1775年、アメリカの13植民地が起こしたイギリスへの反乱は、スペイン王Carlos三世にとって、七年戦争の雪辱の機会だった。
七年戦争の結果
七年戦争において、スペインは当初中立国だったが、イギリスがスペインの植民地を次第に侵食したため、1762年1月、スペインはフランス側に立ってイギリス同盟国と戦争を始めた。スペインはポルトガルとの戦いに勝利したものの、HabanaとManilaでイギリスに破れ、結局、七年戦争そのものがフランスの敗北に終わった。
パリ講和条約において、スペインは奪われたHabanaとManilaを回復するために、西フロリダ全域をイギリスに割譲しなければならなかった。スペインはまた、フランスからミシシッピ川以西のルイジアナを譲り受けたが、ルイジアナは当時、何の価値もない土地だった。
ミシシッピ川下流地域の東半分とPensacola市がイギリス領となった結果、New Orleans(スペイン領)の防衛は脆弱になり、メキシコ湾の通行もイギリス艦隊の脅威にさらされるようになった。Carlos三世にとって、イギリスとのリターンマッチは、講和条約を締結した時から決まっていた事だった。
カリブ海のイギリス艦隊
結末
3年にわたるイギリスとの戦争の結果、1781年、スペイン軍はBernardo
de Galvezの指揮によって、ミシシッピ川下流地域とPensacola市を確保し、イギリスは西フロリダから撤退を強いられた。GalvezはCarlos三世から提督の称号を与えられ、西フロリダとルイジアナの総領事となった。
フロリダ半島は依然としてイギリスの支配下にあったが、西フロリダに進んだスペイン軍のおかげで、フロリダ半島のイギリス軍は動くことができず、カリブ諸島に軍隊を動員することも、ワシントンと戦うイギリス軍を支援することもでなくなった。また、ミシシッピ川全域にイギリス軍の影響力が及ばなくなったため、イギリス艦隊が大西洋の通行を妨害しても、アメリカ独立軍は補給をミシシッピ川から受けることができた。
Galvezの勝利は、カリブ海周辺のスペイン領にとって最後の栄光だった。それから約30年後に、フロリダとルイジアナはアメリカ合衆国に領有される。 |