Second Battle of Kharkov, 1942
#271 December 2011

第二次ハリコフ戦

1942年5月の第二次ハリコフ戦は、それを行ったソビエト軍にとっても、それを指揮したソビエト軍司令官達にとっても悲惨な結果に終わった。
なぜ悲惨な結果になったかを理解するには、当時のソビエトの戦略および作戦を知る必要がある。

1942年になりソビエト軍が春と夏の作戦を検討した時、スターリンと軍総司令部Stavkaは、ドイツ軍の主攻勢はモスクワであり、ロシア南方戦線への攻撃は、ありうるとしたら二次的なものであると結論づけていた。この結論に対する過剰な確信が、その後のスターリンおよび幕僚の判断に強い影響を及ぼすことになった。

参謀総長ボリス・M・シャポシニコフは、受動防衛を行いドイツ軍を疲労させた後の夏に反撃をするべきだと主張したが、モスクワを防衛していたゲオルギー・K・ジューコフ元帥は、防衛戦略に基本的に賛成しながらも、モスクワに接近しているドイツ軍には先制攻撃を仕掛けることを勧めた。
ジューコフ元帥のアグレッシブな提案はスターリンに採用され、その結果、先制攻撃の範囲はバルチック海から黒海まで拡大された。

スターリンは、ドイツ軍は昨年冬の撤退以来、疲弊したままで補給も伸び切っていると信じていた。彼に反攻作戦の実行を正当化させたのはこの確信だった。1942年にソビエト軍の総司令官だったアレクサンドル・M・ヴァシレフスキー将軍は後に次のように述べている。
「当時のソビエト軍の計画におけるもっとも脆弱な点は、防衛と攻撃を同時に行おうとしたことである。」
スターリンは参謀スタッフと前線司令官達に、Kharkov、Kursk、Vyazma、Leningrad、Demyansk、Karelian、Crimeaにおけるローカルな反攻計画の立案を命じた。

おなじ頃、ドイツ最高指令は膨大な議論の後に、ソビエト侵攻作戦の再開は初夏、地域は南方に絞ることに決定した。目的は「ソビエト軍を壊滅させ、戦争継続に必要なソビエト国内の資源を確保する(総統令41)」ことだった。ドイツ軍は、昨年のような全戦線での攻勢は不可能だった。
「ブラウ(青)作戦」と命名された第二次ソビエト侵攻作戦では、ドイツ南方軍集団がドネツ川に沿ってスターリングラードまで進み、そこから南下してコーカサス地方の油田地域を占領する計画だった。

結果的に、スターリンの同時防衛攻撃戦略は、Kharkov攻撃を担うソビエト南西戦区を、最もよく編成され、数において優るドイツ軍装甲師団の中に突入させることになった。

デザインノート「Second Kharkov」
ウォーゲームをプレイする理由のひとつは、その戦争や戦闘における編成の詳細な知識が得られることである。Paul Youdeの「Second Kharkov」は、まさにその好例で、カウンターシートを眺めるだけで、枢軸軍とソビエト軍の状態が理解できる。すなわち、ドイツ軍が8個装甲師団であるのに対し、ソビエト軍は約30個の戦車旅団である。

これは、両軍の当時の編成とドクトリンをよく表している。ドイツ装甲師団は、集約された少数のエリート部隊である。それに対し、ソビエト軍は戦車を量産し、戦場に分散して展開させた。本質的に、ソビエト軍の旅団は戦車大隊の集りであり、それに歩兵と軽砲兵が付属するにすぎない。

その他のドイツ軍の優位性は、いくつかのゲームメカニズムに反映されている。ドイツ軍師団ユニットは数ステップを持ち、損害を戦力の減少として吸収できる。ソビエト軍ユニットは1ステップしか持たないので、一回の損害で完全に除去される。
これは、当時のドイツ軍の組織的な回復力の高さを表現している。ドイツ軍は下位のリーダーシップと訓練が優れており、それゆえ戦闘中の再編成力が高かった。一方、ソビエト軍は、前年の大損害からの回復の途上にあった。

