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1498年のバスコ=ダ=ガマのインド航路発見以来、スペインとポルトガルが世界のスーパーパワーになった。
1494年のトルデシリャス条約、1529年のサラゴサ条約によって地球は文字通り二分割され、スペインは西 = アメリカ大陸、ポルトガルは東
= アフリカ及びインド洋に向かった。
中東を経由しない香料の貿易は多大の富をもたらしたが、スペインはさらに奴隷労働による鉱山開拓という直接的な手段をとった。
ポルトガルの海外拠点の多くが港湾都市規模であったのに対し、スペイン人は大陸の奥深くまで探検し、中央アメリカから南アメリカにかけて広大な土地を支配した。
(関連記事S&T#245「Triple
Alliance War 植民化」)
スーパーパワーと日本
1529年にスペインとポルトガルが定めたサラゴサ協定の分界線は、現在の兵庫県明石(東経135度)に位置していた。
1543年にポルトガル人が種子島に上陸し、1549年にスペインのフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来たのも、日本が二つのスーパーパワーの接点にあったからだった。
同時期(1565年)、フィリピンにはスペイン人ミゲル・ロペス・デ・レガスピが上陸している。彼は現地にいたポルトガル人を追い払い、フィリピンをスペイン領とした。
スペイン人に対し日本は非寛容的であったのに対し、フィリピンは融和的だったと言える。フィリピン人はカトリックに改宗し、その後300年間、スペインの植民地となったのである。
(関連記事S&T#248「1574年:
コンキスタドール vs. 倭寇」)
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新興国オランダ
1588年のアルマダの海戦に敗れた後もスペインはポルトガルを領有、"日の沈まぬ帝国"はゆるぎないように見えた。やがて金と銀の流入がインフレを起こしスペイン通貨が下落すると、スペインは戦争のための費用を他国から借りなければならなくなった。16世紀の終わりには、スペインに反乱して独立したオランダが世界のスーパーパワーとして加わった。
オランダの国力の源は植民地の金銀ではなく経済システムだった。オランダ人は貿易によって得た富で金融経済を作り、民間人は海外事業に投資することができた。これは、それまでのヨーロッパ経済からすれば画期的なことだった。それまでは国家が戦争や海外遠征のために借金をしていた。長期的な経済投資が可能になると、オランダ証券取引所ヨーロッパ経済の中心となった。オランダ東インド会社は国債と株によって運営された。
クロムウェル後の政治的混迷から脱出したイギリスは、1694年に国立銀行を設立して海軍に投資した。これは、スペインが最強の地上軍を維持していたのと対照的だった。
グローバル海戦
17世紀のヨーロッパ大陸では、"バランス・オブ・パワー"によって、いずれの国とっても陸戦による決定的な勝利は困難になっていた。戦争で大きな勝利を得た国は、周辺国が同盟して叩いたからだった。
しかし、本国から遠く離れた洋上では、戦争で勝負することが可能だった。
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