ロシアは革命家の温床だった。19世紀後半から20世紀にかけての急激な工業化によって、ロシアの産業水準は西側と肩を並べるほどになった。各地にできた工業都市に農民が移住すると、多数の工場労働者が生まれた。彼らは、マルキシズムの流れを受けた様々な左翼組織によって急進的な思想を植え付けられた。
ニコライ2世の一貫しない弾圧政策が状況を悪化させた。抑圧と改革で揺れ動いた彼は、秘密警察で反政府勢力を検挙しながら、民主的な改革に理解を示した。強権的な弾圧が左翼運動をより先鋭的にした一方で、彼のとった自由主義的政策は、本来ならロマノフ王朝を支援した保守層を離反させた。
最後にやってきた危機は、1914年8月の第一次世界大戦だった。ロシア帝国軍には近代戦の準備がなく、軍需工場の数は不足していた。戦争がはじまると、さらに多くの農民が労働者として都市に集められ、都市労働者を徴兵することで軍隊にさらに左翼思想が広まった。中央同盟に勝利できず撤退が続くと、ニコライ2世の政府は民衆の信頼を失った。1917年3月、最初のロシア革命が勃発したのである。
内戦後のロシア
20世紀で最大の犠牲者を出したこの内戦では、革命勃発からの数年間だけでも800万人が死亡したと推定されている。他にも数百万人の資産家、知識人、芸術家がロシアの地を離れ、極東や日本を経由して欧米に脱出した。ドミトリー・ヴォルコゴーノフは、ロシア内戦を「帝政ロシア時代の悲劇すら色あせて見えるほどの非人間的行為」と非難している。
疲弊したソビエト政府の経済体制は、物資の供給をいちじるしく悪化させた。1921年の鉱工業生産は第一次世界大戦以前の20パーセントにまで悪化し、耕地面積は戦前の62パーセントに減少、生産量は37パーセントにすぎなかった。600倍のインフレによって、米1ドルに対する換算レートが1914年は2ルーブルであったのに対し、1920年は1,200ルーブルになった。
1930年代からロシア経済は回復に向かったが、ロシア内戦は社会全体に深い爪痕を残した。
ソビエト政府の革新的な実験がもたらした大惨事
1917年に政権を掌握した革命政府は、家族的概念と宗教概念を旧弊秩序とみなし、積極的な自由化を行った。すなわち、結婚と離婚の要件を緩和、事実婚主義を採用するとともに、堕胎を自由化したのである。
1926年になると非登録婚も登録婚と法的に変わらないとする新法が制定され、結果的に重婚が合法化された。同居の事実があれば国家はそれを婚姻状態とみなし、夫が死亡した場合、財産を妻と愛人達とで分け合った。児童には、親の権威よりも共産主義のほうが重要であり、反動的な親には共産主義精神で弾劾するよう教育した。
その結果、家族の結びつきは著しく弱まり、政府が予想しなかった現象が現れた。
第一に、出生率が急減した。それは戦争に直面している国家の労働力と兵力の確保を脅かした。
第二に、未婚の母が大量に生まれ、少年犯罪が激増した。ソ連の新聞は非行少年による事件で埋まった。彼らは勤労者の住居に侵入し、掠奪し、破壊し、抵抗者を殺害した。
1930年代に入るとソビエト政府は結婚の意義を再評価しなければならなくなった。離婚は罰金によって制限され、堕胎の自由も撤廃された。家族関係の強化は共産主義の基本的モラルの一つとされ、嫡出子と非嫡出子の「ブルジョワ的差別」も復活した。親の権威を強調するため、スターリンは1935年10月にチフリスに住む老母を訪ねた。それは母親への尊敬を示すプロパガンタだった。
http://www.oct.zaq.ne.jp/poppo456/in/b_cobet.htm
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