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1574年: コンキスタドール vs. 倭寇
15〜16世紀にかけて、中国明王朝の沿岸は「倭寇」と呼ばれる海賊が荒らしまわっていた。
倭寇の「倭」は日本を意味するものの、海賊は日本人、中国人、朝鮮人、シャム人らによるもので、中でも林鳳(Li Ma Hong)は16世紀でもっとも有名な倭寇のひとりである。1572年に6隻の船から海賊を始めた林鳳は、2年後には200隻と10,000人の軍勢を率いていた。
スペイン人Friar Gaspar de San Agustinの記述によれば、明皇帝は林鳳に対し、海賊行為の中止と引き換えに恩赦と報奨金を提案した。しかし、林鳳が皇帝の使者を殺害したため、皇帝は最強の軍人に林鳳倭寇の殲滅を命じ、林鳳は中国湾岸から追われる身分になった。太平洋を東に向かった林鳳の先には、スペイン人が支配する諸島があった。
スペイン人コンキスタドール、ミゲル・ロペス・ド・レガスピ(Miguel
Lopez de Legazpi)は、1565年から1570年にかけて、原住民、小規模なイスラム王国、現地のポルトガル人らと戦い、ルソン島のマニラを占領した。レガスピはマニラに城壁都市を作り、そこはイントラムロス(壁の内側)と呼ばれるようになった。レガスピは、フィリピンを構成する三大地域(ルソン島周辺・ヴィサヤ諸島・ミンダナオ島周辺)の大半を支配、初代フィリピン総督とななって、マニラを貿易の拠点とした。
1574年10月、ジャンク船を捕獲した林鳳は、南にフィリピン諸島があること、マニラの砦が貧弱で大砲も守備兵も少ないことを知る。マニラを征服することを決意した林鳳は、最強の海軍を編成、その船団は150〜200トンの62隻のから成り、計2,000人の男と1,500人の女が乗船するものだった。
11月23日の夜、フワン・デ・サルセド(Capt. Juan de Salcedo)がルソン島北部で南下する正体不明の船団を発見した。付近を通過したスペイン船をその船団が焼き払ったため、その船団がスペイン国家に敵対するものであることは間違いなかった。サルセドは、原住民が漕ぐ7隻のボートでマニラに向けて逃げた。当時、スペイン兵の大半はパトロールと遠征に出ていたため、イントラムロスは無防備だった。サルセド自身も80名の兵士しか率いていなかった。
最後のコンキスタドール
現在のヴィガン市
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最後のコンキスタドールのひとり、フワン・デ・サルセドは、初代フィリピン提督ミゲル・ロペス・ド・レガスピの孫であり、同じく有名なコンキスタドール、Felipe
de Salvedoと兄弟である。
1564年、フワン・デ・サルセドは15歳でレガスピのフィリピン攻略に加わり、5年後にはマルティン・デ・ゴイティを副官として300名の兵士を統率していた。
1570〜71年にかけてマニラのムスリム王国を滅ぼすと、45名の兵士を率いて、フィリピン北部のイロコス・スルとルソン島を探検する。1574年の倭寇との戦いでは600名の兵士でマニラを奪還、林鳳に追撃戦を仕掛けた。
倭寇との戦いの後、イロコス・スルのヴィガンに戻ったサルセドは、1576年3月11日、27歳の時、悪性の熱病によって死亡する。
ヴィガン市は、18〜19世紀のスペインコロニアル建築の建物が多く残され、ユネスコの世界遺産に登録されている。
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11月29日の夜、林鳳の船団はカビテ湾内のコレヒドール島 (Corregidor、マニラから西に約45kmの小島、マニラ湾の入り口にある)まで進み、翌日、林鳳の日本人副将シオコ(Sioco)が上陸した。スペイン人にとって幸運なことは、上陸地点がマニラから遠く離れていたため、防衛の準備の時間が作れたことだった。
倭寇がマニラに上陸するまでの間、何人かのスペイン人は自宅で中国人に襲われた。たとえば、マルティン・デ・ゴイティ副官(Maestre
de Campo Martin de Goiti)の妻は、通過する中国人に「Go ahead dogs, because you'll
all be dead tonight!」と叫んだ。倭寇が連れていたポルトガル人通訳がその意味を翻訳したため、Goiti夫婦は捕獲された。Goitiは生きたまま鼻、耳、性器、大腿部を切断、火に焼かれて殺害、妻も強姦された上、喉をかき切られたのだった。
家々を放火しながら前進した中国人はスペイン軍と遭遇、3時間の交戦で8名のスペイン兵が死亡した。約20名のスペイン兵の増援がやってくると、それを大部隊の一部と思ったシオコは全兵力を撤退させ、母船に戻った。翌日、マニラを攻めるため、林鳳は全軍に休憩を命じた。
状況は倭寇にとって依然有利だった。スペイン軍は島々のすべての兵力をあわせても500名しかなく、マニラ市を守備するラバザレス総督(Gov.
