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Triple Alliance War
パラグアイ 1865 - 1870
南米の歴史のウォーゲーマー的解釈

〔パート1〕植民化
〔パート2〕独立

〔パート3〕国家紛争の始まり

(この記事はS&Tの翻訳とはまったく異なります。人名と種族名はアルファベット表記しています。)

北アメリカ大陸では南北戦争が終ろうとしていた1965年、パラグアイ軍がアルゼンチン領に侵入してはじまった戦争は、南米史上もっとも凄惨なものとなった。一日で数千人が死亡する戦闘が繰り返され、戦争は、それに参加したすべての国の運命を変えた。
Triple Alliance Warが終わった時、アルゼンチンは統一した国家として再生し、ブラジルは共和国となり、ウルグアイは独立が周辺国から認められた。敗戦国パラグアイの成人男性の80%は戦死、52万人だった人口は21万人に減っていた。

戦争の記憶は各国の民話や遺跡に今でも残り、中でもパラグアイの人々はこの戦争を次の言葉で誇りを以って語る - Guera Grande、「偉大な戦争」

アメリカ大陸
北米大陸に移住したイギリス・フランス人がアメリカ合衆国を建国してから百年後の19世紀、南米大陸のスペイン・ポルトガル人も植民地から独立した。すなわち、ポルトガル人はブラジル帝国を建国し、スペイン人はアルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイ、チリ、ベルー、コロンビア、ボリビアの地域にそれぞれ国家をつくった。

北アメリカのインディアンの多くの種族が絶滅したのと同様、南米の原住民も多くが白人によって殺害された。実際のところ、征服過程の殺戮よりも、植民地時代の破壊の方が大きかった。アルゼンチンでインディオが大量殺害されたのは建国後であり、ブラジルでは過酷な搾取によってインディオが密林に逃避したか絶滅したため、黒人奴隷を輸入しなければならないほどだった。
インディオ社会はゆるやかな地縁・血縁の集合にすぎず、貨幣や貯蓄、国家の概念を持っていなかった。今日の南米の宗教および政治/経済システムは、ヨーロッパ系白人が持ち込んだものである。

パラグアイ
南米大陸の中央に位置するパラグアイは、北東をブラジル、南と西をアルゼンチンに接する約40万平方キロメートルの地域である。この地域は、数百メートル級の小山が散在する程度で、大きな山はほとんどない。パラグアイが他のどの地域とも異なる点は、スペイン人と原住民Guarani族との混血が進んだ結果、他ではありえない白人と原住民の血縁的かつ文化的な融合が実現していたことだった。

現在の人口比率
アルゼンチンの全人口の85%がイタリア・スペイン・ドイツ系白人であるのに対し、パラグアイは人口の96%が混血、ヨーロッパ系白人はわずか2%である。ブラジルはヨーロッパ系白人が54%、 黒人5.4%、混血39.9%である。


新世界に移住するヨーロッパ系白人

Guarani族
南米最大部族のひとつだったGuarani族は、白人が訪れる前、ベネズエラ(北)からラプラタ川(南)まで広範囲に居住していた。後にパラグアイの首都となるアスンシオン周辺には十万人以上のGuarani族がいたと言われる。

ラプラタ川河口に上陸したスペイン人がパラナ川をさかのぼり、アスンシオン付近にやってきたのは16世紀初期である。彼らはコンキスタドール(征服者)と呼ばれる男達であり、兵士か囚人、あるいは半ば誘拐された人間の集まりだった。彼らの目的は多くを収奪し、早く帰国することだった。ラプラタ川をさかのぼったスペイン人がアスンシオンを拠点と定めたのは、そこが防衛に適した入り江であり、チャコなどの上流地域への金銀探索に適したベースキャンプとなるからだった。さらにこの地域にはGuarani族の農耕地があり、食料を確保することができた。

