The Battle of Kursk, 1943
#253 November 2008

クルスク: 戦術的勝利と戦略的敗北

1943年にドイツ軍がスターリングラードで敗退を喫してから、ソビエト軍は攻勢を続けていた。StalinoからOrelの間、戦線の中央部から南にかけてドイツ軍は後退を余儀なくされたが、南方軍集団のマインシュタインの「後手からの一撃(Backhand Blow)」によって、Kursk周辺にソビエト軍の突出部ができた。この突出部が、Zitadelle作戦 - 1943年夏のドイツ軍の一大攻勢の舞台となった。

Zitadelle作戦の目的は、突出部内のソビエト軍を叩くことだった。作戦地域をKurskに限定することで、ドイツ軍は夏の終わりまでに作戦を終えることができ、鈍重なソビエト軍が反撃に出るまでには強固な防衛体制が作れると考えられた。ソビエト軍は、新しい状況に即応できない軍隊であり、予備役の召集から反撃まで、異常なくらい時間を要した。ソビエト軍の予備軍が壊滅するなら、その年の終わりまでソビエト軍が攻勢に出ることは困難と思われた。

敗因
Zitadelle作戦が失敗した原因は、ドイツ軍が敵の戦力を低く見積もりすぎたからである。ドイツ軍は、冬まで、ソビエト軍が攻勢に出ることはないと考えていたが、実際には、ドイツ軍が攻勢をかけるのと同じ時期に、ソビエト軍も攻勢に出るだけの戦力を擁していた。彼らが攻勢に出なかったのは戦略上の理由からだった。
Kurskでソビエト軍が行ったことは、電撃作戦の真逆だった。一帯を陣地化し、対戦車砲と地雷で守り、予備軍を後衛に置いた。さらに独立した対戦車旅団を編成、拮抗した戦場に投入した。

仮にヒトラーが損害を無視してKurskを攻め続けたらどうなっただろうか?Kurskで勝利しても、ドイツが敗北する時期が先に延びただけであろう。ドイツは、1915-17年当時と変わらない状況にいた。すなわち、ヨーロッパ全土で、多方面作戦を展開していたのである。

1943年夏の東部戦線で、ドイツ軍のもっとも現実的な選択は、何もしないことであろう。ロンメルやグーデリアンは突撃砲や駆逐戦車の生産と配備を推薦していた。彼らは、これらの戦車を多数戦場に配備することで、来るべきソビエト軍の侵攻を食い止めることができると信じていた。
あるいは、この時期、レニングラードを落としたなら、フィンランドと連携できたかもしれないし、共産主義に対する政治的プロパガンタになり、少なくとも戦略上、戦線北部の「くさび」になった。

Drive on Kursk, July 1943
このゲームは、SPIが1970年代に発売したKurskから数えて第三版にあたる。第二版は、「Eric Goldberg's Kursk」。第一版の「Kursk」はS&Tで発表されたもので、James F. Dunniganの「France 1940」のシステムを流用していた。
第三版では、両プレイヤーが移動フェーズと戦闘フェーズの順番を好きに変えられる。移動フェーズを戦闘フェーズより先にしてもいいし、戦闘フェーズ後に移動をしてもよい。あるいは、移動フェーズを二度行ったり、戦闘フェーズを二度行うことも可能。
デザイナーズノートによれば、「 Kurskは、真夏に十分な指揮距離の範囲で戦われたので、ルールでも天候と補給を最小限にした。プレイヤーは、地理上の目的を奪取することと、それに伴う損害のジレンマに立たされるであろう。」だという。

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プロホロフカ(Prochorovka)の誤謬

1943年7月12日にKursk近郊のProchorovkaで行われた戦いは、史上最大の戦車戦であり、52年たった後も、歴史家David Glantzが次のように記している。
「両軍、1200両以上の戦車が激突した。ソ連第5親衛戦車軍の第18、29戦車軍団は、敵を射程内に納めるため、開けた平地で自殺的な突撃を行った。ロトミストロフ中将は800両の戦車のうち400両を失ったが、ドイツ軍も320両の戦車と自走砲を失った。」

帝国の終焉: マラズギルトの戦い

ds1071年にアナトリアの要塞で戦われた戦争は、その後の世界史を決定付けた戦争のひとつである。この戦争は、東ローマ帝国の滅亡のきっかけとなり、中東への西側諸国の反撃 - 十字軍 - の布石となったのである。(東ローマ帝国とセルジューク朝の戦いの記事)

鉄条網に突進するPT-76: ランベイ基地の攻防

f1968年1月からはじまったテト攻勢の中で、2月7日夜半には、北ベトナム軍304師団が、ユエの西60キロにあるランベイ・キャンプを攻撃した。ランベイは、南ベトナム政府軍レンジャー部隊の守る特殊部隊の基地だったが、激戦の末、11両のソ連製PT-76戦車によって蹂躙された。これは北軍がベトナム戦争で南ベトナムでの最初の戦車使用であった。
11両のPT-76のうち、7両が破壊、400名の304師団の中で250名が死傷、一方、アメリカ軍は24名の特殊部隊員が死傷、山岳民族からは269名の死傷が出た。

"You have never lived until you have almost died, for those who have fought for it, life has a special flavor the protected will never know." 5th Special Forces.

"We Kill For Peace!" MACV-SOG

データファイル: コブラ作戦
コブラ作戦に登場するアメリカとドイツ軍の部隊構成。