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Mukdenの戦い - S&Tが解釈した日露戦争

Matthew Perry提督と徳川将軍が1854年に神奈川条約に調印した時、日本は何世紀にもおよぶ鎖国政策に幕を下ろした。島国と世界との貿易は拡大し、日本の近代化が始まった。
貴族政治の担い手であり、伝統に縛られた士族階級はこの変革に抵抗し、封建的社会制度に組み込まれていた他の多くの日本人もまた同様に抵抗したが、それから15年のうちに徳川家の支配は後に明治天皇と呼ばれるMutsuhiro天皇の新政府にとって代わった。
たくさんの士族がこの新しい中央集権政府に反乱を起こしたが、彼等は抑圧され、最終的に軍事力および政治力によって消滅した。

明治維新のプログラムの一環に工業力育成があり、結果的に、他の分野における整備と同様に、軍事インフラストラクチャが急速に成長し、兵器の生産と下士官の教育が発展した。
日本人は、外国の軍事アドバイザー、特にフランス人から多くを学び、ヨーロッパやアメリカの陸海軍に士官候補生を送って学ばせた。
小規模な日本の常備軍は徴兵制によって多数の予備役を持つようになり、やがて日本経済が成熟すると、その軍事力によって中国およびその属国・朝鮮に影響を及ぼすようになった。
清朝中国は、何年にも及ぶ内乱と軍事的な失敗により弱体化し没落していた。日清戦争(1894 - 1895)が終わった時、日本は朝鮮のみならず台湾、Port Arthur、そして遼東半島の大部分を領有していた。

ロシア帝国は、その総合的な防衛政策から極東に感心を持ち、1890年代は太平洋への進出を模索していた。西側諸国は、日本が中国に大勝利を納めた後も、日本は後進国であり本当の近代戦では戦うことも勝つこともできないと考えていた。ロシアの指導層も日本が日清戦争で見せた機動戦、工業力、そして政治および軍事目標を短期間に獲得したリーダーシップを軽視、この戦争からほとんど学んでいなかった。
しかしながら、当時ロシアより軍事的経済的に劣勢だった日本は、外交により1895年にPort Arthurと遼東半島を返還している。

ロシアは、経済資本を投下することで自国の影響を朝鮮と満州に及ぼそうとした。太平洋に面した港・Vladivostokは夏の間しか使えず、ロシアは一年中使える軍港を求めていた。その港とはPort Arthurのことであった。
1897年12月、中国に圧力をかけたロシアは、Port Arthurとその周辺海域を25年間租借することに成功した(旅順大連租借条約)。この事実は、既に憤慨している日本をさらに憂慮させるに十分な事実だった。その一年前、ロシアは、日本による遼東半島領有を阻止した見返りとして、清朝政府から満州北部に鉄道敷設権を得ていた(三国干渉と露清密約)。この鉄道はシベリア鉄道をVladivostokまで結ぶものであり、満州北部を横断するものだった。
Port Arthurを租借したロシアはさらに、Vladivostokとの交通のために、南満州支線の建設をはじめた。この鉄道はHarbinとPort ArthurをMukden経由で結ぶもので、Vladivostokと遼東半島におけるロシア軍の存在は日に日に拡大していた。
1900年の北清事変は、ロシアにさらなる派兵の口実を与えた。中国に駐留する日本軍とロシア軍との間には支配地域についていかなる合意もなく、1903年1月に南満州支線がシベリア鉄道と連結されると、日本は自国の防衛と海外権益のためには武力行使しかないと考えるようになった。
翌年2月、参謀総長大山巌が明治天皇を説得し、シベリア鉄道が完成する前にIrkutskを叩くことが決定した。

初期の機動戦
日本軍が遼東半島で地上戦を行うためには、Port Arthurのロシア海軍を無力化する必要があった。
1904年2月7-8日、日本の舟艇が魚雷による奇襲攻撃を行い、Port Arthurのロシア艦艇に甚大な損害を与えた。その後数ヶ月間の海戦では双方大きな結果を得ることがなかったが、ロシア海軍の突破作戦もまた失敗に終わり、Port Arthurは封鎖状態が続いた。
おなじ頃(2月8日)、仁川港で二隻のロシア艦艇と交戦した日本軍はこれを破り、仁川港(Chemulpo - Inchon)を占領した。上陸したのは黒木為楨大将率いる第一軍であり、途上のロシア軍の小規模な抵抗を破りながら一ヶ月かけて北上、平壌(Pyongyang)に入ると南浦港(Namp'o)を占領した。これにより、鴨緑江会戦のための増援を日本本土から送ることが可能になった。

Alexei Kuropatkinがロシア皇帝から受けていた命令はPort Arthurを守ることだった。遼東半島には十分な兵力がなかったため、彼は撤退しながら時間を稼ぎ、増援によって増強した兵力で、Port ArthurとVladivostokから日本軍を挟撃するつもりだった。
4月の終わりまでに第一軍は鴨緑江(Yalu)に到達し、5月1日に靉河(Wiju)上流を渡って対岸のロシア軍を撃退した。

5月に入ると日本軍は遼東半島に上陸を開始した。
5日には、南浦港に待機していた第二軍(奥保鞏大将)が敵の抵抗を受けずに塩大墺(Pitsewo)に上陸、19日には大狐山(Takushan)に野津道貫大将の第四軍が上陸した。第二軍の目的は遼東半島南部を攻略(南山の戦闘)した後に北上することであり、第二軍の目的は、満州を西進する第一軍の左翼につくことだった。
6月6日には、乃木希典大将率いる第三軍が大連に上陸、これがその後6ヶ月続くPort Arthur攻略の始まりとなった。

