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先制戦争 Operation Opera
イスラエルと
イラク核プラント破壊

背景
シオニズムのリーダー達がホロコーストの経験から得たのは、1) このような出来事は二度とおきてはならない 2) 他国は、その国がどれほどの友好的だったとしても、ユダヤ人を守る上でアテにならない 3) ユダヤ人ならびにその延長であるイスラエル国家は二度と弱者であるとみられてはならない、の三つの教訓だった。

これらの教訓は1948年のイスラエル建国に強い役割を果たし、核兵器に対しては、A) 隣国には防衛目的であってもその所持を認めず、B) イスラエル自身は、弱者とみなされれば滅ぼされるという「黙示録的懸念」から、核兵器を積極的に開発していた。南イスラエルNegev砂漠に建造されたDimona核施設はフランスとの契約によるもので、1956年のスエズ動乱におけるイスラエルのフランスに対する支援の見返りとして、フランスから技術供与されたと言われる。

一方、隣国のイラクは、サダム・フセイン政権下、1970年初頭に核反応炉をソビエトから購入していた。この反応炉はまともに稼動せず、フセインは7億万バレルの石油と7000台のルノー(フランス製自動車)、ミラージュF-1、その他レーダー、ミサイルなどの購入と引き換えに、シラク政権のフランスと、研究用核反応炉と核爆弾に転用可能な72kgのウラニウム(U-235)を購入する取引を結んだ。フランス政府は、核施設は純粋に電力供給用であると言明したが、あり余る石油資源を持つイラクに核発電所は必要ないものだった。

妨害
このイラクとフランスとの取引きに対して、イスラエル政府はあらゆる手段を行いて妨害を試みた。
モサドと実行部隊は中〜高レベルの諜報・破壊活動によって1979年4月6日、フランスのラ・セーヌ・シュルメール港の倉庫に格納されていたイラク向け原子炉格納容器を爆破、これによってイラクの核計画は数ヶ月の遅延をきたしたのである (犯行声明はフランスの過激派名義だった)。
次にモサドはフランス核委員会に浸透、核プラント建設に携わるエジプト人科学者を突き止めた。モサドの狙いは核施設の情報を入手することだったが、エジプト人は協力を拒んだ。1980年6月14日、パリのメリディアンホテルで科学者は喉をかき切られ、現場を目撃した娼婦は車でひき殺された。
二ヵ月後には原子炉開発の契約企業のローマ事務所と重役の私邸が爆破され(イスラム革命保障委員会から犯行声明があった)、イラクの核開発に関係するフランスとイタリアの科学者達には脅迫状が送られ、12名の科学者が殺害されたと推定される。
しかし、結局、モサドは遅くとも1982年までにイラクが核施設を稼動させることは不可避的である、との結論を下し、ラビン・イスラエル首相に「可能な妨害工作はやり尽くした。」と報告した。報告を受けたラビン首相は、 「最後の手段」にGOサインを出した。

作戦
イスラエルからOsiraqプラントまでの距離は1,000km以上あり、空中給油機を持たないイスラエル空軍にとって、F-15の作戦行動範囲を越えていた。皮肉なことに、1978年のイスラム原理主義者によるイラン政府転覆がイスラエルにイラク空爆の道を開いていた。アメリカがイランに販売予定だった76機のF-16がキャンセルになったため、イスラエルはF-16をディスカウントで購入できたのである。

パイロットの訓練は作戦の10ヶ月前から行われ、初期の訓練はアメリカ・ユタ州で行われた。彼らが作戦内容を知ったのはユタ州の訓練が終わってからである。イスラエルでの訓練は、密集したフォーメーションでの長距離、超低空飛行に重点が置かれ、シナイ半島上空で行われた。
必要な航続距離を得るために、イスラエル空軍は、F-16の機体の防御システムの多くをとりはずし軽量化を行った。翼下にとりつけた増漕タンクは、切り離す時にフラップを破損したり、隣接する爆弾に接触する危険性があるほど大きいものだった。レーダーに探知されないため地上100フィート(30メートル)を飛行しなければならず、燃料を余計に消費する一因になっていた。増漕タンクの切り離しはあまりに危険だったので、練習飛行中はその切り離しが禁止された。十分な燃料を与えるため、エンジン稼動中のF-16に滑走路上で給油する、という危険な手段を飛行前にとらなければならなかった。

