When Lions Sailed
#268 May 2011

When Lions Sailed: 17世紀の世界海戦 <>

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1498年のバスコ=ダ=ガマのインド航路発見以来、スペインとポルトガルが世界のスーパーパワーになった。

1494年のトルデシリャス条約、1529年のサラゴサ条約によって地球は文字通り二分割され、スペインは西 = アメリカ大陸、ポルトガルは東 = アフリカ及びインド洋に向かった。
中東を経由しない香料の貿易は多大の富をもたらしたが、スペインはさらに奴隷労働による鉱山開拓という直接的な手段をとった。
ポルトガルの海外拠点の多くが港湾都市規模であったのに対し、スペイン人は大陸の奥深くまで探検し、中央アメリカから南アメリカにかけて広大な土地を支配した。
(関連記事S&T#245「Triple Alliance War 植民化」)

スーパーパワーと日本
1529年にスペインとポルトガルが定めたサラゴサ協定の分界線は、現在の兵庫県明石(東経135度)に位置していた。
1543年にポルトガル人が種子島に上陸し、1549年にスペインのフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来たのも、日本が二つのスーパーパワーの接点にあったからだった。

同時期(1565年)、フィリピンにはスペイン人ミゲル・ロペス・デ・レガスピが上陸している。彼は現地にいたポルトガル人を追い払い、フィリピンをスペイン領とした。
スペイン人に対し日本は非寛容的であったのに対し、フィリピンは融和的だったと言える。フィリピン人はカトリックに改宗し、その後300年間、スペインの植民地となったのである。
(関連記事S&T#248「1574年: コンキスタドール vs. 倭寇」)

新興国オランダ
1588年のアルマダの海戦に敗れた後もスペインはポルトガルを領有、"日の沈まぬ帝国"はゆるぎないように見えた。やがて金と銀の流入がインフレを起こしスペイン通貨が下落すると、スペインは戦争のための費用を他国から借りなければならなくなった。16世紀の終わりには、スペインに反乱して独立したオランダが世界のスーパーパワーとして加わった。

オランダの国力の源は植民地の金銀ではなく経済システムだった。オランダ人は貿易によって得た富で金融経済を作り、民間人は海外事業に投資することができた。これは、それまでのヨーロッパ経済からすれば画期的なことだった。それまでは国家が戦争や海外遠征のために借金をしていた。長期的な経済投資が可能になると、オランダ証券取引所ヨーロッパ経済の中心となった。オランダ東インド会社は国債と株によって運営された。

クロムウェル後の政治的混迷から脱出したイギリスは、1694年に国立銀行を設立して海軍に投資した。これは、スペインが最強の地上軍を維持していたのと対照的だった。

グローバル海戦
17世紀のヨーロッパ大陸では、"バランス・オブ・パワー"によって、いずれの国とっても陸戦による決定的な勝利は困難になっていた。戦争で大きな勝利を得た国は、周辺国が同盟して叩いたからだった。
しかし、本国から遠く離れた洋上では、戦争で勝負することが可能だった。

付録ゲーム「When Lions Sailed」
イギリス、オランダ、スペイン、フランスのマルチ対戦ゲーム「When Lions Sailed」は、当初、北海と英国海峡を舞台にした英蘭戦争として企画がはじまったと記事に書かれています。Joe Milandaによれば、「北海と英国海峡のマップでは、イギリスとオランダの対立を説明できない」。そこでスペインとフランスが加わり、マップが世界地図になったのだそうです。

ゲームでは、イギリスだけが最初の数ターンで大艦隊を作ることができます。イギリスの10枚スタック艦隊は無敵で、世界のどこに行っても勝ちますが、すべての国を相手に勝つほどの数がないため、いずれかを選んで戦争を仕掛けます。従って、イギリスの戦略がゲーム全体の流れに大きく影響します。

どの国も、勝つためにはテリトリーの広さを争うよりも植民地と貿易から上がる収入に焦点を置くべきです。植民地で獲得した金銀は、船に乗せてヨーロッパ本国まで持ち帰る必要がありますが、その過程で船が襲撃されることもあります。カリブ海にはランダムイベントで海賊が現れます。

ゲームは、オランダが圧倒的に優位な状態からはじまります。イギリス、フランス、スペインがオランダの動きに注意を払わないなら、オランダはすぐに勝つでしょう。
勝利条件が国ごとに違うため、プレイバランスが優れています。"European Ports"と"Potentate Ports"はゲームの進行にまったく関係がありません。YSGAで対戦した時は、カリブ海を越えて"Treasure Ports"からひたすら金銀を集めていたスペインが勝利しました。
ルールは15ページ、難易度の低い手軽なゲームになっています。
(2011年6月4日)

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ユニットの初期配置。
喜望峰を経由して行くインド洋はあまりに遠い。アジアはさらに先。 (拡大)

○When Lions Sailed iWARSIMモジュールファイル

 

ローマ帝国の復興: ユスティニアヌス大帝のイタリア征服

2527年にユスティニアヌスがコンスタンティノポリスで王位に就いた時、ローマ帝国は東西に分割統治されていた。ローマ帝国の分割は4世紀以降断続的に発生していたが、この時は西側がローマ/ラヴェンナ、東側がコンスタンティノポリスに首都を置いていた。

ユスティニアヌスはイタリア半島と北アフリカを征服、イベリア半島の王国を服属させ、一時的にだがローマ帝国を統一した。トルコのソフィア大聖堂はこの時代に、東方正教会の聖堂として建造されたものである。

 

第二次大戦の秘匿された悲劇

2第二次大戦は、戦場だけでなく隠れた場所でも戦われた。悲劇に終わった主要な5つのスパイ戦を紹介。

1.ドイツ軍のウィンザー公誘拐作戦
2.フランス・ヴィシー政権の犠牲者
3.処刑された日本のスパイ・パトリックヒーナン大尉
4.ケン・フォレット「レベッカへの鍵」の実話
5.ドイツ軍スパイになった最後のアメリカ人

作戦分析: 1994-2000年のチェチェン紛争

21994年の新年の晩のグロズヌイ市突入は、ロシア軍の弱点をさらす結果となった。チェチェン軍の指揮官アスラン・マスハドフは義勇兵をグロズヌイ市の外郭、大統領宮殿周辺、市内の東南の三カ所に置いた。グロズヌイを防衛するのは1,000名のロシア軍を退役した市民兵だった。

この時のゲリラ部隊と機甲部隊との戦いは、市街地における非正規戦の模範となった。マスハドフは意図的にロシア軍を市内に入れ、中央駅に向かった第131旅団は大きな抵抗にあうことなく駅を占領した。
ロシア軍が防衛戦の内側に達した時、RPGと機関銃の雨が降り注いだ。グロズヌイ市の戦闘で、ロシア軍は最初の三日間で26両の戦車のうち20両、120両のBMPのうち102両を失い、第81自動車化狙撃旅団と第131旅団は壊滅した。

チェチエン軍がとった作戦は高低差を使うことだった。戦車やBMPが攻撃できない高所か低所に軍を配置したのだった。