アスンシオン周辺に住むGuarani族は他の部族と異なり、コンキスタドールに対し寛容で融和的だった。Guarani族は、野戦術においてスペイン人を感嘆させるほどの技術を持ちながらも、常にその安全が脅かされていた。周辺をとりまくGuaicuru族、Mbaya族、Guayaki族との抗争が絶えず、17世紀になるとポルトガル人と原住民の混血族Mamelucos de Sao Paulo(バンディランテス)も敵に加わった。スペイン人とGuarani族は、小規模な戦いの後に連盟を組み、共にアスンシオンを守ることになった。
社会的にも、Guarani族は白人に対して融和的な態度をとった。スペイン人を共同体の一員とするため、彼らが複数のGuarani族の女を妻とすることを認めた。スペイン人との間に生まれた混血児は差別されることなく純潔のGuarani族と同等に処遇された。

コンキスタドール
ルネッサンスおよびエリザベス王朝時代の「新世界」の開拓は、スペイン人探検家 - コンキスタドール - の独擅場だった。彼らはイベリア半島からやってきた騎士、兵士、囚人であり、スペイン国王が遠征資金を出していた。コンキスタドールがもたらした金・銀・スパイスは、スペイン王室繁栄の源となった。
彼らがどれだけの文化を滅ぼしたかは多くの歴史書に書かれている。スペイン王室はコンキスタドールの殺戮を止めるため、1502年にエンコミエンダ制を定めたが、この制度は王室の意図とまったく逆に使われた。すなわち、原住民をキリスト教に改宗させることを目的としたエンコミエンダ制は、貢物と労働の対価として原住民に保護とキリスト教儀を与えるためのものだったが、現地のコンキスタドール達は、これを都合よく解釈し、強制労働の制度として利用した。 (左の図はコンキスタドールの武装)

最初のスペイン人
パラグアイ地域に最初に足を踏み入れたコンキスタドールの名は、Juan Diaz de Solisである。ポルトガル生まれの彼は、三十代まで同国で航海士のキャリアを積んだ。34歳の時にスペインに逃亡した理由は不明だが、ポルトガルの国家情報をスペインに売り渡したことが原因であると推測されている。
1506年、スペイン(カスティーリャ王国)の航海士としてユカタン半島を開拓、翌年、Amerigo Vespucciらとともに、三名の王室直轄の航海士評議委員の一人に選ばれる。彼らの仕事は、新大陸の未発見の海岸に "国王の名のもとに" 十字架を打ち立てることだった。
Diazの出世は平坦でなかった。1509年には遠征先で司令官Vicente Yafiez Pinzonと争いになり、帰国後投獄されている。しかしすぐに無罪となり報奨金までもらい、三年後の42歳の時、Amerigo Vespucciの死去によって、国王から「Piloto Mayor de Espana (最高エスパニア航海長)」の地位を与えられた。

最後の航海
提督と同等の地位を得たDiazsは、1515年10月8日、二隻の船と70名の乗組員で、スペインSanlucar de Barrameda港を出発、南米を目指した。
リオデジャネイロから南下した一行は翌年ラプラタ河口にたどり着き、この地をスペインのものとする。この河がプラタ河(Rio de la Plata)と命名されたのは、上流で銀 = Plataが発見できる期待を込めてだった。
奥地探索のため、Diazは士官2名と水兵7名を乗せたボートでパラナ川をさかのぼった。しかし生きて帰れたのは1名で、Charrua族もしくはGuarani族の襲撃で9名が命を落としたのだった。Diazも殺害された中の一人だった。一説には、国王への土産にインディオを捕獲しようと上陸したところを襲撃されたと言い、また別な説では、Diazらは乗組員の反乱で殺害され、事件を隠蔽するためにインディオの襲撃話が作られた、とも言われる。いずれにせよコンキタドールにとって遠征は命賭けだった。

ミッション
スペイン人とGuarani族との共生共存は1550年、すなわち混血二世の世代に終わりを告げた。新たにやってきた300人のヨーロッパ系白人移民のために、スペイン人がGuarani族に奴隷労働を求めた結果、大規模な反乱が発生したのである。Guarani族の反乱は過去にもあったが、Guarani側に数千人の死者をもたらしたこの時の反乱が最後となった。スペイン人およびスペイン人支配を支持するGuarani族が反乱を鎮圧したのだった。

