Red Dragon Rising
#250 July 2008

Red Dragon Rising: 21世紀の中国軍事力

背景
米中関係の歴史は、難解であると同時に循環的であると言うべきである。第二次大戦中、アメリカは日本と戦うために共産党のリーダー毛沢東と密接な関係を持ち、重要な軍事作戦(複数)を行った。しかし、蒋介石率いる国民党とより強固な関係を持っていたアメリカは、戦後に毛沢東との接触を絶ち、国民党を全面的に支持した。

中国共産党が内戦に勝った時、アメリカと共産党との外交接点は皆無であり、1949年、中華人民共和国は西側諸国に対し、あからさまな敵意を示した。
1950年の朝鮮戦争では、ソビエトは北朝鮮を支持した。北朝鮮の計算された賭けは、アメリカと国連が参戦したことで失敗に終わり、連合軍は鴨緑江まで達するほどの軍事的勝利をおさめた。この時になって中国は、数度の警告を国連に出した後、軍事介入を行ったのである。その結果、朝鮮戦争は膠着状態に陥った。

その後の数十年間の米中関係は冷え切ったものであり、アメリカは共産党政権を認めず、台湾の国民党政府を支持した。1970年代にワシントンと北京が外交交渉をはじめた背景には、増強するソビエトの国力を中国政府が脅威ととらえた事実があった。ニクソンは中華民国(台湾)への外交支援を停止、1971年、国連は中華人民共和国(中国)の加盟を認め、中華民国を追放する決議を可決した。同時にアメリカは、中国の台湾に対するいかなる軍事力の行使に反対する、と表明した。

1989年の天安門事件までの二十年間、アメリカと中国の軍事・経済関係は発展した。冷戦構造の消滅によって、アメリカにとっての中国の戦略的地位は落ちたが、依然経済関係は強く、中国は世界史でもまれに見る経済発展を遂げた。

台湾海峡ミサイル危機
1996年、台湾で活発になった独立運動に対し、中国は恫喝で対抗した。台湾総統選挙における独立派候補の李登輝を牽制するため、基隆沖海域にミサイルを撃ち込んで威嚇行為を行った。これに対するアメリカの反応は原子力空母ニミッツを含む二隻の空母の派遣だった。中国は軍事演習を中止せざるを得なくなり、威嚇は失敗に終わった。

2001年9月11日のWTC攻撃は、世界状況を根本的に変えた。アメリカはテロリズムへの戦争を仕掛けたが、イラクでの軍事的失敗は、アメリカの軍事的・政治的能力を疑わしめる結果となった。一方、中国は、その拡大し続ける経済を支えるため、中東とのシーレーンの維持に多大な関心を持っている。

Red Dragon Rising: The Coming War with China
付録ゲーム「Red Dragon Rising」は、次の三つの仮定から成り立っている。
第一に、中国は侵略者であること。政治的に正しく言うなら彼らは修正主義者であり、西太平洋における現状をひっくりかえそうとしている。
第二に、戦争は不可避的に台湾から始まる。この島は、東アジアの覇権を獲得する上で北京が最初に無力化しなければならない戦略ブロックである。
第三に、戦争は核攻撃から始まらない。しかし、核戦争の危機を招くエスカレーションはありえないことではない。

(ルールの日本語訳が存在するようです。)

猛牛の角先: イサンドルワナとローク浅瀬の伝道所の戦い

ズール戦争(1879年)の原因は、まれに見るほど単純である。複雑な政治的策略や悪意に満ちた国際陰謀が背景にあったわけではない。南アフリカを治める英国最高司令官バートル・フリーア卿(Henry Bartle Frere)が、隣接するズール王国の軍事力に脅威を感じたからだった。

文明の衝突
ズール族とその国王セテワヨ(Ceteshwayo, or Cetewayo)に関してフリーア卿が得た情報は、ズール族を恐れる他の種族によるものだった。フリーア卿は、ズール族,の40,000名の常設軍は、南アフリカ全土を占領する意図があり、イギリス軍の隙を伺っている、と判断したがこれは誤りだった。
大英帝国が持つ軍事力と技術を熟知していた国王セテワヨは、英国植民地(南アフリカ)との共存共栄を望んでいた。ズール社会は、平時においても強力な軍隊を必要としていた。軍事力は王国の柱であり、不確実な戦争にその軍を投入することは、王国の政治的・軍事的破滅だった。

