RUSSIAN CIVIL WAR 1918-22
#267 March 2011

1918-22年のロシア革命

ロシアは革命家の温床だった。19世紀後半から20世紀にかけての急激な工業化によって、ロシアの産業水準は西側と肩を並べるほどになった。各地にできた工業都市に農民が移住すると、多数の工場労働者が生まれた。彼らは、マルキシズムの流れを受けた様々な左翼組織によって急進的な思想を植え付けられた。

ニコライ2世の一貫しない弾圧政策が状況を悪化させた。抑圧と改革で揺れ動いた彼は、秘密警察で反政府勢力を検挙しながら、民主的な改革に理解を示した。強権的な弾圧が左翼運動をより先鋭的にした一方で、彼のとった自由主義的政策は、本来ならロマノフ王朝を支援した保守層を離反させた。

最後にやってきた危機は、1914年8月の第一次世界大戦だった。ロシア帝国軍には近代戦の準備がなく、軍需工場の数は不足していた。戦争がはじまると、さらに多くの農民が労働者として都市に集められ、都市労働者を徴兵することで軍隊にさらに左翼思想が広まった。中央同盟に勝利できず撤退が続くと、ニコライ2世の政府は民衆の信頼を失った。1917年3月、最初のロシア革命が勃発したのである。

内戦後のロシア
20世紀で最大の犠牲者を出したこの内戦では、革命勃発からの数年間だけでも800万人が死亡したと推定されている。他にも数百万人の資産家、知識人、芸術家がロシアの地を離れ、極東や日本を経由して欧米に脱出した。ドミトリー・ヴォルコゴーノフは、ロシア内戦を「帝政ロシア時代の悲劇すら色あせて見えるほどの非人間的行為」と非難している。

疲弊したソビエト政府の経済体制は、物資の供給をいちじるしく悪化させた。1921年の鉱工業生産は第一次世界大戦以前の20パーセントにまで悪化し、耕地面積は戦前の62パーセントに減少、生産量は37パーセントにすぎなかった。600倍のインフレによって、米1ドルに対する換算レートが1914年は2ルーブルであったのに対し、1920年は1,200ルーブルになった。

1930年代からロシア経済は回復に向かったが、ロシア内戦は社会全体に深い爪痕を残した。

ソビエト政府の革新的な実験がもたらした大惨事
1917年に政権を掌握した革命政府は、家族的概念と宗教概念を旧弊秩序とみなし、積極的な自由化を行った。すなわち、結婚と離婚の要件を緩和、事実婚主義を採用するとともに、堕胎を自由化したのである。
1926年になると非登録婚も登録婚と法的に変わらないとする新法が制定され、結果的に重婚が合法化された。同居の事実があれば国家はそれを婚姻状態とみなし、夫が死亡した場合、財産を妻と愛人達とで分け合った。児童には、親の権威よりも共産主義のほうが重要であり、反動的な親には共産主義精神で弾劾するよう教育した。

その結果、家族の結びつきは著しく弱まり、政府が予想しなかった現象が現れた。
第一に、出生率が急減した。それは戦争に直面している国家の労働力と兵力の確保を脅かした。
第二に、未婚の母が大量に生まれ、少年犯罪が激増した。ソ連の新聞は非行少年による事件で埋まった。彼らは勤労者の住居に侵入し、掠奪し、破壊し、抵抗者を殺害した。

1930年代に入るとソビエト政府は結婚の意義を再評価しなければならなくなった。離婚は罰金によって制限され、堕胎の自由も撤廃された。家族関係の強化は共産主義の基本的モラルの一つとされ、嫡出子と非嫡出子の「ブルジョワ的差別」も復活した。親の権威を強調するため、スターリンは1935年10月にチフリスに住む老母を訪ねた。それは母親への尊敬を示すプロパガンタだった。

http://www.oct.zaq.ne.jp/poppo456/in/b_cobet.htm

付録ゲーム「Russian Civil War」
「Russian Civil War」は、SPIが1970年代に発売したゲームのシステマチックなアッフデート版である。このゲームは"カオス・セオリー"を採用している。すなわち、ロシア革命においてボルシェビキ、白ロシア、国家主義者プレイヤーが、お互いに争うだけでなく、身内でも戦うことによって混乱した状況を作る。各プレイヤーのユニットは内部的に敵対しながら、同時に他の複数のプレイヤーとも争わなければならない。

