The American Revolution: Decision in North America
#270 September 2011

アメリカ革命戦争: 北アメリカにおける決断

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アメリカ革命戦争で最初の軍事行動がおきた日は、1775年4月19日である。
マサチューセッツ州の軍政長官Thomas Gage卿は、その年の1月から反乱軍を鎮圧する指令をロンドンから受けていた。情報に基づき、4月19日、"redcoat"と呼ばれたイギリス兵が、植民地派民兵がConcordに集積した武器を押収しようとしたところ、Lexingtonで双方は衝突した。銃撃戦が始まり、革命軍は狙撃を行いながら撤退した。イギリス軍はConcordに進み、Bostonに撤退した。

数年も前から沸点に達していたイギリス政府と植民地市民との政治的対立は、この時、戦争に変わった。小規模な衝突であったにもかかわらず、Lexington-Concordの戦闘は、歴史のターニングポイントとなった。
双方が動員を行った。イギリスは、増援を送り、指揮官の数を増やすことでBostonを増強した。アメリカ革命政府は13,000名の民兵を集めてマサチューセッツに立て籠もった。

優位は、世界に版図を広げる大英帝国にあった。イギリスにはインドとカリブ海の植民地からは膨大な富が流れ込み、フレンチ・インディアン戦争(1763年)に勝利したおかげで、カナダという広大な地域を軍事基地として使うことができた。
イギリスはまた世界最強の海軍を持ち、これによって反乱軍を封鎖するとともに、北アメリカ中のイギリス軍を支援することができた。

イギリスにとっての問題は、どれだけの兵力を注ぐかだった。7年戦争が終わって、イギリス軍は縮小していた。1775年の時点でその数は45,000名であり、これで植民地のすべてと本国の防衛を行わなければならなかった。アメリカ大陸には、西インド諸島を含めて10,500名が派兵されていた。

(本誌では、アメリカ革命を決定した戦いは、Lexington-Concord-Bunker Hill、Saratoga、Yorktownの三つであり、イギリスが敗北した原因は、一時的なイギリス海軍の弱体化、民兵をイギリス軍の補充兵として動員できなかったこと、7年戦争の結果、政治的に孤立していたことをあげています。)

デザイナーズノート「American Revolution」
本ゲームはアメリカ革命を戦略的視点から見ており、特に重要だったのは、軍事的勝利とより大きな政治情勢との相関関係を描くことだった。
この視点から見た場合、Bunker Hill、Saratoga、Yorktownの三つの戦いが特別な意味を帯びてくる。
Bunker Hillは世界に放たれた反乱開始のシグナルであり、Saratogaの戦いによってフランスが公に革命軍側に介入し、Yorktownでアメリカ革命が完了した。
政治Pointは、本ゲームの中核的な補助システムであり、Playerはこれによって軍を増強したりキャンペーンマーカーを得ることができる。この補助システムは、もうひとつの補助システムである三つの政治トラックと連動しており、政治トラックはそれぞれ、アメリカ革命の進捗度、植民地各地域の忠誠度、ヨーロッパの政治バランスを表す。

American Revolution iWARSIMモジュールファイル

American Revolution map errata

American Revolution ゲームレビュー

American Revolution 日本語ルール(エラッタによる訂正後)

American Revolution 英文エラッタ(Consim)

 

More accurate view of Washington crossing debuts (より正確なワシントンの渡河デビュー)
S&Tにも掲載された有名な『デラウェア川を渡るワシントン』は、1776年12月のクリスマスに、ジョージワシントンがTrentonのドイツ人傭兵に奇襲をかけた時の様子を描いたものである。
この攻撃でワシントンは22名のドイツ人傭兵を殺害、900名を捕虜にした。それに対してワシントン軍の消耗はわずか3名だった。未来の初代アメリカ大統領によるこの作戦は、未経験だったアメリカ軍の士気を上昇させた。

歴史家であり画家でもあるMort Kunstlerによれば、Emanuel Leutzeによるこの絵画は、次の三つの点で史実と異なっているという。
1. ワシントンが渡河したのは吹雪の夜だった。
2. 使用した船は手漕ぎ船ではなく、ラフト(筏)だった。
3. 当時、星条旗は存在しなかった。(星条旗が制定されたのは6ヵ月後)

