航空機の最初の軍事使用は、おそらく1911年のイタリア-トルコ戦争だろう。イタリアの二個の航空団が、リビアで偵察と爆撃に用いられた。
偵察機
第一次大戦がはじまると、航空機はもっぱら空中偵察と連絡に用いられた。この当時、航空機は軍か軍団に所属していた。1914年、ドイツ軍がベルギーとフランスから侵攻した時、連合軍の地上軍はドイツ軍の先鋒隊を見失ったが、イギリス軍の偵察機が、パリに向かうドイツ第一軍を発見、連合軍は後衛部隊を投入できた。
戦闘機
偵察機の有効性が証明されると、これを打ち落とす戦闘機が開発された。マシンガンを装備した機体は、敵の真後ろに一定時間張り付き、機銃射撃をする必要があった。最初の完成された戦闘機は1915年夏に配備されたドイツ軍のFokker E Iであり、同軸機銃を装備していた。同軸機銃があまりにも強力だったので、数ヶ月で連合軍の航空機は戦場から姿を消した。
戦闘機が誕生すると、Manfred von Richtoften、E.C.Mannock、Rene Fonck、Francesca Baraccaらによって、さまざまな空中戦法が生み出された。Msx Immelmannが考案したインメルマンターンは、自機の進行方向と反対方向へ進む敵機を追跡するテクニックで、針路を180度変える急旋回を行う。
編隊飛行
戦争がはじまってすぐに、航空戦は単機や数機よりも、より大きな編隊を組む方が有利であることが発見された。「Vee」編隊は三機のフォーメーションで、先頭のリーダー機が攻撃を行いながら、二機の「ウィングメン」が前方支援と後方警戒を行う。複座式の爆撃機の場合、"Vee"編隊は全周囲に弾幕を張り巡らすことができた。航空機が時速240キロ程度という低速だった時代、防御側の機関銃はきわめて有効だった。戦争が進むにつれ、重爆撃機は他の重爆撃機に対してもっとも優れた護衛であることが証明された。
通信
無線機やレーダーのない時代、航空機を大量に飛ばすことは大変な任務だった。手信号や照明弾だけで航空機間の連携や調整をとることは容易でなく、戦争中期に発明された無線機は、重爆撃機しか積むことができないサイズだった。
フライングサーカス
ドイツ軍の航空隊は、鉄道移動によって頻繁にその基地を変えた。航空機の数において連合軍に劣るドイツ軍が、戦場の決定的な場所に航空力を集中するために考え出されたシステムだった。運搬用の車がサーカスのテントに似ていたため、彼らはフライングサーカスと呼ばれた。
組織
一飛行隊(Squadron)は、8〜24機の航空機で構成されていた。戦争が進むにつれあきらかになったのは、航空隊を維持するコストの大きさである。
飛行機が飛び続けるには、高度のメンテナンスと修復を行う地上部隊が必要であり、パイロットは、歩兵や砲兵と異なり、短期間で大量に養成することができなかった。操縦の基礎を習うのに4ヶ月、戦闘部隊の一員として育てるのにさらに4ヶ月が必要だった。長期の教育期間は、パイロットの欠員の補充を困難にした。
産業
空軍を持つには、航空機を生産するだけの技術が必要だった。第一次大戦の航空機は、エンジンを除いて構造が比較的シンプルであったため、毎年新型の航空機が戦場に登場した。(第二次大戦になると、新型機の開発に数年を要した。ドイツ空軍の初期のMe-109sに代わってFW-190が後継機として登場したのは1942年だった。第二次大戦後は、新型機の設計から離陸まで十年近くかかっている。)
戦略への影響
飛行機の発明が革命的であった19世紀、飛行機はやがて歩兵部隊を乗せることが可能になり、容易に首都が占領されると心配した人々がいた。例えば、ドイツ軍がロンドン郊外に着陸させた輸送機から歩兵部隊が出てきて、あっという間にロンドンを占領する、という空想である。
後に海上戦力の中心となる航空母艦は、第一次大戦から存在した。イギリス海軍は艦載機によってドイツ領内のZeppelin基地を航空攻撃した。 |