そして、アントライドユニット。初期配置で赤軍はユニットを裏面にして置く。両playerともにソビエト軍の戦力は不明であり、ドイツ軍ユニットと交戦してはじめて、そのユニットの戦力は明らかになる。
これは次の二つの機能を表現している。ひとつは、ドイツ軍から見た戦場の霧であり、交戦するまでソビエト軍の兵力がわからない。もうひとつは、ソビエト最高司令部の持つ不確実性であり、彼らは自軍の戦闘力を知らなかった。
このようにして「Second Kharkov」は、歴史的に重要な要素である東部戦線特有の混乱した戦闘を、ルールを複雑にすることなく、ドラマチックにゲーム化している。

Second KharkovのiWARSIMモジュールファイル (スクリーンショット)

 

パラグアイのテルモピレー: イトルオルの戦い

アメリカ合衆国が南北戦争を終えた頃、パラグアイの赤土は、大帝国とその同盟国との、孤立国に対する大紛争でより赤く染まった。三国同盟戦争と呼ばれるこの紛争において、1868年12月のデセンブラダ戦は、戦略的先見性と愚行、希望の持てない抵抗と不撓不屈の戦意という点で突出している。
この攻略は、パラグアイ陸軍の壊滅と、ソラーノ・ロペス政権(パラグアイ大統領)の転覆を目的としていた。
デセンブラダ戦を構成する三つの激戦、イトルオル(Itororo)、アバイー(Avai)、ロマス・バレンティナス(Lomas Valentinas)の中で、小さな橋をめぐっての死闘・イトルオル川の戦いは、テルモピレーにおけるスパルタ軍の頑強な抵抗を想起させる。
すなわち、数において劣勢なパラグアイ軍は強大なブラジル軍に対し、イトルオル川の隘路で果敢な抵抗を行った。

イトルオルの戦い
三国同盟戦争が始まって三年目、「西のセバストポリ」と呼ばれたパラグアイ軍のウマイタ要塞(Humaita)が陥落すると、ソラーノ・ロペスは首都から35km南、ピキュリ川(Pykysyry)北岸のロマス・バレンティナス高地に最後の抵抗線を築いた。
三国同盟軍司令官カシアス公は、バレンティナス高地へのコストのかかる正面攻撃を避け、アルゼンチン軍とウルグアイ軍によって、パラグアイ軍を釘付けにしながら、自軍はパラグアイ軍の背後に迂回し攻撃するプランを立てた。
ブラジル軍の上陸地点はビレッタ(Villeta)が望ましかったが、既にパラグアイ軍が占領していたため、そこからさらに2km北方のサンアントニオ(San Antonio)に上陸した。
サンアントニオからビレッタを攻略するにはイトルオル川を横断しなければならなかった。イトルオル川は水深5mの急流で、両岸は切り立った崖、唯一の橋は、ろくに整備されていない幅4mの木製のものだった。

ブラジル軍はビレッタを攻撃すると思っていたソラーノ・ロペスは、彼らがサンアントニオに上陸したことに驚いたが、上陸地点にキャンプを張って動かないことにも驚いた。
イニシアチブを取ったのはロペスだった。ブラジル軍の南下を阻止するため、パラグアイ軍は5,000名の兵力と12門のキャノン砲でイトルオル川の橋を固めた。

結末
イトルオル川を突破した時のブラジル軍の損害は1,806名(死亡、負傷、行方不明を含む)であり、これは全兵力18,667名の9.6%に相当する。それに対し、パラグアイ軍の損害は5,000名中1,200名(24%)であった。
Bernardio Caballero将軍(パラグアイ)が劣勢であるにもかかわらずブラジル軍に多大の損害を出したことから、パラグアイの歴史家の中には、イトルオルの戦闘をパラグアイ軍の勝利とみなす人がいる。
事実、第二次大戦のイタリア戦線でブラジル遠征隊が大損害を出すまで、イトルオル川の戦いは、一回の戦闘で、ブラジル軍が史最大の損害を出した戦闘だった。

