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エンテベ空港奇襲作戦 1976年6月27日午前11時35分、テルアビブ発のエールフランス139便は銃客の乗り継ぎと給油のためにアテネ空港に着陸した。状況はハイジャクに最適だった。空港ターミナルは乗り継ぎ客でごったがえしており、ギリシャの空港はその警備の杜撰さで有名だった。 (この記事はS&Tの翻訳とは異なります。) |
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ハイジャック 彼らは元歯科医師Wadia Hadadの指揮下にあり、Hadadはソマリアのモガディシュから指揮をとっていた。他のテロリストとは異なり、Hadadは公衆の中に姿を見せず顔写真を取られないよう注意していたため、当時からその素顔は不明であった。1970年にベイルートでカチューシャロケットの攻撃を受けて以来、Hadad
は暗殺されることに細心の注意を払い、居場所も転々と変えていた。1950年からテロ運動に加わっていた彼は、1972年のテルアビブ・ロッド空港乱射事件、1973年のミュンヘン・オリンピック、イスラエル選手団の襲撃などの首謀者のひとりで、イスラエルがその首を欲する最も危険なテロリストの一人だった。 Hadadがウガンダを選んだ理由は、そこがイスラエル軍による軍事行動が不可能な遠隔地であるからであり、ウガンダの大統領アミンが反ユダヤだからだった。アミン大統領は、ホロコーストによるユダヤ人虐殺は実在しなかった、と公言していた人物で、エンテベ空港に139便が着陸すると自ら出向かえ、「私はPFLPを支持する。人質に罪はないが人質の国家に罪がある。」と声明した。 139便の人質は全員旧ターミナルビルに収容され、ユダヤ人と非ユダヤ人の選別が行なわれた後、49名は解放されたが、192名のユダヤ人は人質として残され、旧ターミナルビルはウガンダ軍によって警護された。しかもPFLPは「イスラエル軍の航空機がエンテベ空港上空を通過したなら、人質全員を殺害する。」と警告していた。 |
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不可能な作戦 残された方法はC-130ハーキュリーを空港に着陸させて旧ターミナルビルに突入することだったが、ウガンダ軍と交戦になった場合、救出部隊と人質に多大の犠牲が生じることが予想された。しかもイスラエルからエンテベ空港までの3500kmはC-130ハーキュリーの航続距離内ではあったが、イスラエルに帰るには燃料が足りなかった。イスラエル内閣の多くは軍事手段の成功に懐疑的で、テロリスト釈放の準備を進めていた。 |
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奇襲サンダーボルト 作戦は、次の通りであった。
作戦には2機のB-707が、それぞれ指令機と救急機として同伴した。C-130にはイスラエル空軍のファントムF4が護衛機としてつくが、燃料の限界からエンテベ空港まで同伴することはできなかった。 当初、イスラエル軍はエンテベ空港の様子やハイジャッカーの人数などほとんど把握していなかったが、途中で解放された非ユダヤ人乗客からの情報や民間機を装ってビクトリア湖から撮影した航空写真、旧ターミナルビルの設計図などによって突入計画を作成、実物大の旧ターミナルビルの模型も作成して兵士の訓練を行なった。ハイジャッカー達の誤算は、旧ターミナルビルがイスラエルの建築会社によって建築され、図面まで保管されていたことだった。
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作戦決行 その間、メルセデスと2台のジープが旧ターミナルビルに向かったが、偽装はすぐに発覚して銃撃戦となった。Wilfried Boseは射殺され、Halimaは人質に手榴弾を投げたが爆発しなかった。彼女もすぐに射殺された。 その後数分のうちに管制塔も制圧、メルセデスが最初に滑走路を横断してから18分が経過した時には、人質のC-130への収容が始まっていた。イスラエル兵は空港にあった11機のミグを破壊し、午後11時43分、すなわち最初のC-130がエンテベに着陸してから40分後に約100名の人質を乗せたすべてのC-130は離陸した。 |
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結果 重傷を負ったネタニヤフ中佐は、イスラエルに戻るC-130の中で死亡した。この作戦で出たイスラエル軍の死亡者は彼を含めて2名である。イスラエル軍の発表によれば6名のテロリストと20名のウガンダ兵を殺害、人質の死亡者数は3名である。一方、アミン大統領は責任が軍にあるとして、200名のウガンダ将兵を死刑にした。 エンテベ空港作戦の勝利の影響は大きかった。西側諸国のみならず一部のアラブ諸国までイスラエル政府の決然たる対応を賞賛し、これによりテロリストの要求には断固戦う国際政治上の先例を確立したのである。 |
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