Lavazares)は150名の兵士と数門のキャノン砲しか持っていなかった。その日倭寇がマニラを攻めなかったのはスペイン人にとって奇跡以外の何ものでもなかった。
マニラ守備隊は杭で壁を作り防備を固めた。守備隊にとってよいニュースはその夜、サルセドの部隊が帰還したことだった。
12月1日早朝、林鳳は1,500名をシオコに与え、上陸を命じた。倭寇を乗せたボートは部隊をマニラに上陸させるとすぐに母船に戻った。すなわちシオコらに撤退のオプションはなかった。
シオコは上陸部隊を三派に分け、橋や教会を焼きながら前進した。シオコの戦術は集団による正面突撃であり、スペイン軍の砲火によって多大の犠牲を出しながら、イントラムロス内に侵入した。しかし、シオコらはイントラムロス内の肉弾戦に破れ、続いて林鳳が送った400名の部隊もスペイン軍に破れた。
マニラ征服を果たせなかった林鳳は、報復としてマニラ5km南のパラニャーケ(Paranaque)の住民を全員殺害、200km北のパンガシナン(Pangasian)を占領、原住民にはスペイン人との戦争に勝ったと言い、同地域の原住民を支配、Ango川河口に木造の砦を建設した。
ラバザレス総督が恐れたことは、林鳳が原住民を組織し、反撃に出ることだった。総督はサルセドに250名の兵士と1,500名の原住民、4門のキャノン砲を与え、倭寇の掃討を命じた。
サルセドは数隻のスペイン船と70隻の原住民のボートで出発、3月に林鳳と遭遇、200名の倭寇を殺害し、彼らの船のほとんどを燃やした。ところが、河口に築かれた砦は二度におよぶスペイン兵の攻撃を跳ね返し、サルセドはは包囲して補給を絶つ作戦に切り替えなければならなかった。包囲戦に対し、林鳳は小型舟部隊を繰り出し、付近の原住民からの食料や燃料の調達を続けた。
篭城戦がはじまって二ヶ月が経過したある日、林鳳を追ってきた明の将軍Wang Wao Kaoがパンガシナンにやってきた。Wang
Wao Kao将軍は篭城戦に加わるが、林鳳は密かに脱出用のボートを建造していた(一説には脱出用の水路も掘っていたと言われる)。それから二ヵ月後、すなわち篭城がはじまってから4ヶ月後の8月3日、林鳳は37隻の船で脱出に成功する。この時、林鳳がサルセドと激しく交戦しながら脱出した水路は、現在でもLimahong水路と呼ばれている。
スペイン人は、林鳳らの粗末な船では南シナ海を横断できず、全員死亡したと考えていたが、林鳳は中国湾岸に戻っていた。そこでも200隻の明軍に追われ、1576年に林鳳はシャムに逃れる。そこで林鳳は財宝と引き換えに保護を求めるがシャム王はこれを拒否、その後の林鳳の足跡は、いかなる文献にも残されていない。
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