沈まぬ太陽:
19世紀の大英帝国
#274 May 2012

沈まぬ太陽: 19世紀の大英帝国

19世紀、イギリスは人類史上最大の政体に膨張した。
文明を流布、通商を増やし、マキャベリズムによって支配地域を拡大した中で、イギリスの海外政策の中心にいたのは常にイギリス陸軍であった。しかし、当時の先進国の基準から見ても、イギリス陸軍の規模は小さいものだった。そこで歴史家が想起する疑問は、それだけの少ない兵士で、どうやってあれだけの広い領域を支配できたのであろうか、ということである。

イギリス陸軍の司令官
当時のイギリス陸軍の優位性を決定づけた要素の一つは、リーダーシップである。
中でも、ワーテルローの戦いでナポレオンを破ったWellington卿が残した影響は大きかった。すなわち、司令官たるもの、敵の弱点をみつけ好機を逃さず、戦火の中でも冷静に命令を下し、兵士の模範となって士気を高める、というものである。

このような指揮の例は、Henry Havelock(ペルシャ戦争、セポイの反乱)、Hugh Gough(シク戦争)、Henry Pottinger(第一次アフガン戦争)などの、特に19世紀前半の植民地におけるイギリス人司令官に多く見られる。
たとえば、セポイの反乱においてインド人傭兵もイギリス軍も同じように訓練され、同じ武器で武装していた。両者の違いを決定づけたのはイギリス人指揮官の存在だった。
もちろん、最高指揮官が害悪をもたらしたケースもある。第一次アフガン戦争(1842年)のカブールにおいて、William Elphinstone将軍の不決断と病気は、イギリス軍全体の戦意を消滅させ、軍を全滅させた。

19世紀半ばを過ぎる頃には、イギリス人は海外戦争の手法を体系化していた。Robert Napier、Garnet Wolseley、Frederick Robertsらは計画性と補給の重要性を他の何よりも強調した。イギリス軍の戦場における勝利は、もはや機転や犠牲的な勇気によって得られるものではなくなった。敵に勝つために必要な量の物資と支援をどのようにして送るかがもっとも重要な戦略となったからである。

〇特集記事はこちら--->

付録ゲーム「Sun Never Sets 2」
S&T#179のゲーム「第一次アフガニスタン戦争」と共通のルールのゲーム「Sun Never Sets 2」は、イギリスの4つの植民地戦争を扱います。

特集記事の通り、補給が重要な要素です。本ゲームには、進行を無秩序にするサブシステムがいくつか存在します。"Marh Table"を参照して決定する移動力は0から三倍の可能性があります。これは19世紀の海外遠征で顕著だった指揮レベル、戦場の霧、損耗度を表現しています。

戦闘は、砲撃、ライフル射撃、殴り合い、の順で解決されます。双方が距離をつめ、接近戦となる前に砲撃が多大な損害を相手に与えるプロセスを表現しています。
史実では、たった一度の戦闘が戦役すべてを決定している場合があります。戦意ルールがこれを表しています。
イギリス軍と原住民軍は、それぞれ固有のアドバンテージを持っています。イギリス軍は銃砲の数において優っていますが、原住民は移動と補給に強く、動員に優れています。原住民プレイヤーはヒット&ラン戦法でイギリス軍の補給路を断ち、前進した部隊を孤立させることができるかもしれません。
いくつかのシナリオでは、イギリス軍に政治将校ユニットが登場します。政治将校は特殊なタイプのリーダーユニットで、情報収集と原住民の動員に力を持ちます。

(同じルールが、S&T#200「French Foreign Legion」とDesision Gamesの「Sun Never Sets」で引用されてるようです。)

iWARSIMファイル

 

軍事地図の歴史

古代から中世にかけての最高司令官、アレキサンダー大王、ジュリアスシーザー、征服王ウィリアムは、自らが前線に立ち、自分の目で戦場を観察しなければならなかった。今日で言うところの「司令官の偵察」である。

彼らがそうしなければならかった最大の理由は、測量地図と軍事記号が存在しなかったからだった。当時の地図は歪みと省略が激しく、地形を忠実に表したものではなかった。
やがて測量技術と地形学が発達すると、戦場に忠実な地図が作成されるようになり、司令官は、まだ訪れたことのない外国の戦争プランも検討できるようになった。近世に入り、ナポレオンは測地を重視したが、部隊は依然、色のついた虫ピンで地図の上に表されていた。

20世紀、兵器の殺傷力と有効範囲が多様化すると、それらを表記し分析する手段が必要になった。すなわち、兵科を表す新しい言語 - 軍事記号 - が発明されたのである。

メコン河に流れる血: ジャヤーヴァルマン7世の戦役 1177年

9世紀から13世紀まで東南アジアに君臨していた王国は、クメール王朝である。その版図は現在のカンボジア、タイ、南ベトナム、ラオス、ビルマにまで及び、首都アンコールは最盛期で750,000人の人口を集めた。