分析: 1191年のアルスフの戦い

第三回十字軍はエルサレムを奪還できなかったがゆえに失敗である、という既成概念は、1189?92年のキプロスおよびパレスティナにおける十字軍の成功を目立たなくさせている。
港町アッコンをめぐるイスラム軍と十字軍の攻防は、イギリス王リチャード1世とフランス王フィリップ2世の援軍によって、100,000名の犠牲を出しながらも、十字軍の勝利に終わり、戦略的に重要な港町を奪還することができた。
リチャード1世がキプロス、アルスフ、ヤッファ、シドンを占領することによって、フランク人(十字軍)のエルサレム王国は地中海の湾岸部に保たれ、その後数世紀の間、キリスト教国が地中海の制海権を持つことに貢献した。エルサレムは依然、イスラムの支配下だったが、停戦協定の中の「非武装のキリスト教徒の巡礼者がエルサレムを訪れることを許可する」という条件は、まさにリチャード1世の遠征の戦略的成功によるものである。
リチャード1世は、フランス王フィリップ2世とジョン(John Lackland)との陰謀を阻止するため、ヨーロッパに戻らなければならなかったが、そうでなければエルサレムも奪還できていたかもしれない。

機動核基地と提督たちの反乱

1940年後半、アメリカの軍事エリート達は、いずれ来る世界大戦においては核兵器が勝敗を決すると考えた。具体的には、空軍の爆撃機やミサイルによって運搬される原爆と水爆こそが戦争の行く末を決めるのであり、他のすべての軍事サービスは無用の長物となると言われた。
もちろん、陸軍と海軍の高官達はこのシナリオを好まなかった。
陸軍は、1950年になり朝鮮戦争が勃発したおかげで、大量かつ有効な地上兵力がアメリカ合衆国に必要であることを証明することができたが、1946年7月のビキニ諸島の核実験は、海軍機動艦隊を過去のものにした。空母Saratoga、戦艦Arkansas、戦艦Nagatoが沈み、巡洋艦Prinz Eugenも大きな損傷受けた。戦艦は核爆弾の直撃を受けなくとも容易に破壊されることがわかった。機動部隊の密集隊形は、核兵器にとっては絶好のターゲットとなることが判明したのである。
海軍は自身が合衆国に必要であるための任務を考案しなければならず、そこで出てきたのが「核海上機動基地」と「超大型空母ユナイテッド・ステーツ」の構想だった。

「提督たちの反乱」とは、海軍高官達が空軍および国防省のシビリアンコントロールを公に批判した事件である。その起源は、第二次対戦中の政府内のライバル意識に求められる。
戦時中から、多くの海軍高官は海軍省を陸軍省と統合することに反対し、その態度は1947年に国家安全保障法によって国防省が誕生した後も変わらず、空軍がすべての航空兵力を統括するようになると不満は増大した。
アーレイ・バーク大佐によって率いられた調査グループは、空軍の長距離爆撃機B-36およびそれを建造するコンソリーテッド・バルティ社を批判する資料を作成した。
海軍が考えた独自のプランは「超大型空母ユナイテッド・ステーツ」だった。海軍高官達は、アメリカ合衆国が来る戦争に対し、核ミサイルの応報という一種類の手段しか持とうとしないことに対して否定的だった。シーレーンやテリトリーのコントロールといった任務には核兵器は無効であり、従来型の通常兵器が適すると考えていた。

Admiral Arleigh A. Burke Officers' Club
横須賀にあるA A. Burke Officers' Clubは、米軍士官のエスコートがないと入れない身分制クラブである。
アーレイ・バークは、太平洋戦争では22回の海上戦闘に参加し、日本海軍の巡洋艦1隻、駆逐艦9隻、潜水艦1隻などを撃沈破、航空機約30機を撃墜、カミカゼ攻撃にも遭遇している。
戦後は露骨に日本人を蔑み嫌っていたが、元海軍中将草鹿任一と知り会ってから親日家となり、海上自衛隊の創設に協力した。本人の遺志により、葬儀で遺骸の胸につけられていたのは日本の旭日大綬章だけであったと言われる。