それから数ヶ月の間、日本軍がすべての戦闘に勝った。ロシア陸軍の抵抗が実を結ばなかったため、皇帝はバルチック艦隊を極東に呼び寄せなければならなかった。Irkutskの部分が未完成だったシベリア鉄道は、一ヶ月に10,000名しか動員できなかったが、秋になるとKuropatkinは反攻をするのに十分な増援を得たと考えた。
しかしながら、ロシア軍が行った二度の反撃(10月5-17日の沙河会戦と1905年1月26-27日の黒溝台会戦)では決着がつかず、双方とも攻撃・補充・再編成を繰り返した結果、Mukden南部で停止状態に陥った。長く伸びた戦線は100kmに達していた。
にもかかわらずロシア軍の士気は高く、「Mukdenは我々の墓場、撤退よりも死をを選ぶ」というスローガンが兵士達によって唱えられた。

計画
日本軍にとって1905年は一大攻勢を掛けるべき年だった。彼等は前年の攻勢のモーメンタムを利用したかったが、凍るような寒さと甚大な損害によって、予備兵力を喪失していた。
大山巌は、バルチック艦隊が到来する前に地上戦を仕掛けなければならないこと、さもなければロシア軍が広大な大陸の奥深くに撤退してしまうことを知っていた。
彼はPort Arthur攻略を終えたばかりの第三軍の第十一師団と旅団を再編成して第五軍を創設した。川村景明大将指揮下の第五軍は、次の大攻勢では日本軍の最右翼に配置される予定だった。大山巌のプランでは、第五軍が偽の攻勢を敵の左翼に仕掛けながら、日本軍の中央部はその場を死守、ロシア軍が予備軍を左翼に移動したところで、日本軍の左翼 - 乃木希典の第三軍がロシア軍の右翼を叩く、というものであった。
数において劣勢である日本軍が、ロシア軍の構築された陣地を攻撃するには、兵力の集中・欺瞞・柔軟性に頼らなければならなかった。

Kuropatkinの戦略は、遼東半島を南下し、Port Arthurを奪還することだった。彼は、Port Arthurを再占領したなら戦場のイニシアチブはロシア軍に移り、シベリア鉄道による増援と極東艦隊の戦闘支援によって、満州および朝鮮半島から日本軍を駆逐できるだけでなく、日本本土への侵攻も可能だと考えていた。

Port Arthur攻略の拠点であるMukdenは、従って二重の防衛線によって守られていた。Port Arthurで山岳戦をした第十一師団が日本軍の東側に布陣していたことと、日本軍の積極的な情報戦により、Kuropatkinは、日本軍の攻勢が自軍の左翼に来るものと予想していた。

24日間の地上戦
2月19日、川村大将の第五軍がKuropatkinの左翼を攻撃、撫順(Fushun)に向かって進撃を開始した。それはこの時代最大の地上戦のはじまりであり、ロシア軍が計画していた反攻作戦は翌日キャンセルになった。
野津大将の第四軍は砲爆撃によってロシア軍中央部を釘付けにし、最左翼の第二軍は渾河(Hun River)に向かって進撃、乃木第三軍は新民(Hisn-min)に向けて進んだ。
Kuropatkinは少なくとも数日の間、日本軍右翼(東側)の第十一師団が第三軍の主力だと信じ、西側の乃木第三軍に観察以上の措置を講じなかった。ロシア軍がレネンカンプの1 Siberian Corpsを西側に送ったのは、乃木第三軍が50km侵攻してからだった。

日本軍は、前進した歩兵部隊に対して、砲兵による有効な火力支援を行うことができた。これを可能にしたのは電話と電報の広範囲な使用だった。電話線はまた前線と司令部を結び、タイムリーな情報収集とコミュニケーションを可能にした。大山巌らは、これを利用して命令決定を下し、戦場をコントロールしていた。
Kuropatkinも同じ技術を持っていたが、下士官達は新しいテクノロジーより伝令兵を好んだため、戦場の情報収集はひっきりなしに支障をきたした。彼の命令は古すぎたり、混乱した内容だった。たとえば、第五軍を迎撃するためにロシア軍左翼に送られた1 Siberian Corpsは、第五軍と出会う前に右翼に引き戻された。

3月8日、第二軍と第二騎兵連隊がChisatun近郊を襲うと、Kuropatkinは全軍を第二防衛ラインまで撤退させる命令を下し、翌日には、ロシア軍は傷病兵、武器、弾薬を残して潰走する集団になっていた。
3月10日に日本軍は奉天を占領したが、この時無傷だったのは二個師団であり、日本軍にも追撃する力は残っていなかった。

ロシア軍は戦場で大敗したものの、予備兵力の不足から、日本は決定的な勝利を得たわけではなかった。ロシア軍兵士の2/3は戦場を脱出し、3月13日にKuropatkinは鉄嶺(Tieling)に到着した。

勝利
最終的な勝利は、陸戦ではなく海戦によって得られた。
1905年5月、対馬沖で日本はバルチック艦隊を破り、ロシア政府は極東における拡張政策を断念した。
日本がMukdenの戦いで数に優るロシア軍に勝てた理由は、より優れ、より経済的な兵士の用法にあり、ひいては、卓越した指揮と兵士の高い士気によるものである。
日本はこのことをより短期間で達成しただけでなく、近代において、ヨーロッパの大国を打ち負かし帝国主義国家として成功した、アジアの最初の国として、世界覇権の舞台に登場したのだった。