Chosin, Korea 1950
#257 July 2009

銃火と氷雪: 長津貯水湖の戦い

朝鮮の北部、米国海兵隊の陣地に雪が降ると気温は氷点下になった。1950年11月27日の夜のことであり、長津湖は凍っていた。まもなく海兵隊第一師団は、中国軍の波状攻撃を受け、生存のために血路を開くことになる。
この地域における中国軍の攻撃は、国連軍に対する大規模な反撃の一部分であり、中国は5ヶ月間続いた地域紛争を、大国間の戦争に変えようとしていた。

付録ゲーム「Chosin」
S&T#190のゲーム「Gauntlet」のルールを引用した「Chosin」は、「Gauntlet」と連結してプレイできる戦略ルールをオプションに持ち、300枚の付属のユニットのうちの半分以上は、連結用のものである。

移動力の制約によって、国連軍が展開できるのは事実上道路と平地部であるのに対し、中国軍はどのような地形にもペナルティなしで移動できる。
CRTは三種類あり、Mobile Combat CRTは主に中国軍の浸透戦術をあらわすためだというが、国連軍も機械化ユニットを使うことによってこのCRTが利用できる。

基本ルールには、爆撃、空襲、インターディクション、地上支援空爆、艦砲射撃、補給、司令、橋の破壊が含まれ、オプションルールに、指揮系統、塹壕、戦場の霧、遭遇戦、核兵器などが含まれる。

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リヒトホーフェンの戦争

r1892年5月に男爵の第四子として生まれたリヒトホーフェンは、11歳でプロイセン軍事学校に入学、1911年に優秀な成績で騎兵士官候補生として卒業後、アレクサンドル3世第一槍騎兵隊に中尉で配属された。彼の単調な軍務生活は3年しか続かなかった。1914年の夏、戦争がはじまったことを知ったリヒトホーフェンは、彼の先祖がしてきたように、馬に乗って祖国防衛のためにドイツに向かったのだった。

戦争がはじまった年はどの国も大規模な騎兵部隊を持っていたが、それらが時代遅れであることに気づくのに時間はかからなかった。
戦場の主役は機関銃、毒ガス、鉄条網、塹壕であり、戦車と航空機がこれに加わった。騎馬伝令兵として重砲爆撃下をくぐり抜けたリヒトホーフェンは鉄十字章をもらっていたが、1915年4月には将軍宛の手紙に、「親愛なる将軍、私はチーズや卵を集めるために戦争に参加したのではありません。もっと他に目的があるのです。」と書いている。
翌月、彼の願いは受理され、飛行機の操縦訓練のために、Cologneに送られた。そこで彼は、操縦に天性の才能があることを証明した。


タラント空襲: 1940年10月11日

s航空母艦機は、第一次大戦中は制限された使い方しかされていなかった。航空母艦の推進派はいたものの、第二次大戦が始まった時、依然、空母の力は未知数だった。

タラント空襲の成功は、旧式だが汎用性に優れた複葉雷撃機、フェアリー ソードフィッシュと、それを使用した海軍航空隊(FAA)に求められる。

そしてまた、英海軍を空から守り、正確でタイムリーな偵察を行った王室空軍(RAF)にも負うところが大きい。なぜなら、FAAには十分な偵察を行う力がなかったからである。

失敗したアメリカ革命: ロワー・カナダの革命派と王党派
1663年からの百年間は、北アメリカにとって戦争の百年間だった。それは二大国の将来のビジョンに係わる対立であり、1754年からはじまったフレンチ・インディアン戦争で、フランスは北アメリカ大陸から完全に撤退した。
1775年からはじまったアメリカ独立戦争は、パトリオット(革命派)と、イギリス王党派(トーリー)との戦いだった。1783年にアメリカ合衆国が建国されると、トーリーはカナダに新天地を求めて移動した。それはカナダにおける新しい革命のはじまりだった。
ハヌカの電撃戦: Cast Lead作戦

2005年8月、イスラエルがガザから撤退すると、ハマスとファタハの間で武力衝突が起こった。そして2007年5月、数百名のファタ派が殺害され、ハマスがガザの実権を握った。ハマスを支援したのはイランだった。経済的援助のみならず、ロケットや対戦車ミサイルも提供していた。

sハマスは25,000名の戦闘部隊から成り、5つの旅団に分かれていた。その他に6,000人の処刑部隊とQuassamロケット旅団があり、Quassam旅団は2002年から迫撃砲や40kmの射程のあるQuassamロケットでイスラエル国内を攻撃していた。

2008年6月、イスラエルとハマスが停戦に合意した時も、Quassam旅団は一週間に数発のミサイルを発射していた。12月19日に停戦が終了すると、Quassam旅団は一日に数十発のロケットや迫撃砲で攻撃、12月24日には60発を数えるほどになった。

イスラエルはこの間、何もしていないわけではなかった。総合保安庁シン・ベトは、6ヶ月間の停戦の間に、ハマスの施設や作戦、上級将校の居住地などを突き止めていた。シン・ベトに協力したのはガザに潜入したファタハだった。

作戦名「Cast Lead作戦」は、N.H.ビアリクの詩「ドレイドルを鉛で鋳造する」から引用され、目的はハマスのミサイル攻撃を不可能にし、エジプトとの間の武器密輸トンネルをつぶすことだった。

イスラエル軍は2006年夏のレバノン侵攻(対ヒズボラ)から教訓を得ていた。空軍力のみでハマスと戦うことは不可能で、地上軍の投入が不可欠だった。レバノン侵攻と異なり、イスラエル軍の各部隊には、ガザ内の明確な目標が決められ、ガザ地区を模したモックアップの施設で訓練まで行っていた。

作戦は12月26日午前11時30分、第三次中東戦争以来の大規模なイスラエル空軍の空襲からはじまった。それはハヌカの6日目のことで、60機の航空機と攻撃ヘリが5分間で50箇所の目標を攻撃した。目標には、ハマス政府ビル、護衛施設、トレーニングキャンプ、警察署が含まれた。30分後には別な60機が第二派攻撃を行い、作戦初日には170箇所が攻撃を受け、286人のパレスチナ人が死亡した。

8日間の空襲の後、イスラエル地上部隊がガザに突入した。ハマスは、イスラエル軍が市街の内部深く侵入することを期待していた。ハマスの戦法は、病院、学校などから攻撃することであり、市民に犠牲者が出る攻撃をイスラエル軍に強いることだった。それに対し、イスラエル軍は長距離射撃で攻撃した。

Cast Lead作戦によって700名以上のハマスが死亡、少なくとも150名が捕虜になった。一日に70発を数えたハマスのミサイル射撃は20発まで減り、武器密輸トンネルの2/3は破壊された。この作戦におけるイスラエル側の死亡者は3名だった。