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FYI: 2006年 レバノン侵攻
イスラエル軍(IDF)による2006年のレバノン侵攻は、1982年のベイルート侵攻以来の大規模な軍事行動だった。しかし、結果はHezbollahを壊滅させるのにほど遠いものだった。

領土内領土
Sheik Hassan Nasrallahが指揮するHezbollahは、シーア派のイスラム軍事組織で、イランから資金提供を受けている。Hezbollahの目標はイスラエルの滅亡とイスラム教による政治システムの復活である。
2000年、IDFがレバノンから撤退すると、そこにやってきたHezbollahはレバノン国内に領土内領土を作った。Hezbollahの「領土」とされる地域はLitani川(北)とイスラエル国境(南)に挟まれた幅50kmの地域であり、非公式な首都はBeit Jubailだった。これらの地域は丘陵の多い荒地であり、高地および谷間に数十の村落が存在する。レバノン政府が同地域に及ぼす支配力は皆無である。

キックオフ
2006年7月12日、Hezbollahがイスラエル国境を襲撃し、8名のイスラエル兵を殺害、2名を捕虜にしたのが戦争のはじまりである。イスラエルが行った報復は、各地のHezbollah拠点とレバノン国内のインフラストラクチュアの破壊だった。IDFが攻撃した施設は、レバノン全土の主要な道路、橋、シリアとを結ぶ峠のバイパスであり、Beirutの国際空港への空爆はニュース画像で有名になった。
これらの攻撃は、捕虜になったイスラエル兵を国外に連れ出すことを阻止するこぐらいしか役に立たず、Hezbollahはイスラエルに反撃するためにより多くの兵士を動員し、約4,000発のミサイルをイスラエル領内に投下した。

レバノン侵攻
小規模な襲撃を除いてIDFは7月22日までレバノンに地上部隊を送らなかった。7月22日、Golani旅団に率いられた部隊がBeit Jubailを襲撃、Mauron al-Rasで大規模な抵抗にあったものの、7月25日にBeit Jubailを占領する。
この勝利にもかかわらずIDFは戦果を拡大しなかった。IDFが8個旅団を投入したのは8月1日になってからである。そしてこれらの部隊はレバノン領内に6キロ侵入した位置で進撃を止めた。イスラエル政府は空軍とコマンド部隊でHezbollah軍を壊滅できると考えていた。IDFはBaalbek、Tyre、Ras al-Biyadaなどを攻撃したが、その間もHezbollahのロケット攻撃は鳴り止まなかった。

結末
IDFの攻撃による民間人の死傷者が増えるにつれ、停戦への国際的圧力が強まった。イスラエル閣僚が8月10日に決定したLitani川への進撃は、国連決議案1701に対立するものだった。IDFはRashafとMarjayounでHezbollahと激しく交戦、Bekka ValleyからのHezbollahへの補給路を遮断した。8月13日、イスラエルは修正された停戦協定に合意、翌日停戦が発動された時、IDFはLitani川以南のHezbollahのほとんどの拠点を破壊したのである。

分析
この戦争でイスラエルはいくつかの成功を獲得した。700名のHezbollah兵士を殺害、その中の440名は氏名と住所が判明している事実は、イスラエルが膨大な情報を獲得したことを意味している。Hezbollahが擁したFajir、Zelzal長距離ロケットランチャーの多く、および約100の短距離ロケットランチャーは破壊された。Beit Jubailのインフラは機能しなくなり、ベイルートの司令部は粉々になった。それでもHezbollahの組織は壊滅しなかった。

