルイジアナ・フロリダ戦役 1779 - 1781

1775年、アメリカの13植民地が起こしたイギリスへの反乱は、スペイン王Carlos三世にとって、七年戦争の雪辱の機会だった。

七年戦争の結果
七年戦争において、スペインは当初中立国だったが、イギリスがスペインの植民地を次第に侵食したため、1762年1月、スペインはフランス側に立ってイギリス同盟国と戦争を始めた。スペインはポルトガルとの戦いに勝利したものの、HabanaとManilaでイギリスに破れ、結局、七年戦争そのものがフランスの敗北に終わった。

パリ講和条約において、スペインは奪われたHabanaとManilaを回復するために、西フロリダ全域をイギリスに割譲しなければならなかった。スペインはまた、フランスからミシシッピ川以西のルイジアナを譲り受けたが、ルイジアナは当時、何の価値もない土地だった。

ミシシッピ川下流地域の東半分とPensacola市がイギリス領となった結果、New Orleans(スペイン領)の防衛は脆弱になり、メキシコ湾の通行もイギリス艦隊の脅威にさらされるようになった。Carlos三世にとって、イギリスとのリターンマッチは、講和条約を締結した時から決まっていた事だった。


カリブ海のイギリス艦隊

結末
3年にわたるイギリスとの戦争の結果、1781年、スペイン軍はBernardo de Galvezの指揮によって、ミシシッピ川下流地域とPensacola市を確保し、イギリスは西フロリダから撤退を強いられた。GalvezはCarlos三世から提督の称号を与えられ、西フロリダとルイジアナの総領事となった。

フロリダ半島は依然としてイギリスの支配下にあったが、西フロリダに進んだスペイン軍のおかげで、フロリダ半島のイギリス軍は動くことができず、カリブ諸島に軍隊を動員することも、ワシントンと戦うイギリス軍を支援することもでなくなった。また、ミシシッピ川全域にイギリス軍の影響力が及ばなくなったため、イギリス艦隊が大西洋の通行を妨害しても、アメリカ独立軍は補給をミシシッピ川から受けることができた。

Galvezの勝利は、カリブ海周辺のスペイン領にとって最後の栄光だった。それから約30年後に、フロリダとルイジアナはアメリカ合衆国に領有される。

1862年 スー族の反乱

年少のインディアンでさえ、大地の隅々までがスー族のものであった時代を覚えていた。今や彼らは川岸の細長い居留区に押し込められ、白人がもたらした天然痘、ジフテリア、百日ぜき、そしてウィスキーに倒れていた。
白人のインディアン担当者には汚職がはびこり、インディアンに対する年金・食料の支給は遅れるのが当たり前、支給量も規定以下だった。南北戦争が始まってからは配給はさらに悪化し、スー族は飢餓状態に置かれた。

アメリカ陸軍は過去、Abercrombie、Ripley、Snelling、Ridgelyなどのインディアンのいかなる反抗にも対応してきたが、1862年8月当時は南軍との戦いに忙殺されていた。白人への反撃にもっとも適した時期が到来したのである。

Did you know? 北ベトナムの対空砲

ベトナム戦争中、約3,000機のアメリカ軍機が撃墜されている。報道によって作られたイメージによって、SAMやミグ戦闘機が撃墜の主たる原因と思われがちだが、実際には対空砲と対空機関銃が最も効果的な武器だった。
統計によれば、アメリカ海軍機の52%、空軍機の77%が対空砲と対空機関銃によって撃墜されている。

戦争中、北ベトナム側は約7,000門の対空砲と数千の対空機関銃を配備していた。その中で最大のものがソビエト製KS-30であり、HanoiとHaiphongに集中して設置、SON-9Aレーダーによって火器統制していた。KS-30の欠点は、低空を高速でやってくる敵機に有効でないことであった。

もっとも効果的だった対空砲はKS-19、KS-12、KS-18で、KS-12は、第二次大戦中、T-34/85に対戦車砲としても搭載されていた。KS-19もまたT-52/54に対戦車砲として搭載されている。
KS-19は主に海岸部の戦略防衛地点に配備され、しばしば位置を変えた。低空高速で飛来する敵機にはKS-19よりもより小型のKS-18の方が有効だった。
KS-18は主要な橋の周辺および湾岸部の戦略地点に配置され、1967年後半にはラオス、カンボジアのホーチミン・トレイルにも配置された。

過去のS&T
50号前#190
The Gauntlet

1950年の清川江の戦いは、冷戦戦争当時、最も熾烈を極めた戦いである。北朝鮮からアメリカ軍を押し出した中国軍の浸透戦術は、歩兵と機械化部隊の衝突だった。その他、Anthony Howarthのフレデリック大王、Richard van Nortの1945年満州の戦い、Tim Kuttaの冷戦下の戦車競争、ローマ時代の軍事経済など。

100号前#140
Battle of Tunis

Decision Games社が出版した最初のS&T誌。付録ゲームはVance von Borrieによる1943年の北アフリカにおけるロンメル最後の作戦。Carl Schusterのリッサ海戦、Richard JupaとJames Dingamanによる現代の傭兵。

150号前#90
Monmouth

Dr. David Martin、L. Millman、E. L. Smithによる1778年Monmouthの戦い。アメリカ植民地がイギリスに攻勢を挑む。Trevor N. Dupuy大佐による1973年アラブ・イスラエル戦争の新解釈、SPI時代のナポレオン戦争における歩兵と騎兵の衝突をシステム化した「Line/Square」プロジェクトの記事。
200号前#40
Panzeerarmee Afrika

Jim Dunnigan、Al Nofi、Redmond Simonsenが第二次大戦の北アフリカ戦線をいくつかの新規のコンセプト(例えば60移動力のユニット)でゲーム化。Frank Davisによる実施されなかったドイツ軍の「あしか作戦」、Al Nofi、Sid Sacksonによるゲームレビュー(ファミリーゲーム「Watergate」など)、NATO、アメリカ軍の軍事シンボルの記事。

1066: End of the Dark Ages

240号の付録ゲーム「1066: End of the Dark Ages」は、12ターンでグレートブリテン島の覇権を争うマルチプレイヤーゲーム。2〜4人までのプレイヤーで、それぞれAnglo-Saxons、Normans、Vickings、Britonsを受け持つ。Joseph Mirandaがデザイナー。

 

次号予告

次号は「Twilight of the Ottomans」、中東の第一次大戦をゲーム化。特集記事は、第一次大戦のトルコ帝国、トランスコーカシア・忘れられた戦線、先制攻撃・イラク核施設へのイスラエル空軍、1799年のスヴォーロフ将軍とイタリア。

予定ゲーム

#241 Twilight of the Ottomans: 第一次大戦前後の中東。
#242 They Died with Their boots On 2: パーシング将軍とパンチョビラ
#243 Manla '45: 太平洋のスターリングラード。日本軍がフィリピンの首都で最後の抵抗戦。
#244 Drive on Moscow: 特別大型付録。ドイツ中央軍団が南でなくモスクワを目指す。
#245 War of the Triple Alliance : アメリカ大陸でのもっとも血なまぐさい戦争のひとつ、1865〜69年のパラグアイ戦争。