First Air Battle Over Britain
#255 March 2009

最初のバトルオブブリテン

史上初の戦略爆撃
1917年、第一次大戦の三年目を迎えた西部戦線は膠着状態に陥っていた。よく知られるように、両軍とも、既存の歩兵突撃や砲爆、航空機による戦術支援では敵の塹壕線を破ることができなかった。少なくとも1918年まで、戦車や浸透戦術などの新戦法は、決定的な打撃を相手国に与えていない。

イギリス本土への戦略爆撃を行うために創設されたのが、Luftstreitkrafte(ドイツ空襲部隊)であり、1916年の終わりには、作戦名Turkenkreuz (Turk's Cross)に許可が下りた。作戦の内容はイギリス南部の工業地域、物資集結所と通信網をGotha爆撃機の大編隊によって破壊することであり、航空基地は占領下のベルギーに置かれた。
実際のところ、ドイツは1915年に飛行船Zeppelinを使って同様の試みを行っている。しかし、飛行船は気流の影響を受けやすく、イギリス軍が開発した燃焼弾によって容易に発火した。Zeppelinは夜間高高度飛行によってイギリス軍迎撃機による攻撃をかわしたが、夜間に地上目標を識別することは困難で、正確な爆撃など望むすべもなかった。

市民に犠牲者が出るという理由から、当初、ドイツ軍は航空機の集中投入による戦略爆撃をためらっていた。1914〜18年のあいだ、空襲が国際法や道徳にかなうかどうかは誰にもわからなかった。
ドイツ軍の爆撃推進派は、ロンドンに軍需工場があるという理由から空爆を正当化した。そして、連合軍の海上封鎖によって食料と物資の輸入が途絶え、前線と市民に飢餓がもたらされると、ドイツ最高司令部は連合軍に対する徹底的な打撃が必要となった。すなわち、イギリス本土への戦略爆撃が許可されたのである。

成果
1917年5月から1918年5月まで、Kagohl 3(High Command Battle Wing 3)によって22回のイギリス空襲が実施され、93トンの爆弾が落とされた。ドイツ軍は計61機の航空機を失ったが、損害の半分は機械不良と天候不順によるものだった。イギリス側には3百万ポンドの損害と836人の死者が発生、そのほとんどは市民だった。

ドイツ軍は軍事施設を空爆の目標としたが、目標をはずれた爆弾が市民を殺傷したため、Zeppelin空襲の時と同様、イギリス市民の政治的怒りを買い、イギリスの戦意は反対に高まった。空爆を繰り返すうちにイギリス市民は空爆に慣れ、戦争継続を支持した。イギリス軍が優れたエア・ディフェンスシステムを作り上げたため、ドイツ軍の戦略爆撃がヨーロッパ戦線に寄与することはなかった。

 

First Battle of Britain
Joseph Mirandaがデザインした"First Battle of Britain"は、中程度の難易度を持つ対戦ゲームである。
史実では、ドイツ軍のイギリス空襲は、都市および工業地域にほとんど損害を与えなかったが、その心理的インパクトは大きかった。そこで、ドイツ軍プレイヤーがどれだけイギリス市民をパニックに陥れるかで勝負が決まる。
両プレイヤーは「戦意ポイント」を使って軍の増強を行う。防御側は敵機を撃墜することで「戦意ポイント」を得る。一度爆撃した地点を再度爆撃しても、相手国の「戦意ポイント」はほとんど減らない。理由は、一度爆撃したら、市民は慣れてしまうからである。史実でも、ドイツ軍は同じ場所を二度爆撃することは少なかった。
戦闘指揮もまた重要なファクターだったので、任務グループ(Mission Group)ルールを作り、当時の貧弱な空中の指揮伝達を表現した。
Zeppelinユニットも登場するが、この時期の飛行船は強いものではない。しかし、高高度に逃れる性能があるため、追撃値は大きくなっている。

過去のS&T
50号前#205
The Boer War

Joseph Mirandaによる大英帝国とボーア人との戦い(1899-1902)。バターンにおけるマッカーサーと二本、クレシーの戦い、Ed Mottによるアメリカ陸軍航空隊XXI

100号前#155
Anzio

John Schettlerによるイタリアキャンペーンは、連合軍が大胆に、敵背後に上陸作戦を行うゲーム。John Burttは冷戦時代のマニラ暴動における勝利、Joseph Mirandaがアメリカ合衆国陸軍長官および国務長官を務めたElihu Rootの記事。

150号前#105
Ruweisat Ridge

ロンメルの1942年エジプト侵攻を描いたゲームをDouglas Niles。Ed Sollersによる連合軍の1942年夏の記事、Richard Bergがシーザー凱旋、Dr.David Martinがゲティスバーグ、Richard Bergのゲームレビュー、Ian Chadwkickがコンピュータシュミレーション。
200号前#55
Breitenfeld

Jay NelsonとRed Simonsenによるスゥエーデンとオーストリア帝国の戦い。Al Nofiが17世紀ヨーロッパの「大戦争」、J.Thomasのヴュルツブルク、Phil Kosnettの古代と中世の"(SPI)PRESTAGES"のシナリオ分析。
アンティパトロス: アレキサンダー大王の摂政

アンティパトロス(Antipater)は、無名だが、アレキサンダー大王が東方遠征の時に後方を守った将軍である。アレキサンダー大王の父フィリッポス2世の腹心の一人だったアンティパトロスは、紀元前334年にアレキサンダー大王がペルシャ遠征に行った時、王国の経済と支配を任された。

アンティパトロスは、アレキサンダー大王の死後、大王の妻と息子を支援し、摂政として彼らが王位を継承するのを助けた。

アレキサンダー大王時代に彼が果たした役割は不明だが、おそらくアレキサンダー一族にもっとも忠実だった人物に違いない。

連続した惨劇: サンドクリークとフランクリン

1200マイルの隔たりはあるものの、サンドクリークの惨劇と第二次フランクリンの戦いは、1864年11月の最後の48時間におきた。

サンドクリークではChivington大佐率いる騎兵隊が停戦状態にあったCheyenne族170名を殺害、フランクリンでは午後9時までの戦闘で南軍が1,700名の戦死を出した。

朝鮮戦争におけるコロンビア軍の歩兵大隊

コロンビア軍は、永年、国内の治安維持に用いられてきた。国内では保守派とリベラル派との内戦や暴動が絶えなかった。

朝鮮戦争が勃発する直前、コロンビアの政治は混乱状態にあった。1948年4月、リベラル派のリーダーJorge Eliecer Gaitanが暗殺され、ボゴタでおきた暴動は都市の1/3を破壊した。"La Violencia"と呼ばれる反乱で1958年までの10年間で100,000名の生命が失われたが、もっとも争いが激化したのは1950〜53年のLaureano Gomez大統領(保守派)の期間で、朝鮮戦争の真っ只中だった。

にもかかわらず、コロンビア政府はアメリカ軍との繋がりを深めるため、1950年11月14日に朝鮮派兵を決定した。コロンビア軍はラテンアメリカから派兵した唯一の国であり、アジア・太平洋地域以外の国から朝鮮戦争に参加したのはコロンビアとエストニアだけだった。