HANNIVBAL'S WAR
#254 February 2009

ハンニバルの戦争: 第二次ポエニ戦争

ハンニバル・バルカは、カルタゴのもっとも著名な将軍である。紀元前219年、彼はイベリア半島のサグントゥムを攻撃した。サグントゥムはギリシャの植民地でローマ帝国の保護下にあった。実のところ、ローマ帝国が軍事介入しない選択もあったが、元老院は戦争を選んだ。ローマ帝国にとって、本当の問題はサグントゥムでなく、カルタゴにあった。

その17年後にカルタゴはすべての戦いに敗れ、ローマに降伏するが、その間ハンニバルは、ローマ軍数個軍団を壊滅させ、将軍としての名声を欲しいままにした。

作戦と誤算
8ヶ月の交戦の後、ハンニバルはサグントゥムを占領した。そこからハンニバルはイタリア半島をめざし、象部隊がアルプス山脈を越えるという意表をつく戦略をとった。

ハンニバルがアルプスを越えた理由はふたつあった。ひとつはローマ帝国が制海権を持っていたこと。もうひとつは、途中で遭遇するガリア人を同盟に加えることだった。同盟は、ハンニバルがローマ軍との戦いに勝つに従いどんどん増えるはずだった。
ハンニバルの戦略は、戦勝を材料ににしてローマの同盟都市を離反させ、その上でローマに決戦を挑むことだった。

アルプス山脈を越える行軍は過酷なものだった。アルプスを越えた時、90,000名だったハンニバルの軍隊は30,000名に減っていたが、彼は勝利を信じており、その後のローヌ川、ティキヌス、トレビア、トラシメヌス湖畔のすべての戦いでローマ軍に勝利を収めた。

紀元前216年のカンナエの戦いでは、ハンニバル40,000名の軍とローマ軍72,000名が激突、この戦いでローマ軍は全滅に近い大敗を喫するが、にもかかわらず、ローマの戦意は維持されていた。ハンニバルとの戦いでローマ軍は三個軍を失ったが、ローマはそれを上回る軍隊を動員することができた。一方、敵地にいるハンニバルには、失った兵力を回復することができなかった。

ローマと同盟都市との結束はほとんどが保たれ、この誤算が、その後のカルタゴの敗退を招く結果になる。

Hannibal's War
S&Tの"1066"のルールを引用した"Hannibal's War"は、2から4人用のゲーム。

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大英帝国のブエノスアイレス占領 1806-07

18世紀の初頭から、大英帝国はアルゼンチンを重視していた。
スペイン帝国が中央および南アメリカまで植民地を拡大した結果、スペインの植民地は大英帝国と通商を行うようになった。やがて、これらの地域がイギリスから大量の工業製品を購入するようになると、植民地のイギリス領有もしくは独立が、イギリスにとっての最重要目標になった。

1711年にロンドンで出版された”Proposal for Humbling Spain”は、ブエノスアイレスのイギリス軍侵攻を薦める本だった。1762年、七年戦争でポルトガルと同盟を組んだイギリスは、ブエノスアイレスを占領しようとして撃退された。
1783年、北アメリカの独立戦争に敗れたイギリスは、南米への権益拡張を真剣に検討しはじめた。スペイン植民地を武力で征服することは困難ではなかった。植民地を防衛していたのは、少数の士官に率いられた現地召集の兵士で、彼らはスペイン本国から援軍が来るまでの役割しか与えられていなかった。1805年のトラファルガー海戦によってスペイン艦隊が壊滅してからは、スペイン帝国は、これらの植民地を守ることができなくなっていた。

イギリスのブエノスアイレス占領は、海軍司令官の独断からはじまった。
南アフリカのケープ植民地の占領で遠征したHome Riggns Popham卿(海軍士官、外交官、政治家)は、1806年6月にブエノスアイレスを攻略したが、これは南アフリカとインドのシーレーンを防衛する、という任務を拡大解釈したものだった。

スペイン副王領(現在のアルゼンチン+パラグアイ+ボリビア)の兵力は書類上は4,000名だったが、実際はその半分であり、脆弱な現地召集兵の集まりだった。しかも、イギリス艦隊がリオデラプラタ河に現れた時は、ほとんどがボリビアに遠征していた。植民地の領事the Marquis of Sobremonteは、Montevideoがもっとも軍艦に適した港であるという理由から残存兵力をそこに置いたが、イギリス艦隊が上陸したのはMontevideoの反対岸、ブエノスアイレスから南に18kmのQuilmesだった。

6月25日1,,500名の兵士と6門のキャノン砲でQuilmesに上陸したWilliam Beresford卿(イギリス軍)は、さしたる抵抗にもあわず、2日後にブエノスアイレスを占領した。この時、Sobremonteスペイン領事はアルゼンチン第二の都市Cordobaに逃げていた。
Popham卿は、捕獲した銀を士官や兵士たちに分け、ロンドンに戦勝の知らせを送り、援軍を要請した。この時、Popham卿の視点では戦争は成功した。