攻撃には12人のエリートパイロットが選ばれ、最終的に8名が8機のF-16に搭乗した。8機のF-16は攻撃前に一直線に並び、順番に一定の時間を隔ててOsiraqを爆撃しなければならなかった。攻撃は、イラク防衛隊の昼と夜のシフトが交代する午後5時、それぞれの爆撃のタイミングと爆弾の信管の遅延は正確に計算され、遅延のタイミングが狂うと直前の爆撃が直後のF-16を破壊する可能性があった。8機のうち7機が爆撃に成功すればOsiraqプラントは破壊できる計算だった。もっとも危険な最後尾のF-16は、当時26歳の最年少パイロットIlan Ramonが操縦した (彼は2003年、スペースシャトル・コロンビア号の事故で死亡)。

Osiraqプラントの防衛と攻撃
1980年にイラクによるイラン侵攻が始まった時、イラン政府は報復にOsiraqプラントを空爆していた。Osiraqプラントは無事だったが、イラク・フセイン大領領は、すでに十分な水準にあった防衛システムを増強、Osiraq周辺にはZSU-23-4s、SA-6 (SAM)、SA-7 (携帯ミサイル)を装備する複数の大隊が配備されていた。
しかし、作戦の当日、イスラエルのF-16がイラク領内に侵入した時、砲兵大隊はダイニングホールで夕食を食べていた。しかもレーダーシステムの電源が落とされていたため、システムを起動している最中にイスラエルのF-16は全機、迎撃地域を通り越してしまった。イラクは、イスラエルのF-16が西から空爆にやってくるとは考えていなかった。結局、迎撃できたのは兵士が肩から射撃するSA-7携帯ミサイルだけで、いずれもF-16に損害を与えることはできなかった。

8機のF-16のうち7機は目標の空爆に成功、自分達が投下した爆弾で機体が激しく揺れた以外の損害はなく、予想されていたイラク空軍機の迎撃や追撃もなかった。オペレーション・オペラの死者はOsiraqプラントにいた7名と若いフランス人1名だけだった。Osiraq空防部隊の司令官はサダムフセインによって処刑された。それに加え、低すぎた対空攻撃によってイラク陸軍に損害が生じた。

結末
核プラント空爆に驚いたのはイラク政府だけではなかった。ほとんどの国が、非交戦国に対する攻撃であるとしてイスラエルを激しく非難した。イラク空爆はアメリカのイスラエルに対する武器供給規約に反していたため、アメリカは一時的に武器の輸出を停止、アメリカのスパイ衛星へのイスラエルのアクセスを禁止した。(スパイ衛星の航空写真はこの種の作戦に必須だった。)
アラブ諸国はこの事件を、アメリカからより優れたエア・ディフェンスシステムを購入する口実に用い、サウジアラビアは2台のAWACSレーダーを購入した。イラク核プラント破壊で一番安堵したのはフランス、シラク大統領だったとも言われる。イスラエル政府は、イラク核プラント攻撃はこれらの政治的後退に見合う以上の成果があった、と判断した。

レーガン政権はイスラエルの空爆に対し、表向きは非難を表明したが、空爆がアメリカの利益になった、と考える者も少なくなかった。湾岸戦争後の1991年、イスラエル軍将軍David Ivryは、次の文章が添えられたOsiraqプラントの写真を受け取った。「貴国が、デザートストーム作戦における我々の仕事を容易にしたことに感謝の意を表して。」写真にはDick Cheneyのサインがあった。

イラン
Osiraqプラント攻撃から、イラン政府は多くを学んだ。イランは核施設を国内に分散し、人口密集地域に建造した。Osiraqと異なり、イランの核プラントは既に稼動している。そしてイスラエルは次のような声明を発表している、「イスラエルはイランが持つ核開発能力を看過することはできない。イスラエルは自国の防衛力を持たなければならず、そのような意図から、われわれは慎重な用意を行う」。中東の核問題の最終章はまだ書かれていない。