The New Mexico Campaign 1862
#252 September 2008

砂漠の決闘: ニューメキシコ作戦

南北戦争の最初の交戦は、1861年4月12日のサウス・カロライナ州チャールストン港のサムター要塞である。しかし、交戦を前提とした部隊移動は数ヶ月前からはじまっていた。1860年にリンカーンが大統領に就任すると、サウス・カロライナ州が連邦から脱退、テキサス州の他いくつかの州がそれに続いて脱退した。Edward Canby大佐(エドワード・キャンビー、北軍)はニューメキシコ準州(現在のニューメキシコとアリゾナ)を守備、John Baylor中佐(ジョン・ベイラー、南軍)は、北軍のテキサス侵攻に備えた。

1861年4月の時点で、Canby大佐はテキサス(南軍)から60km離れたFillmore砦に軍を置いていた。その年の7月、Baylor中佐率いる第2テキサス騎馬ライフル銃隊が、ニューメキシコ準州に侵攻するため、エルパソに移動した。
当初Baylor中佐は、7月24日の夜にFillmore砦に正面から攻撃するつもりだったが、南軍の中に北軍支持者がいて、彼がFillmore砦に襲撃を知らせてしまったため、作戦を変更、Mesillaを占領した。
Mesillaに陣を張ったCanby大佐の部隊は、合衆国からの離脱を支持する住民から暖かい歓迎を受けた。

メシーリャの戦い
d翌日の午後3時、第7歩兵連隊380名(北軍)は、Fillmore砦から出撃した。指揮官のEdward Lynde少佐(エドワード・リンド)は、MesillaのBaylor中佐に降伏を勧告した。この時のBaylor中佐の回答はテキサスの逸話になっている、"やれるものなら、やってみろ(Come and take them!)"。

Lynde少佐は、三門の榴弾砲で攻撃をはじめたが、大きく狙いが外れ、南軍と住民の嘲笑を買っただけだった。次に行った三個中隊の騎兵の突撃は、日干しレンガ越しに射撃する南軍に阻まれ、さらに、二名の砲兵が南軍の狙撃に倒れた。
日没が近くなったためLynde少佐は軍を撤退させた。結局、この日の戦いで北軍は3名の死者と6名の負傷を出したが、南軍は無傷だった。

Mesillaに立て籠もる南軍の規模は北軍の1/3だったにもかかわらず、この日の戦闘によって、Lynde少佐は南軍が大部隊であると勘違いした。さらに、南軍の砲兵隊が援軍に来ている、との間違った噂を信じたLynde少佐は、26日、Stanton砦への撤退を開始した。
撤退は27日の夜明けまでは順調だった。しかし、Stanton砦までの200kmという距離と40度を越える砂漠の暑さ、一部の兵士は水筒にウィスキーを入れていたという事実から、この退却はもともと無謀なものだった。
撤退する部隊の長さは7kmにもおよび、先頭部隊が水源地で休んでいるところに南軍の騎兵が追いつき、全員捕虜になったのである。

dBaylor中佐は、北軍への嫌悪感とは別に、情け深い勝利者として行動した。彼はLynde少佐らに水源地で2日間の休養を与え、二度と北軍と戦わないことを条件に彼らを解放したのである。(捕虜の解放は、当時よくあることだった。補給が少なく、捕虜の監視に必要な兵力が得られない時に行われた。)

余波
Lynde少佐は知らなかったが、この時、北軍は援軍に向かっていた。Lynde少佐の降伏を知ったこの部隊は向きを変え、160km北のCraig砦に移動した。Stanton砦を守っていた北軍守備隊は、Lynde少佐の降伏を聞いて、西部のすべてが南軍の支配下になったと思い、Santa FeとAlbuquerqueに逃げた。

勝利者のBaylor中佐は、Mesillaに戻り、8月1日、アリゾナ準州を設立し、34度以南のニューメキシコをアメリカ連合国の一部とした。彼はMesillaをその首都に定め、自らを知事にした。
Mesillaの戦いは、初期の南軍の勝利のひとつであり、Baylor中佐の活躍は今日まで語り継がれている。
(S&T本誌では、南軍が勝利しながらも、その後の物資の不足を招く原因となったヴァルヴァードの戦い、北軍が圧倒的勝利を収めるグロリエタの戦いの解説が続きます。)

The New Mexico Campain, 1862 (NMC)
NMCは難易度の低い戦略級のゲームで、南軍の侵攻を扱っている。南軍は騎兵、北軍は歩兵中心の編成である。補給ワゴンユニットは、表面が北軍、裏面が南軍になっている。これは、補給ユニットは捕獲した側の所有になるからである。