1878年10月、二名のイギリス人測量士が一時的だが国境侵犯でズール王国に逮捕され、英国国教会の宣教師は、国王セテワヨに布教活動を妨害され、王国はキリスト教に改宗したズール族を殺害している、と報告した。奇妙なことに、宣教師の中で誰一人傷つけられた者はなく、殺害されたというズール人も特定されなかった。おそらく、宣教師達は自分達の生命が脅かされているという口実を作ることで、紛争が予想される教区から脱出したかったのだろう。

これを受け、フリーア卿は直ちに本国に増援部隊を求めたが、この時のイギリスは第二次アフガニスタン戦争を始めていた。ロシアとの戦争を懸念していたロンドンはフリーア卿に対し、ズール族との対立を避けるよう書簡を送った。
不幸なことに、この文書はフリーア卿が国王セテワヨに対し恫喝する要求を出した後に届いた。フリーア卿の要求は、ズール族はイギリスが裁定する地域に入らないこと、イギリス軍によるズール王国の首都の占領を認めること、ズール国王は人質をイギリスに出すこと、牛500頭の賠償をイギリスに支払うこと、などだった。
フリーア卿にとって驚くべきことに、国王セテワヨは牛500頭の賠償をイギリスに支払ったが、他の要求は拒絶した。両軍は軍を展開し、1879年1月6日、イギリス軍がズール王国に侵入した。

国王Cetshwayo(セテワヨ)

"私は英国を愛する。私はビクトリア女王の子である。しかし、私はまた、わが国の王である。私は独裁しない。私は最初の死者となる。"

Cetshwayo国王 1877年

1832年生まれ、後の国王となるCetshwayo KaMpandeは文字通り、戦いによって王座を得た。
彼の父であり国王のMpande kaSenzengakhonaが、自分の弟Umbulaziに王位を継承させたがっている、と疑ったCetshwayoは、Umbulaziと戦争、1856年12月にTugela川の決戦で勝利し、Umbulaziを殺害した。翌年、Cetshwayoは部族の全権を掌握、父Mpandeの国王の地位は名目上のものとなった。

Cetshwayoは、ズールの軍事システムを創設した叔父のChaka王の軍事的素質を受け継ぎ、イギリスとボーアに対しては父Mpandeの平和政策を受け継いだ、と言われる。(Mpandeはボーアの支持によってズールの国王に擁立されていた。)
彼はChaka王時代の軍制を復活させ、軍隊を増強した。マスケット銃を導入したという説もある。 1872年のMpandeの死までCetshwayoは国王を名乗らなかった。

Cetshwayoは、ズール族の習慣に従い、公平かつ狡猾に国を支配したが、植民地的野心を持つ大英帝国との戦争を避けることはできなかった。
イサンドルワナとローク浅瀬の伝道所の戦いでズール軍に甚大な損害で出ると、彼は権威の基盤が崩壊したことを悟った。1884年に52歳で亡くなるまで、Cetshwayoは辺鄙な土地に隠棲した。


セテワヨ国王
過去のS&T
50号前#200
French Foreign Legion

Joseph Mirandaによる19世紀のフランス植民地の戦役のゲーム。Tim Kuttaが特集記事、Charles Kampsが北ベトナムの空軍戦、Jim Dunniganによる現実をシミュレートする極意、Wilbur Gray大佐によるウォーゲームの小史、199号までのS&Tの目次、など。

100号前#150
Salerno

John Schettlerによるイタリア戦役のシリーズ。Richard Bertholdのアレキサンダー大王とマケドニア軍の記事、普仏戦争の武器と戦術の記事をStevan Fratt。

150号前#100
Superpowers at War

近未来のヨーロッパの戦争をDavid CookとDoug Nilesがゲーム化。Sprague deCampが古代の戦争兵器、Ricahrd Bergによるゲームレビュー、Al Nofiが米国陸軍の戦闘序列、Greg CostikyanとDave IsbyがS&TとSPIの回顧談。
200号前#50
Battle for Germany

Jim DunniganとRed Simonsenによる第三帝国最後の抵抗のゲームは、アメリカ軍とソビエト軍がベルリン占領を競うユニークなシステム。特集記事はStephen B. Patick、David Isbyが弩級戦艦(Dreadnought)の時代。
最初の軍拡戦: 英独の海軍競争と第一次大戦の勃発