アルゼンチンの住民(白人移民)は、当初はイギリス軍を歓迎したが、まもなく、ひとつの海外政権が他の政権に変わっただけということに気づいた。Montevideoでは、スペイン軍の士官Santiago Liniers、ブエノスアイレスではManuel Belgrano(後にウルグアイ独立戦争で有名)が義勇兵をまとめ、8月1日に、ブエノスアイレス郊外でイギリス軍と交戦した。戦術的優位のあったイギリス軍が勝利したものの、これはその後続く反英抗争のはじまりだった。

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Santiago Liniersは、もともとはスペイン軍に雇われたフランス人士官だった。ボランティアの兵が増えるにつれ、彼の率いる軍隊は市民軍に変貌した。参加した兵は自前の武器とユニフォームを持つ裕福な市民層だった。他に2,000名の原住民が軍に加わろうとしたが、これはLiniersによって拒否された。最終的にLiniersの軍隊は1,930名となり、その中にはスペイン軍の160名の砲兵と5門のキャノン砲も含まれていた。

Liniserの軍は8月3日の夜、吹雪にまぎれてリオデラプラタ河を渡り、10日にはリオデジャネイロを臨む地点に到着した。正規軍の集まりであるイギリス軍は総合戦力において優っている、と考えたLinsierは、市街戦に持ち込むことで戦いを有利に運んだ。騎馬隊がリオデジャネイロへの物資補給を断ち、砲兵がイギリス艦隊に海岸から砲撃を開始して、Liniserのリオデジャネイロ攻略が始まった。
戦闘は家から家、屋根から屋根づたいに行われた。45,000の市民はLiniser軍を支援、イギリス兵はバルコニーから狙撃された。8月12日の午後にBeresford卿が降伏した時、イギリス軍は200名の死傷者を出していた。一方、Popham卿は無傷で逃げることができた。彼を止めるスペイン艦隊が存在しなかったからである。

第二次侵略
1806年9月、ブエノスアイレスでの敗退を知らないロンドン市民は戦勝パレードを行っていた。4,300名の増援軍の派遣も決定、Montevideoやチリ、ボリビアに進駐する予定だった。
間もなく、Beresford卿の降伏のニュースが入り、遠征軍のうち1,300名はケープタウンの守備に送られ、残り3,000名がブエノスアイレス再攻略に使われた。

第二次ブエノスアイレス侵攻の第一陣は、Popham卿の再上陸だった。彼は、10月29日にスペイン兵250名が守備するMaldonadoを占領、橋頭堡を築いた。翌年1月5日にSamuel Auchmuty卿率いる増援軍がイギリスから到着すると、Popham卿は第一次ブエノスアイレス攻略の失敗の尋問のためロンドンに送還された。イギリス軍は5,000名に膨れ、司令官にはAuchmuty卿が就いた。
にもかかわらず、イギリス軍の前途は困難が横たわっていた。橋頭堡は敵対する市民軍に包囲され、ゲリラ戦が挑まれていた。イギリス兵がそこに定住することは困難であり、Auchmuty卿はロンドンに、「すべてにおいて不足、兵士の戦意は落ちる一方」と報告している。

有利な海軍力を使うため、1月16日にイギリス軍は海上からMontevideo郊外に上陸、2,500名のスペイン軍を破った。この敗北でスペイン副王領事Sobremonteは二度目の逃亡をした。
イギリス軍は1月21日からMontevideoに攻勢をかけ、バリケード越しの激しい白兵戦の末、2月3日に守備軍を破った。この時のイギリス軍の死傷者は400名であり、守備軍の損害は1,300名だった。

ブエノスアイレスの政変
2月5日、Montevideoの敗北の知らせがブエノスアイレスに届くと、市民は評議会を開いて植民地領事Sobremonteを罷免、Linisersを新領事に任命した。これは、植民地の代表者達がスペインの権威を否定した最初の政変という点において歴史的な事件だった。

ブエノスアイレス市民は、来るべきイギリス軍の攻撃に備えて防備をはじめたが、戦いの行く末は彼らにとって思わしいものではなかった。翌月のColonia del Sacramentoの小競り合いではイギリス軍が勝利、5月10日にはイギリス本国から増援が届き、軍勢は11,000名の陸軍と3,000名の水兵に増強された。指揮はこの時やってきたJohn Whigtelocke将軍が掌握した。