○Russian Civil War iWARSIMモジュールファイル

○ゲームレビューはこちら -->

 

征服後の「征服王ウィリアム」

1066年のヘースティングスの戦いに勝利したノルマンディー公ウィリアムはイングランド王となり、人々は"征服王"と呼んだ。にもかかわらず、その後の数週間、彼に忠誠を誓う貴族がほとんど現れなかったことに、このイングランド王はうろたえ、怒った。

イギリスに上陸しハロルド2世を敗ったことは、イングランドの統治という目的からすれば容易な部分にすぎなかったことを彼は知った。戦いの後、ウィリアム1世が見たものは征服し守らなければならないイギリスの広大な土地だった。スコットランド王マルカム3世は、王位継承権を持つエドガー・アシリングに聖域を提供していた。マーシア伯エドウィン (Edwin, Earl of Mercia)、ノーサンブリア伯モーカー (Morcar of Northumbria) はヨークに健在で、アイルランドではハロルド2世の息子が反攻計画を立てていた。デンマークのスウェイン王もまた王位継承権を主張していた。

その後19年間、ウィリアム1世はこれらすべての脅威に対処し、イングランドの支配を確立した。後のイングランド王家はウィリアム1世の血統を受け継いだのである。

過去から見た未来の戦争: 1950-60年のアメリカ軍の実験

第二次大戦の経験によって、歩兵に対しても戦車に随伴できる機動力、すなわち軽装甲車が求められた。

1943年から投入されたM-8グレイハウンドは、軽装甲しか貫通できない37mm砲と無防備なオープントップの車両だった。ハーフトラックには十分な機動力と生存性がなく、戦後は全履帯の兵員輸送車が開発された。朝鮮戦争に投入されたM-75は第二次大戦後後初の装甲兵員輸送車だったが、装甲が薄く操縦性に欠けていたため、戦場で標的になった。

アルミ合金の溶接構造で軽量化が図られたM-113は、1960年の生産開始以来50年にわたって使われた傑作APCとなった。同時に開発されたM-114装甲偵察車はM-113とおなじく浮航性があり空中投下が可能だったが、機械的問題から1973年までに約3,000輌が生産されるに止まった。

1800年、マレンゴの戦い

1798年のナポレオンのエジプト遠征は、オスマン帝国への戦闘には勝ったものの、戦略的には袋小路だった。翌年、軍を残したまま単独でパリに戻ったナポレオンは、急進派の総裁のひとり、エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスと組んでブリュメールのクーデターをおこして総裁政府を倒した(1799年11月9日)。

シエイエスが考えるほど従順でなかったナポレオンは、第一執政の地位を得て権力地盤を固めた。自身の政治権力の伸張のために、ナポレオンにはさらなる戦争の勝利が必要だったが、問題はどこを攻めるかだった。
この時のフランスは、第一次対仏大同盟以来ヨーロッパ諸国と戦争状態にあり、ライン川に100,000名、オランダとイタリアに36,000名の兵を置いていた。ライン方面軍のモロー将軍は独自の政治基盤を持ち、ナポレオンの信奉者でなかったことから、十分な協力をしないと考えられた。ナポレオンは北イタリアを戦場に選んだ。二年前にイタリア戦役で獲得した領土は、オーストリア・ロシア同盟によって奪われていた。

徴兵によって60,000名の兵を動員したナポレオンは、アルプス山脈を越えて北イタリアに入った。後の戦争、たとえばボロジノの250,000名と比較すると、これは小規模の軍隊と言える。それに対するオーストリア軍は100門の砲を擁した31,000名の軍であり、70才のミヒャエル・フォン・メラスが率いていた。ナポレオンはこの時31才だった。

k