COBRA 1944
#251 August 2008

Patton unleashed: Cobra 1944

ノルマンディの戦い: D-Dayからコブラ作戦まで
1943年10月25日、ゲルト・フォン・ルンテシュテット元帥は、ヒトラーに西部戦線の防衛のメモランダムを送った。ヒトラーが最初にとった行動は、B軍集団司令官エルヴィン・ロンメル元帥をフランスに送ることだった。水際作戦を主張したロンメルは、フランス北部の海岸線に5ヶ月かけて陣地を構築したのである。

コブラ作戦
サン・ローを落とした米軍が7月25日から開始した西部正面の突破作戦。指揮官はかつてパットンの部下だったブラッドレー。上陸時は第1軍の司令官だったブラッドレーは、第12軍集団の指揮官に昇格していた。コブラ作戦は、カーンを落とした英軍のグッドウッド作戦(東部正面)と連動していた。

ドイツ西方軍司令官だったルントシュテットは7月1日にヒトラーから解任されていた。ロンメルも7月17日に重傷を負い、7月20日のヒトラー暗殺事件によって更迭されていた。
コブラ作戦開始時のドイツ西方軍司令官は、ギュンター・フォン・クルーゲでB軍集団司令官も兼務していた。(クルーゲもまた防衛の失敗とヒトラー暗殺事件への嫌疑によって8月17日に更迭され、ベルリンに召喚される途中、青酸で自決している。)

作戦は、アメリカ軍の進撃ルート正面に位置したドイツ装甲教導師団(panzer lehr)への絨毯爆撃からはじまった。午前9時30分から1時間半にわたって落とされた2,000発の爆弾によって、6.4 X 2.2kmの範囲に1,000名の死者と1,000名の負傷者が出、戦闘可能な戦車は14両しか残っていなかった。この爆撃でアメリカ軍にも111名の死者と490名の負傷が出ている。

午前11時、米軍第9、11歩兵師団が進撃、第2、3装甲師団がリザーブで待機した。しかしながら、この日米軍は1.5キロしか進めなかった。しかし翌日第2装甲師団が10キロ、第3装甲師団が5キロ前進し、戦線に穴をあけた。

S&T#251付録ゲーム「Cobra」
「Cobra」は、SPIの同タイトルのリメイクであり、ルールブック32ページ、ユニットが追加、ルールも変更されている。
付録には、S&T#227「Vinger Joe's War」、#241「Twilight of the Ottomans」、#243「SEALORDS」、#239「Winged Horse」のバリアントルール・ユニットも付属している。

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Cobra デザイナーズノート
ゲーム「Cobra」の設定は、機動力のある軍が、機動力について劣る軍を縦断することである。しかし、後者は反撃するのに十分な戦力を持っている。機動力は次の二つの方法によって設計されている。ひとつは、ターンの構成にあり、機甲部隊を移動し戦闘させた後、さらに移動できるシステムである。ひとつのユニットが同一ターンに二度移動できることから、一般に"ダブルインパルス"と称される。機甲および機械化師団は、結果的にブレークスルー(敵陣突破)を実現できる。
もうひとつは、予備役ユニットの決定的な局面での使用である。防御側は、攻撃側の二次移動に備えて、前線のユニットをバックアップする部隊を置く必要がある。攻撃側も、戦闘によって生じた前線の穴を通じて侵攻できる機械化部隊を後方に置くべきだろう。

二次フェーズは、機動力の他に、不確実性の要素を加える。大きなブレークスルーが発生する時期は、双方がCRTを調べることで予想できるが、しばしば、予想できない機会が訪れる。すなわち、二次移動フェーズの直後に二次戦闘フェーズが来るとは限らないので、攻撃側の先鋒ユニットが前方に深く展開しすぎて、敵の反撃によって孤立することがある。これこそ、ヒトラーの命じたファレーズの反撃でドイツ軍が壊滅的打撃をうけた状況である。

機動力の要素を強化するルールとして、オーバランがある。これによりある種のユニットは移動しながら攻撃ができ、先鋒ユニットは敵の小規模な抵抗を突き破る。

プレイヤーは戦闘を厳密な計画によって行うのではなく、戦いながら計画を考えなければならないだろう。前線は静的ではなく流動的である。何が決定的だったかは、ターンの終わり、あるいはゲームの終わりまで完全にわからないだろう。


中国の軍事史 - 青銅器時代から現代
e1700年の中期まで、清王朝はヨーロッパとの貿易を広東に限定しており、貿易はイギリスがコントロールしていた。中国の貿易品は茶、絹、陶器、コットンであり、銀で支払っていたイギリスは、大きな貿易赤字を中国相手に出していた。
1793年、東インド会社の使節が貿易不均衡を是正する要請を中国に対して行ったが、道光帝は拒否、イギリスがアヘンを売ることで不均衡を是正しようとしたところ、アヘン戦争になった。
イスラエル空軍の歴史

a1948年5月15日、アラブ諸国は、誕生したばかりの国イスラエルに軍事侵攻、エジプト空軍は制空権を欲しいままにした。この時、イスラエル空軍(IAF)が持っていたのは第二次大戦時代のスピットファイアとC-47を改造した爆撃機しかなかった。(メッサーシュミットも25機あったが、エンジンがHe-111からの流用で操縦が不安定、味方からも恐れられていた。)

第四次中東戦争(1973)が、IAFが国際的な正規戦に使われた最後だった。ヨーロッパ、アメリカ、日本の急進派に支援されたパレスチナ人は戦法を非正規戦に移したからだった。
1973年6月、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)がエアフランスをハイジャック、IAFはこの救出作戦で、C-130によってコマンド部隊を移送、戦闘機の護衛もつけた (#232 エンテベ空港奇襲作戦)。また、1981年にはイラクの核施設をIAFが破壊している(#241 先制戦争 Operation Opera)。1982年のレバノン侵攻では、IAFは100機のシリア軍機を撃墜、それに対するIAFの損害は1機だった。1985年10月には、チュニジアのPLO司令部をF16で空襲、1995年にレバノンの発電所を爆撃、2006年の第二次レバノン侵攻では1200回の空襲を行っている(#245 2006年 レバノン侵攻)。

今日のイスラエルの敵は、ヒズボラ、ハマス、イスラム聖戦である。IAFの対ゲリラ活動への使用が多くなる中、2003年にはIAFの一部の搭乗員が、市民に犠牲者が出る攻撃への反対を正式に表明した。