6月28日に、イギリス軍はEnsenada de Barraganに上陸、7月4日に、ブエノスアイレスを守るLiniers軍と衝突、一年前と同じ戦闘が繰り返された。家から家、屋根から屋根づたいへの戦闘、市民はイギリス軍に投石し、煮えた油を投げつけ、砲兵とバリケードが広場を封鎖した。2日間の戦闘でイギリス軍はまたしても散り散りになり、Whitelocke将軍は降伏した。
降伏の条件にMontevideoの解放も含まれ、イギリス軍には2ヶ月の撤退期間が与えられた。9月9日にイギリス軍は撤退、帰国したWhitelocke将軍はMontevideoを簡単に開け渡した罪で軍事法廷にかけられ、除隊された。

dHome Riggs Popham卿
ケンブリッジ大学を卒業した後、英国海軍に入隊した彼は陸戦兵士の移送と上陸のエキスパートだった。一時期、外交官と国会議員を務めた彼は、英国海軍の信号法を改革したことでも知られている。
リオデジャネイロの降伏で軍法会議にかけられた彼を、ロンドン市民は、新しい市場を開いた英雄、として賞賛した。
1812-13年の半島戦争では、スペインのゲリラ軍の支援を行い、1814年に少将に昇進、大きな家族を残して1820年に亡くなっている。
dWilliam Carr Beresford
アルゼンチンに向かった時、彼は既にエジプト(1801-03)とケープタウン(1805)で戦った退役軍人だった。Beresfordは46日間、ブエノスアイレスを支配、尊敬は受けたが住民の忠誠は得られなかった。
ブエノスアイレスで降伏して捕虜になった後、彼は独立派の支持者によって他のイギリス人士官とともに脱獄、Montevideoに逃げた。
第二次ブエノスアイレス攻略への参加は拒否したが、帰国してからポルトガル軍の再建の任務についた。Wellington卿は彼の勇気と知性を賞賛、ナポレオン戦争の後、子爵の称号を与えられている。
dSantiago de Liniers y Bremond
フランス生まれの彼は、1761年のフランス-スペイン同盟の恩恵を受け、フランス軍時代と同じ条件でスペイン軍にたびたび雇用された。
1774年、カルタヘナ(カリブ海)ではスペイン懲罰艦隊に乗り海賊と戦った。1775年にはColonia del Sacramento(ラプラタ河)でポルトガル軍と戦い、1779年に戦艦San Vicenteの艦長になり、1783年、メノルカの再占領で目覚ましい戦いを見せ、1788年、ラプラタ河に戻りMontevideoの要塞化、1796年に海軍大尉に昇進、1806年にイギリス軍がブエノスアイレスに攻める直前に副王領事からEnsenadaの司令官に任命されている。
イギリス軍撃退の後、Liniersは副王領事となるが、1808年、フランスがスペインに侵攻するとスペイン王からその地位を剥奪され、1810年に、反独立行為の罪で銃殺された。

その後
トラファルガー海戦で艦隊を失ったスペインは、1805年以降、植民地に増援軍を送ることができなくなっていた。ブエノスアイレスの市民は自前の義勇軍でイギリスと戦わなければならなかった。
スペイン王カルロス4世がナポレオンによって退位させられると、世界中のスペイン植民地が無政府状態になった(1810年)。
かつて反英のもとに結集した義勇軍はイギリスに勝利した後、スペインからの独立のために戦った。そして、スペインから独立したアルゼンチンは自由貿易を推進し、イギリスに市場を開いた。

ロンドン政府は、新しい海外市場を得るためには、必ずしもその国を軍事的に滅ぼす必要はないことを学んだ。イギリスが行うべきことは、南アメリカの白人移民を支援し、国家を独立させることだった。そして彼らはその通りにした。
アルゼンチンやチリの軍艦を動かしたのはイギリス人士官と水兵だった。ボリビア、ベネズエラ、ニューグラナダでは多くのイギリス人、アイルランド人が義勇兵として戦った。1830年頃に、南米のすべての独立戦争が終わった時、ほとんどの国の経済はイギリス人投資家に支えられていた。
(S&T#245に関連特集記事「The Triple Alliance War」、17世紀のイギリス、スペインの争いをグローバルに扱ったゲームがS&T#268「When Lions Sailed」にあります。)

サイバー戦争 21世紀の前線

19世紀のテレグラフの発明以来、電子通信手段は、情報の伝達速度という点において、飛躍的に世界を小さくした。すべての人類の発明にみられるように、紛争はネット社会の中にももたらされた。

バルバロッサ: ウクライナ国境沿いの戦車戦

g1941年のバルバロッサ作戦で見られた赤軍の敗退の原因は、戦争前のプランニングにあった。赤軍は、ドイツ軍が戦争を始める前に十分な警告があるはずであり、従って兵員を動員し配置する時間がある、と考えていた。
それは過去のドイツに当てはまる予想であったが、今回のドイツは違った。ヒトラーは奇襲攻撃を行うために十分な時間をかけてソビエトを欺瞞した。

1930年代半ばが赤軍の戦力のピークだった。最新鋭の戦車と航空機を持ち、空挺作戦のパイオニアでさえあった。1930年代後半のスターリンの粛清によって赤軍のリーダーシップは崩壊し、将校達は相互不信に陥った。さらに悪いことに、7月22日にドイツ軍が侵攻をはじめた時、赤軍は再編成の真っ只中だった。