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第一次大戦と空戦の始まり

航空機の最初の軍事使用は、おそらく1911年のイタリア-トルコ戦争だろう。イタリアの二個の航空団が、リビアで偵察と爆撃に用いられた。

偵察機
第一次大戦がはじまると、航空機はもっぱら空中偵察と連絡に用いられた。この当時、航空機は軍か軍団に所属していた。1914年、ドイツ軍がベルギーとフランスから侵攻した時、連合軍の地上軍はドイツ軍の先鋒隊を見失ったが、イギリス軍の偵察機が、パリに向かうドイツ第一軍を発見、連合軍は後衛部隊を投入できた。

d戦闘機
偵察機の有効性が証明されると、これを打ち落とす戦闘機が開発された。マシンガンを装備した機体は、敵の真後ろに一定時間張り付き、機銃射撃をする必要があった。最初の完成された戦闘機は1915年夏に配備されたドイツ軍のFokker E Iであり、同軸機銃を装備していた。同軸機銃があまりにも強力だったので、数ヶ月で連合軍の航空機は戦場から姿を消した。
戦闘機が誕生すると、Manfred von Richtoften、E.C.Mannock、Rene Fonck、Francesca Baraccaらによって、さまざまな空中戦法が生み出された。Msx Immelmannが考案したインメルマンターンは、自機の進行方向と反対方向へ進む敵機を追跡するテクニックで、針路を180度変える急旋回を行う。

編隊飛行
戦争がはじまってすぐに、航空戦は単機や数機よりも、より大きな編隊を組む方が有利であることが発見された。「Vee」編隊は三機のフォーメーションで、先頭のリーダー機が攻撃を行いながら、二機の「ウィングメン」が前方支援と後方警戒を行う。複座式の爆撃機の場合、"Vee"編隊は全周囲に弾幕を張り巡らすことができた。航空機が時速240キロ程度という低速だった時代、防御側の機関銃はきわめて有効だった。戦争が進むにつれ、重爆撃機は他の重爆撃機に対してもっとも優れた護衛であることが証明された。

通信
無線機やレーダーのない時代、航空機を大量に飛ばすことは大変な任務だった。手信号や照明弾だけで航空機間の連携や調整をとることは容易でなく、戦争中期に発明された無線機は、重爆撃機しか積むことができないサイズだった。

フライングサーカス
ドイツ軍の航空隊は、鉄道移動によって頻繁にその基地を変えた。航空機の数において連合軍に劣るドイツ軍が、戦場の決定的な場所に航空力を集中するために考え出されたシステムだった。運搬用の車がサーカスのテントに似ていたため、彼らはフライングサーカスと呼ばれた。

組織
一飛行隊(Squadron)は、8〜24機の航空機で構成されていた。戦争が進むにつれあきらかになったのは、航空隊を維持するコストの大きさである。
飛行機が飛び続けるには、高度のメンテナンスと修復を行う地上部隊が必要であり、パイロットは、歩兵や砲兵と異なり、短期間で大量に養成することができなかった。操縦の基礎を習うのに4ヶ月、戦闘部隊の一員として育てるのにさらに4ヶ月が必要だった。長期の教育期間は、パイロットの欠員の補充を困難にした。

産業
空軍を持つには、航空機を生産するだけの技術が必要だった。第一次大戦の航空機は、エンジンを除いて構造が比較的シンプルであったため、毎年新型の航空機が戦場に登場した。(第二次大戦になると、新型機の開発に数年を要した。ドイツ空軍の初期のMe-109sに代わってFW-190が後継機として登場したのは1942年だった。第二次大戦後は、新型機の設計から離陸まで十年近くかかっている。)

戦略への影響
飛行機の発明が革命的であった19世紀、飛行機はやがて歩兵部隊を乗せることが可能になり、容易に首都が占領されると心配した人々がいた。例えば、ドイツ軍がロンドン郊外に着陸させた輸送機から歩兵部隊が出てきて、あっという間にロンドンを占領する、という空想である。
後に海上戦力の中心となる航空母艦は、第一次大戦から存在した。イギリス海軍は艦載機によってドイツ領内のZeppelin基地を航空攻撃した。

太平洋とインド洋における中国海軍の海上覇権

過去20年間、中国は海軍の拡張に多大の労力を注いできた。アメリカの「防衛論者」および日本の「タカ派」は、中国軍の拡大に対して
、より懐疑的な見解を持っている。すなわち、中国は、フィリピン上の南北線のシーレーン、海峡および沖合い上の海上覇権を求めているのみならず、その範囲はハワイ沖まで含む、というものである。
この見解に従うなら、中国は単に大国としての認識を世界に求めているだけでなく、支配権を求めていることになる。周辺国の海軍は、おそくとも2025年までに、中国の海・空軍との対決を迫られるであろう。紛争の原因は、台湾の主権と海底資源の開発である。

マリ王国のスンジャータ: 帝国の創始者

d事実上のマリ王国の建国者であるソソの呪術王Soumaoro(スマオロ)は、人気のない支配者だった。侵略戦争を好み、自分用に豪勢な宮殿を建てた。黒魔術に秀でた彼はそこで不道徳な楽しみにふけったと言われる。
Soumaoro王が甥にあたるFakoli Kormomaの妻を盗むと、軍司令官であるFakoli は、かねてから独立を求めていた族長Dankaran Toumanと共謀して反乱をおこした。ところが、Soumaoro王はFakoliとDankaranの連合軍を破り、内陸部に逃げたDankaranはゲリラ戦いを行った。

この混乱に乗じて旗をあげたのが、亡命中の王位継承権者Sundiata Keita(スンジャータ・ケイタ)である。彼の亡命先のMema国の王、Moussa Tounkaraは拡大するSoumaoro王の権力を自国への脅威とみなしていた。Tounkara王は、軍の半分をSundiataに貸し、その中には最強の「ライオン部隊」を含まれた。Sundiataは、WagadouおよびTabon付近の王からも戦士を借りて、Soumaoro王に戦いを挑んだ。1240年春のことであった。