18〜19世紀において、大英帝国の権力の源はロイヤルネイビー - 王立海軍 - だった。イギリスの海軍は世界中の植民地と帝国の商業的利益を守った。

当時のイギリスは「二国標準主義」を採用、これの意味するところは、イギリスの海軍力が他の強国2国を合わせたものよりつねに優位であるなら大英帝国は安泰、というものだった。そしてイギリスの最大のライバル、フランスとロシアは、19世紀の終わりには陸軍重視の編成となり、その海軍力はイギリス海軍に遠く及ばないものだった。

1871年、プロイセン王を皇帝に戴くドイツ連邦国家が誕生すると、ドイツはヨーロッパ随一の地上軍を誇るようになった。
一連の戦争でデンマーク、オーストリア・ハンガリー、フランスを打ち負かしたドイツは、1897年ヴィルヘルム2世の時代にアルフレート・ティルピッツ(Alfred Tirpitz)を海軍大臣に任命した。ドイツはイギリスの海上優位に挑むべく、弩級戦艦(Dreadnought)の建艦に乗り出したのだった。

第回次十字軍における西側の戦争術

「聖地」とは、今日のイスラエル、レバノン、ヨルダン川までの南シリアを指す。その地域には、もちろん、エルサレム市および新約聖書に記されたキリストが生活したり布教した場所が含まれる。

「聖地」は世界史おいてもっとも紛争が多かった地域のひとつであり、イスラエル王国、ユダ王国、エジプト、アッシリア、バビロン、ペルシャ、マケドニア、シリア王国セレウコス朝などの国の一部だった。
1世紀までにローマ帝国に編入された「聖地」は、パレスチナとも呼ばれた。5世紀に西ローマ帝国が滅亡するとパレスチナはビザンチン帝国の一部となったが、7世紀にビザンチン帝国は小アジアまで押し戻され、パレスチナはイスラム教圏となりカリフ制が敷かれた。

聖書の登場人物と同じ道を歩む聖地巡礼は、11世紀までには不可能でないにせよ困難なものとなった。
カリフは対立する戦闘分派に分かれ、1071年、セルジュクトルコがマンジケルトの戦いでビザンティン軍を破ると小アジアもイスラム圏となり、ビザンティンの貴族は内戦をはじめた。かつて安全だった巡礼の道は、強盗、殺人、背信の道になったのだった。

予告

次号は二枚のマップが付属する特大号で、SPI「Cobra」のリメイク。以下はその次の12号の時代別ゲーム予告。

アメリカ史 252: The New Mexico Campaign, 1862 258: Santiago Campaign (Spanish-American War)
第二次大戦 253: Kursk 259: Battle for China
古代 254: Hannibal's War 260: Great Medieval Battles (Crecy & Navarette)
第一次大戦 255: First Battle Over Britain, 1917-18 261: First Blood Verdum
ガンパウダー 256: Marlborough's Battles: Ramilies & Malplaquet 262: Frederick's War
近代 257: Cold War 2 (Kabul & Wurzburg) 263: Chosin

予定されている特集記事のタイトルは次の通り。
Battle of Lang Vei、30 Years War、Cybernetic Warfare、Rescue of Mussolini、Canadian Rebellion, 1837、Battle of Manzikert、Antipater、Battle of Sand Creek & Franklin、Rio de Plata 1806-07。

World at War創刊号

Decision Games () から「World at War」が発売された。全60ページ。創刊号の目次は次の通りです。

- Joseph Mirandaによるバルバロッサ作戦からベルリン侵攻までの特集記事
- マーケットガーデン作戦
- ドイツ空軍のアメリカ爆撃計画
- ニューギニア・ビアク島、知られざる失敗

付録ゲームはSPI「Barbarossa」のリメイクだが、CRT、ユニットが変更されており別物のようである。

刊行予定表。年6回の発行だという。

東部戦線 1: Barbarossa 5: Finnish Front, 1941-42 9: Destruction of Army Group Center
太平洋戦線 2: Solomons Campaign 6: Great East Asia War 10: Coral Sea Solitaire
西部/地中海 3: The Bulge 7: Greek Tragedy 11: Salerno
その他 4: USAAF 8: Arriba Espana! 12: 1940: What if?