そのクメール王朝時代でもっとも有名かつ偉大な王は、Jayavarman VII(ジャヤーヴァルマン7世、1178 - 1219)であろう。
今日でも人気の高いJayavarman VIIは、シャムに占領された首都を奪還した後に、クメール王朝の領土を最大限に広げた。仏教に深く傾倒していたJayavarman VIIは、王朝の国教を仏教に変えたことでも知られる。

クメール王朝以前
クメール王朝によって統一される前のカンボジアは、略奪が横行する無法地帯だった。治安があまりにも悪かったため、家族単位の生活は困難で、一家の中に殺害されたり誘拐された者がいることは当たり前だった。
森では虎、コブラ、野牛や象が人間を襲い、河にはワニが生息していた。自然の脅威から身を守るため、彼らは竹の上に住居を作り、"P'o-to-li"と呼ばれる悪魔神に生け贄を捧げ、安息を求めた。
7世紀から8世紀にかけて、インドから来たヒンズー教徒がヒンズー教を広めた。ヒンズー教はJayavarman VIIが仏教を国教にするまでの間、カンボジアの主要な宗教だった。

今日のカンボジアの地域にクメール王朝を樹立したのは、Jayavarman IIである(802年)。Jayavarman IIは、もともとジャワ王国に囲われていた人質だったが、カンボジアでの反乱を平定するためにジャワ王からカンボジアに派遣された。自由を得たJayavarman IIはジャワ王国に反旗を翻し、クメール王朝をうちたてたのだった。

Jayavarman VII王子
Jayavarman VII王子は、国王Yashovarman IIの息子のひとりである。王子の中で王位継承からもっとも遠いところにいた彼は、1165年、チャンパ王国に人質に出された。仏教に帰依していたJayavarman VII王子は、悟りを求めて座禅三昧の日々を過ごしていたが、その修行は13年目の1177年に打ち破られた。
チャンパ王国がクメール王朝を急襲したからだった。それより十年前、Jayavarman VIIの父親はクーデターによって殺害され、王族の血を引かないTribhuvanadityavaman将軍がクメール王国の王になっていたが、以来、クメール王国は分裂していた。その混乱に乗じてチャンパ王国はクメール王国に攻め入り、首都アンコールを占領したのだった。アンコール陥落と同時にTribhuvanadityavaman将軍は殺害され、アンコールワットに祭られていた聖なる種火は持ち去られた。1,000名の祭女(Apsara dancers)も略奪されていた。

自分の身に危険が及ぶことを知ったJayavarman VII王子はチャンパ王国を密かに脱出、首都アンコールに向かうが、彼が途上で知った事実は、1,000名いた王族は全員殺害され、王家の血を引く者は自分ひとりになっていた、という事実だった。
やがて彼は生き残りのクメール王朝軍兵士を集め、チャンパ王国に決戦を挑んだのだった。

アンコールワット
Suryavarman II王(1113 - 1150)による建設。無数のヒンズー寺院から成るアンコールワットは、須彌山 (スメール山) を模したもので、須彌山は最高神ビシュヌが住む神聖な山とされている。当時の寺院の外壁は金箔で覆われていた。

クメール人や周辺の部族は、アンコールワットは須彌山とつながっており、そこに神聖な力と富が宿ると信じていた。その後のクメール王朝の戦争の中でアンコールワットの争奪戦が行われたのは、まさにその理由によるものである。

クメール王朝にとって幸運だったことは、Jayavarman VII王子が、誰もが従うだけのカリスマ性とリーダーシップを備えていたことだった。
Jayavarman VII王子はアユタヤ王国とシャム王国を味方につけ、陸路と河川の二方向から首都アンコールを攻略した。言い伝えによると、首都を陥落させた際、Jayavarman VII王子自らがチャンパ国王Indravarmanを殺害、死体となった後も矢を射続けたという。敬虔な仏教徒は、13年に及ぶ人質生活と祖国を滅ぼされた時の怒りを爆発させたのである。
クメール王国を復活させたJayavarman VII王子は、逆にチャンパ王国に攻め入って属国とした。

1291年に91歳で亡くなるまで、Jayavarman VIIはたくさんの寺院を建設し、仏教を興隆した。この時の建設事業がクメール王朝を疲弊させたとも言われる。彼はヒンズー教にも寛容であったため、東南アジアの仏教はヒンズー教との混合宗教として発展した。アンコールワットは仏教寺院として復活、同時に、ヒンズー教の聖火も祭られ、聖女の数は三倍の3,000人に増員されたという。

クメール王朝は1431年に滅亡した。
属国だったアユタヤ王国(タイ)が攻め入り、7ヶ月の戦いの後に勝利した。アンコールワットは再び収奪され、祭女はタイに連れ去られた。以来、アンコールワットは放棄された。