Hezbollahに勝利できなかった原因は、Ehud Olmert内閣の躊躇とIDF上層指令が採用した誤ったドクトリンにある。イスラエル政府の反応は混沌としたもので遅かった。Nasrallah司令部は6月14日まで爆撃されず、Olmert首相は7月21日まで、すなわち戦争がはじまった最初の一週間、予備役を招集しなかった。彼は7月22日までBeit Jubailに決定的な攻撃を命じなかった。さらに決定的な誤りは、8月1日までLitani川に進撃しなかったことである。
8月4日付けのイスラエルの新聞「Haaretz」は次のように批判した、
「Olmert首相は、Litaniへの攻撃をIDFに命ずることに消極的だった。8キロの深さの侵攻でIDFを止め、空軍力で戦争を終結させることを望んだ。軍事目標は明確でなかった。兵士が適切にトレーニングされていなかった。軍上層部の内部的対立を指摘する者もいる。」

Hezbollah軍
イスラエルの失敗は、イスラエル自らの過ちだけによるものではない。Hezbollahはイスラエルが過去に相対した、Palestinan Authority scrutiry forces、Fatah、Islamic Jihad、Hamasなどの民兵の集団とはまったく異なる敵である。

第一に、Hezbollahの兵士はシリア、イランでトレーニングを受けており、Iranian Revolutionary Guards Al Qodsのメンバーもいる。Hezbollahの兵士はボディーアーマーや夜間監視装置を装備し、小隊もしくは中隊単位で戦闘する。砲爆撃に対する防御方法を知っており、IDFが安全だと信じる村落に浸透することもできた。たとえばIDFは7月22日にBeit Jubailを占領したが、26日には激しい戦闘が再開し、イスラエル兵9名が殺害、27名が負傷している。

第二に、Hezbollah軍は遅延待ち伏せ攻撃にも長けている。最初にHezbollahが仕掛けた6月12日の戦いにおいて、Hezbollah軍は師団級支援砲撃の下、IDFの監視所に迫撃砲で攻撃、監視所を突破して2名のイスラエル兵を捕虜にした。次いでHezobllahは、追撃したきたMerkava戦車を地雷原に誘い、支援歩兵を砲撃した。
あるいは7月20日、Hezbollah軍はGolani旅団第51大隊をMaroun al-Rasの村落郊外におびき出し、迫撃砲、機関銃、対戦車攻撃を行った。
Hezbollah軍は旧ソビエトおよびヨーロッパ製の対戦車ミサイルを大量に装備しており、戦争中1,000発以上が発射され50発がイスラエル軍戦車に命中、そのうちの半分が重大な被害を与えた。
7月15日、HanitではHezbollah軍の放った中国製C802レーダー対船舶誘導ミサイルがイスラエルSaar-5ミサイルボートに命中、4名が死亡している。この時はエジプトの船舶もC802の攻撃を受けている。
Hezbollahは無人兵器さえ持っている。戦争の最終日、Hezbollahは二機の無人偵察機を飛ばし、一機は誤動作で、もう一機はイスラエル軍によって攻撃され、墜落した。

第三に、Hezbollah軍は絶対的な指揮統制下にあった。従来、パレスチナの軍事勢力を相手とする停戦協定は意味のないものだった。停戦後もイスラエルはミサイル攻撃を受けたのだ。ところが8月14日の停戦ではそうならなかった。これはHezbollah軍が高度の規律と中央からの指揮によって維持されていることを意味する。


レバノン南部で炎上するMerkava
後日談
8月28日のTVインタビューでNasrallahは、Hezbollahのイスラエル兵捕獲に対して、IDFが激しい報復を行うことを予想していなかったことを認めた。
「もし7月11日に、翌日の作戦があれほどの戦争につながることを知っていたなら、果たして私はあの作戦を行っただろうか?答えはノーだ。絶対にしなかった。」
このインタビューが示唆することは、HezbollahはIDFの報復攻撃に完全な用意ができていなかったことであり、Hezbollahの指導者も安全な場所にいなかった、ということである。もしイスラエルが素早い空襲と陸海合同作戦を行っていたなら、Hezbollahのリーダーシップは破壊され、組織は壊滅的な打撃を受けていたかもしれない。