パラグアイ地域は、その後200年かけて独特の変貌を遂げた。その主な理由は次のふたつであった。
第一に、宗教的動機によってやってきたキリスト教宣教師によってGuarani族が改宗したこと。前述の反乱から10年後にフランシスコ派宣教師、その50年後にイエズス会宣教師がパラグアイの地域を訪れた。
第二に、1580年になって、現在のBuenos Aires市にスペイン人が都市を再建したこと。Parana川上流でいかなる金銀も発掘できないことを知ったスペイン人は、かつて先住民の包囲攻撃によって放棄した場所にBuenos Airesを建設した。その結果、パラグアイ奥地は辺境の地となり、同地域への白人の流入が激減した。 宗主国から忘れ去られたパラグアイの地域は、世界のどの土地よりも宣教師が自由に行動できる地域となった。

宣教師は、現地の神話になぞらえてGuarani族に聖書を説明した。たとえば、Guarani族の神話の英雄Pai Lumaは聖書の聖トマスであるとした。伝統的儀式による泥酔、多婚、幼児殺害の風習は禁止され、生産と貯蓄の概念、監督下による規則的な労働が"文明"としてGuarani族に教えられた。
宣教師達は分業制による集団農園と工場をつくり、収益を平等に分配した。宣教師がつくった宣教師村 - ミッション - は、原住民を宗主国の搾取から切り離した。ミッションは、奴隷狩から逃れた原住民・黒人奴隷の避難所にもなった。イエズス会は、Guarani族が宣教師以外の白人と接触することを好まず、ミッションのインディオはそれから150年間、他の地域から隔離されながら、宣教師が作った「理想」社会で共同生活した。
(右写真は、映画「ミッション」の舞台となったトリニダ遺跡)

イエズス会と日本
イエズス会とは、カトリック教会の男子修道会であり、ルターの贖宥状批判から20年後の1537年に設立された。当時、カトリック教会は、宗教改革に対抗するための組織強化(対抗改革)を行っていた。
イエズス会は設立当初から世界各地での宣教活動を重視し、インド、日本、中国、アメリカ大陸で布教活動を行った。イエズス会フランシスコ・ザビエルが来日したのが1549年であり、それはパラグアイに最初のイエズス会宣教師が訪れるよりも60年前だった。

貿易品や火砲と同時に日本に持ち込まれたキリスト教は、大友宗麟・有馬晴信・大村純忠・高山右近・小西行長・黒田如水・細川忠興らに支持され、キリシタン大名を生んだ。
しかしキリスト教が広まるのと同時に、奴隷として海外に売られる日本人が増えた(キリシタン大名が奴隷貿易に介在していた)。寺や神社を焼き払う大名も現れ、大村純忠は長崎の統治権をイエズス会に委託した。豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令で神社仏閣の毀損とキリスト教布教を禁止、徳川家康が1614年にさらに厳重なキリスト教禁止令を出し、300年間キリスト教は日本で禁止になった。

理想郷の終わり
1750年 - イエズス会宣教師がパラグアイに宣教師村を建ててから150年後 - スペインとポルトガルのマドリード条約によって、ブラジル南部からウルグアイ付近の、あいまいだった国境の画定が行なわれた。スペイン、ポルトガル両政府とも、植民地とその原住民を直接に統治したいと考えており、イエズス会による布教活動は近代国家の秩序建設の妨げである、とみなしていた。
マドリード条約は、宣教師村の分割と移住を強制するものであり、移住に反対したGuarani族は1753年、Sepe Tiarajuをリーダーにグァラニー戦争と呼ばれる反乱を行う。そして1756年、スペインとポルトガルの連合軍に敗れる。(映画「ミッション」の後半はこの戦争がモデルとなっている)
イエズス会はグァラニー戦争をイエズス会が関与しない争いであると主張したが、スペイン・ブルボン王朝は、イエズス会派の裏切りであるとした。1759年、ポルトガルがイエズス会追放令を定めて世界の植民地から宣教師を追放すると、8年後にスペインもポルトガルに追従、世界の領土からイエズス会を追放した。

パラグアイからスペイン人宣教師が退去すると、理想郷の分配システムは、ブルボン王家に忠実な官僚によって搾取制度に変わった。Guarani族は周辺の土地に飛散、純血種を保っていた彼らは、他の文化に吸収され、あるいは「洋服」に身を通すことで独自の文化を失っていった。パラグアイの地域は、240年前に最初のスペイン人が訪れて以来、最大の変化を遂げたのだった。

(パート2に続く)