9世紀から13世紀まで東南アジアに君臨していた王国は、クメール王朝である。その版図は現在のカンボジア、タイ、南ベトナム、ラオス、ビルマにまで及び、首都アンコールは最盛期で750,000人の人口を集めた。
そのクメール王朝時代でもっとも有名かつ偉大な王は、Jayavarman VII(ジャヤーヴァルマン7世、1178 - 1219)であろう。
今日でも人気の高いJayavarman VIIは、シャムに占領された首都を奪還した後に、クメール王朝の領土を最大限に広げた。仏教に深く傾倒していたJayavarman
VIIは、王朝の国教を仏教に変えたことでも知られる。
クメール王朝以前
クメール王朝によって統一される前のカンボジアは、略奪が横行する無法地帯だった。治安があまりにも悪かったため、家族単位の生活は困難で、一家の中に殺害されたり誘拐された者がいることは当たり前だった。
森では虎、コブラ、野牛や象が人間を襲い、河にはワニが生息していた。自然の脅威から身を守るため、彼らは竹の上に住居を作り、"P'o-to-li"と呼ばれる悪魔神に生け贄を捧げ、安息を求めた。
7世紀から8世紀にかけて、インドから来たヒンズー教徒がヒンズー教を広めた。ヒンズー教はJayavarman VIIが仏教を国教にするまでの間、カンボジアの主要な宗教だった。
今日のカンボジアの地域にクメール王朝を樹立したのは、Jayavarman IIである(802年)。Jayavarman IIは、もともとジャワ王国に囲われていた人質だったが、カンボジアでの反乱を平定するためにジャワ王からカンボジアに派遣された。自由を得たJayavarman
IIはジャワ王国に反旗を翻し、クメール王朝をうちたてたのだった。
Jayavarman VII王子
Jayavarman VII王子は、国王Yashovarman IIの息子のひとりである。王子の中で王位継承からもっとも遠いところにいた彼は、1165年、チャンパ王国に人質に出された。仏教に帰依していたJayavarman
VII王子は、悟りを求めて座禅三昧の日々を過ごしていたが、その修行は13年目の1177年に打ち破られた。
チャンパ王国がクメール王朝を急襲したからだった。それより十年前、Jayavarman VIIの父親はクーデターによって殺害され、王族の血を引かないTribhuvanadityavaman将軍がクメール王国の王になっていたが、以来、クメール王国は分裂していた。その混乱に乗じてチャンパ王国はクメール王国に攻め入り、首都アンコールを占領したのだった。アンコール陥落と同時にTribhuvanadityavaman将軍は殺害され、アンコールワットに祭られていた聖なる種火は持ち去られた。1,000名の祭女(Apsara
dancers)も略奪されていた。
自分の身に危険が及ぶことを知ったJayavarman VII王子はチャンパ王国を密かに脱出、首都アンコールに向かうが、彼が途上で知った事実は、1,000名いた王族は全員殺害され、王家の血を引く者は自分ひとりになっていた、という事実だった。
やがて彼は生き残りのクメール王朝軍兵士を集め、チャンパ王国に決戦を挑んだのだった。
アンコールワット
Suryavarman II王(1113 - 1150)による建設。無数のヒンズー寺院から成るアンコールワットは、須彌山
(スメール山) を模したもので、須彌山は最高神ビシュヌが住む神聖な山とされている。当時の寺院の外壁は金箔で覆われていた。
クメール人や周辺の部族は、アンコールワットは須彌山とつながっており、そこに神聖な力と富が宿ると信じていた。その後のクメール王朝の戦争の中でアンコールワットの争奪戦が行われたのは、まさにその理由によるものである。
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クメール王朝にとって幸運だったことは、Jayavarman VII王子が、誰もが従うだけのカリスマ性とリーダーシップを備えていたことだった。
Jayavarman VII王子はアユタヤ王国とシャム王国を味方につけ、陸路と河川の二方向から首都アンコールを攻略した。言い伝えによると、首都を陥落させた際、Jayavarman
VII王子自らがチャンパ国王Indravarmanを殺害、死体となった後も矢を射続けたという。敬虔な仏教徒は、13年に及ぶ人質生活と祖国を滅ぼされた時の怒りを爆発させたのである。
クメール王国を復活させたJayavarman VII王子は、逆にチャンパ王国に攻め入って属国とした。
1291年に91歳で亡くなるまで、Jayavarman VIIはたくさんの寺院を建設し、仏教を興隆した。この時の建設事業がクメール王朝を疲弊させたとも言われる。彼はヒンズー教にも寛容であったため、東南アジアの仏教はヒンズー教との混合宗教として発展した。アンコールワットは仏教寺院として復活、同時に、ヒンズー教の聖火も祭られ、聖女の数は三倍の3,000人に増員されたという。
クメール王朝は1431年に滅亡した。
属国だったアユタヤ王国(タイ)が攻め入り、7ヶ月の戦いの後に勝利した。アンコールワットは再び収奪され、祭女はタイに連れ去られた。以来、アンコールワットは放棄された。 |