アメリカ合衆国が南北戦争を終えた頃、パラグアイの赤土は、大帝国とその同盟国との、孤立国に対する大紛争でより赤く染まった。三国同盟戦争と呼ばれるこの紛争において、1868年12月のデセンブラダ戦は、戦略的先見性と愚行、希望の持てない抵抗と不撓不屈の戦意という点で突出している。
この攻略は、パラグアイ陸軍の壊滅と、ソラーノ・ロペス政権(パラグアイ大統領)の転覆を目的としていた。
デセンブラダ戦を構成する三つの激戦、イトルオル(Itororo)、アバイー(Avai)、ロマス・バレンティナス(Lomas Valentinas)の中で、小さな橋をめぐっての死闘・イトルオル川の戦いは、テルモピレーにおけるスパルタ軍の頑強な抵抗を想起させる。
すなわち、数において劣勢なパラグアイ軍は強大なブラジル軍に対し、イトルオル川の隘路で果敢な抵抗を行った。
イトルオルの戦い
三国同盟戦争が始まって三年目、「西のセバストポリ」と呼ばれたパラグアイ軍のウマイタ要塞(Humaita)が陥落すると、ソラーノ・ロペスは首都から35km南、ピキュリ川(Pykysyry)北岸のロマス・バレンティナス高地に最後の抵抗線を築いた。
三国同盟軍司令官カシアス公は、バレンティナス高地へのコストのかかる正面攻撃を避け、アルゼンチン軍とウルグアイ軍によって、パラグアイ軍を釘付けにしながら、自軍はパラグアイ軍の背後に迂回し攻撃するプランを立てた。
ブラジル軍の上陸地点はビレッタ(Villeta)が望ましかったが、既にパラグアイ軍が占領していたため、そこからさらに2km北方のサンアントニオ(San
Antonio)に上陸した。
サンアントニオからビレッタを攻略するにはイトルオル川を横断しなければならなかった。イトルオル川は水深5mの急流で、両岸は切り立った崖、唯一の橋は、ろくに整備されていない幅4mの木製のものだった。
ブラジル軍はビレッタを攻撃すると思っていたソラーノ・ロペスは、彼らがサンアントニオに上陸したことに驚いたが、上陸地点にキャンプを張って動かないことにも驚いた。
イニシアチブを取ったのはロペスだった。ブラジル軍の南下を阻止するため、パラグアイ軍は5,000名の兵力と12門のキャノン砲でイトルオル川の橋を固めた。
結末
イトルオル川を突破した時のブラジル軍の損害は1,806名(死亡、負傷、行方不明を含む)であり、これは全兵力18,667名の9.6%に相当する。それに対し、パラグアイ軍の損害は5,000名中1,200名(24%)であった。
Bernardio Caballero将軍(パラグアイ)が劣勢であるにもかかわらずブラジル軍に多大の損害を出したことから、パラグアイの歴史家の中には、イトルオルの戦闘をパラグアイ軍の勝利とみなす人がいる。
事実、第二次大戦のイタリア戦線でブラジル遠征隊が大損害を出すまで、イトルオル川の戦いは、一回の戦闘で、ブラジル軍が史最大の損害を出した戦闘だった。 |