1943年にドイツ軍がスターリングラードで敗退を喫してから、ソビエト軍は攻勢を続けていた。StalinoからOrelの間、戦線の中央部から南にかけてドイツ軍は後退を余儀なくされたが、南方軍集団のマインシュタインの「後手からの一撃(Backhand Blow)」によって、Kursk周辺にソビエト軍の突出部ができた。この突出部が、Zitadelle作戦 - 1943年夏のドイツ軍の一大攻勢の舞台となった。
Zitadelle作戦の目的は、突出部内のソビエト軍を叩くことだった。作戦地域をKurskに限定することで、ドイツ軍は夏の終わりまでに作戦を終えることができ、鈍重なソビエト軍が反撃に出るまでには強固な防衛体制が作れると考えられた。ソビエト軍は、新しい状況に即応できない軍隊であり、予備役の召集から反撃まで、異常なくらい時間を要した。ソビエト軍の予備軍が壊滅するなら、その年の終わりまでソビエト軍が攻勢に出ることは困難と思われた。
敗因
Zitadelle作戦が失敗した原因は、ドイツ軍が敵の戦力を低く見積もりすぎたからである。ドイツ軍は、冬まで、ソビエト軍が攻勢に出ることはないと考えていたが、実際には、ドイツ軍が攻勢をかけるのと同じ時期に、ソビエト軍も攻勢に出るだけの戦力を擁していた。彼らが攻勢に出なかったのは戦略上の理由からだった。
Kurskでソビエト軍が行ったことは、電撃作戦の真逆だった。一帯を陣地化し、対戦車砲と地雷で守り、予備軍を後衛に置いた。さらに独立した対戦車旅団を編成、拮抗した戦場に投入した。
仮にヒトラーが損害を無視してKurskを攻め続けたらどうなっただろうか?Kurskで勝利しても、ドイツが敗北する時期が先に延びただけであろう。ドイツは、1915-17年当時と変わらない状況にいた。すなわち、ヨーロッパ全土で、多方面作戦を展開していたのである。
1943年夏の東部戦線で、ドイツ軍のもっとも現実的な選択は、何もしないことであろう。ロンメルやグーデリアンは突撃砲や駆逐戦車の生産と配備を推薦していた。彼らは、これらの戦車を多数戦場に配備することで、来るべきソビエト軍の侵攻を食い止めることができると信じていた。
あるいは、この時期、レニングラードを落としたなら、フィンランドと連携できたかもしれないし、共産主義に対する政治的プロパガンタになり、少なくとも戦略上、戦線北部の「くさび」になった。
Drive on Kursk, July 1943
このゲームは、SPIが1970年代に発売したKurskから数えて第三版にあたる。第二版は、「Eric Goldberg's Kursk」。第一版の「Kursk」はS&Tで発表されたもので、James F. Dunniganの「France 1940」のシステムを流用していた。
第三版では、両プレイヤーが移動フェーズと戦闘フェーズの順番を好きに変えられる。移動フェーズを戦闘フェーズより先にしてもいいし、戦闘フェーズ後に移動をしてもよい。あるいは、移動フェーズを二度行ったり、戦闘フェーズを二度行うことも可能。
デザイナーズノートによれば、「
Kurskは、真夏に十分な指揮距離の範囲で戦われたので、ルールでも天候と補給を最小限にした。プレイヤーは、地理上の目的を奪取することと、それに伴う損害のジレンマに立たされるであろう。」だという。
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