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アメリカ革命戦争で最初の軍事行動がおきた日は、1775年4月19日である。
マサチューセッツ州の軍政長官Thomas Gage卿は、その年の1月から反乱軍を鎮圧する指令をロンドンから受けていた。情報に基づき、4月19日、"redcoat"と呼ばれたイギリス兵が、植民地派民兵がConcordに集積した武器を押収しようとしたところ、Lexingtonで双方は衝突した。銃撃戦が始まり、革命軍は狙撃を行いながら撤退した。イギリス軍はConcordに進み、Bostonに撤退した。
数年も前から沸点に達していたイギリス政府と植民地市民との政治的対立は、この時、戦争に変わった。小規模な衝突であったにもかかわらず、Lexington-Concordの戦闘は、歴史のターニングポイントとなった。
双方が動員を行った。イギリスは、増援を送り、指揮官の数を増やすことでBostonを増強した。アメリカ革命政府は13,000名の民兵を集めてマサチューセッツに立て籠もった。
優位は、世界に版図を広げる大英帝国にあった。イギリスにはインドとカリブ海の植民地からは膨大な富が流れ込み、フレンチ・インディアン戦争(1763年)に勝利したおかげで、カナダという広大な地域を軍事基地として使うことができた。
イギリスはまた世界最強の海軍を持ち、これによって反乱軍を封鎖するとともに、北アメリカ中のイギリス軍を支援することができた。
イギリスにとっての問題は、どれだけの兵力を注ぐかだった。7年戦争が終わって、イギリス軍は縮小していた。1775年の時点でその数は45,000名であり、これで植民地のすべてと本国の防衛を行わなければならなかった。アメリカ大陸には、西インド諸島を含めて10,500名が派兵されていた。
(本誌では、アメリカ革命を決定した戦いは、Lexington-Concord-Bunker Hill、Saratoga、Yorktownの三つであり、イギリスが敗北した原因は、一時的なイギリス海軍の弱体化、民兵をイギリス軍の補充兵として動員できなかったこと、7年戦争の結果、政治的に孤立していたことをあげています。)
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