今週(2011年12月25日)、ニューヨークの歴史博物館に展示されたKunstlerによる絵は、これらの点を修正したものである。
「まともな神経の持ち主なら操漕している手漕ぎ船の上で立ち上がろうとしない。」とKunstlerは言う。「そんなことをしたら船は転覆してしまう。Leutzeは、おそらく当時の知識でワシントンを神聖化したかったのだろう。」

Kunstlerは、ラフトは推測によるものだと言う。ラフトでなければカノン砲や軍馬を運ぶことができなかった、という理由からである。

スターリング・ブリッジの戦い: Braveheatの勝利

1297年8月、すべてのイングランド軍はスターリング城をめざして北に移動していた。
軍を率いたのは、エドワード1世によってスコットランド総督に任命されたサリー伯ジョン・ド・ワーレンと財務府長官ヒュー・ドゥ・クレッシンガムの二人の司令官であった。彼には勝算があり、それには十分な裏付けがあった。スコットランド軍のような中世の歩兵中心の部隊は、馬中心の騎士集団にほとんど勝ったことがなかった。そして過去の戦場において、イングランド軍は負けたことがなかった。
前年のダンバーの戦いで圧倒的勝利を納めていたド・ワーレンは、敵を無秩序な寄せ集めだと信じていた。彼と配下の騎士達は敵対者を軽蔑していた。

この時、スコットランドは統治者不在だった。スコットランド独立戦争のはじまりとなった1296年のエドワード1世の侵略によって、スコットランド王ジョン・ベイリャルはロンドン塔に監禁されていた。貴族のほとんどは監禁されるか政治的に蚊帳の外に置かれるか、あるいはエドワード1世のためにフランスで騎士団を率いて戦争していた。

フォース川北岸に布陣するスコットランド軍の司令官は、Braveheart・ウィリアム・ウォレスとアンドリュー・マレーだった。スターリング橋を隔ててイングランド軍と対峙する彼等は、イングランド軍の半分の勢力しかなかった。

(スコットランド独立戦争初の大勝利となったスターリング橋の戦いは、映画「Bravehart」ではフィクションを添えて描かれています。)

Mukdenの戦い - S&Tが解釈した日露戦争

Matthew Perry提督と徳川将軍が1854年に神奈川条約に調印した時、日本は何世紀にもおよぶ鎖国政策に幕を下ろした。島国と世界との貿易は拡大し、日本の近代化が始まった。
貴族政治の担い手であり、伝統に縛られた士族階級はこの変革に抵抗し、封建的社会制度に組み込まれていた他の多くの日本人もまた同様に抵抗したが、それから15年のうちに徳川家の支配は後に明治天皇と呼ばれるMutsuhiro天皇の新政府にとって代わった。

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タスクフォース VIKING: アメリカ軍事介入のモデル

1991年にクウェートでサダムフセインが敗れた結果、イラク領内のクルド地域は独自の政府を持つ擬似的な独立国になっていた。
90年代半ばまで、二つの政党、Kurdish Democratic Party(KDP)とPatriotic Union of Kurdistan(PUK)が低レベルの内戦をしていた。1998年までに、この二つの派閥は相違を乗り越え、サダムフセインに対する戦いを開始した。彼らの目的は、国境の都市Irbil、Kirkuk、Mosulの支配であり、peshmerga(「死と直面する者達」という意味)と呼ばれる70,000名の民兵を動かすことができた。
peshmergaの武器は旧ソビエト製のものであり、民間トラックで移動した。アメリカ大統領ジョージ W.ブッシュがイラク侵攻を決定した時、これらのクルド人には自然かつ熱烈な同盟者になる用意ができていた。

トルコ政府が、アメリカ第四歩兵師団のトルコ国内通過を拒絶した時、タスクフォースVIKINGが編成され、イラク北部への侵攻が任務として与えられた。
その任務はpeshmergaと連携して、Bashur空軍基地の確保し、テロリストグループAnsar al-Islam(AAI)の壊滅させ、イラク第13師団と交戦することで釘付けにすること、であった。

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