ブルシーロフ攻勢、1916年7月

第一次大戦が二年目に突入すると、誰もが1916年までに戦争を終結させたいと考えるようになった。
イギリス・フランス軍はドイツ軍と膠着状態に陥り、Ypres、Neuve Chapelle、Champagne、Artoisの攻勢も失敗した。イギリスは、起死回生を狙ったGallipoliでも敗退していた。
状況を打開するには、何事かを成さなければならなかったが、深く長い前線に"両翼"はなく、人的資源に限界があったドイツ軍は攻勢を仕掛けるつもり がなかった。
(1916年7月にウクライナ地方で行われたロシア軍の大攻勢を図解入りで解説しています。)
コンキスタドール: 力の分析
カリフォルニアからパタゴニアまでの広大なアメリカ大陸が植民地化されたのは、1492〜1550年までの約60年間であり、それはほんの一握りのスペイン人によって達成された。数百名の兵士で数万名の原住民を撃破した例もある。どうしてこのようなことが可能だったのだろうか。

乱暴なスペイン人
探検の時代の西側諸国の軍人は、団結力、訓練、テクノロジー、侵略の徹底性、進取の気性の5つにおいて秀でていた。
特に、団結力と戦意は、ヨーロッパの戦争において勝敗を分ける要素だった。イベリア半島からイスラム勢力を駆逐した後、フランス、南イタリアでも戦ったスペイン軍は、コンキスタドールとしてアメリカ大陸に降り立った時、十分すぎるほどの結束力と経験を持っていた。16世紀のスペイン軍は"Furor Hispanicus" (乱暴なスペイン人)と呼ばれ、世界中から無敵と見なされていた。

テクノロジー
もちろん、技術的優位もコンキスタドールを無敵にした要素のひとつである。中でも鉄製の武器とボディアーマーは決定的な強さをスペイン人に与えた。アステカやインカ帝国の武器は石器時代のそれと何ら変わらぬもので、金銀銅を加工する知識は持っていたものの、その技術は装飾品止まりだった。スペイン人は、火薬の補給の問題から、銃砲を頻繁に使うことはできなかった。実際のところ、鉄の威力があまりにも強力だったので、スペイン人達は占領後も原住民に鉄製品の所有を禁じたほどである。
軍用犬もまた、原住民に多大な恐怖を与えた。スペイン人と遭遇するまで、彼らが知っている犬は食用のものだった。

侵略の徹底性
スペイン人と原住民とは、戦争の概念が根本から異なっていた。古代ギリシャ時代から白人にとって戦争とは、敵軍を一人残らず殺害することだった。しかし原住民にとって、敵対する集団を完全に抹殺することは革命的な概念であり、彼らはスペイン人の戦争目的を最後まで理解できなかった。
アステカ人やインカ人にとって、戦争の目的は捕虜の収集であり抹殺ではなかった。多くの戦闘において、コルテスやピサロは、ヨーロッパの戦場で同じ状況であるなら死んでいた場面に遭遇している。彼らが負傷や気絶で済んだ理由は、原住民の武器がノックアウトを目的としたものであったからだった。アステカでは、戦争の勝利はどれだけ捕虜を持ち帰れるかで評価されていた。

リテラシー
さらにスペイン人達は、原住民が絶対に持ち得ない優位性を持っていた。リテラシー、すなわち、文字で記録された知識を活用する素養である。
多くのコンキスタドールはローマ語とギリシャ語に堪能だった。彼らは過去の軍事、作戦、戦術に関する膨大な量の知識にアクセスできた。トゥキディデス、ジュリアス・シーザー、ウェゲティウス・レナトゥスの著作は翻訳され、多くの学者に分析されていた。
そうやって得られた知識の中で、アメリカ征服でもっとも広範に用いられた原則は「離反と征服」だった。メキシコ高原に到達したコルテスは、アステカの宿敵であるトラスカラ人と同盟を結び、アステカ帝国を滅ぼした後にトラスカラを制服した。これはアメリカインディアンが白人に負けた原因と同じである。アメリカ原住民は、政治的結束を持たないが故に敗北したのであった。


En hommaqe a SPI

沈まぬ太陽:
19世紀の大英帝国
#274 May 2012

沈まぬ太陽: 19世紀の大英帝国

19世紀、イギリスは人類史上最大の政体に膨張した。
文明を流布、通商を増やし、マキャベリズムによって支配地域を拡大した中で、イギリスの海外政策の中心にいたのは常にイギリス陸軍であった。しかし、当時の先進国の基準から見ても、イギリス陸軍の規模は小さいものだった。そこで歴史家が想起する疑問は、それだけの少ない兵士で、どうやってあれだけの広い領域を支配できたのであろうか、ということである。

イギリス陸軍の司令官
当時のイギリス陸軍の優位性を決定づけた要素の一つは、リーダーシップである。
中でも、ワーテルローの戦いでナポレオンを破ったWellington卿が残した影響は大きかった。すなわち、司令官たるもの、敵の弱点をみつけ好機を逃さず、戦火の中でも冷静に命令を下し、兵士の模範となって士気を高める、というものである。

このような指揮の例は、Henry Havelock(ペルシャ戦争、セポイの反乱)、Hugh Gough(シク戦争)、Henry Pottinger(第一次アフガン戦争)などの、特に19世紀前半の植民地におけるイギリス人司令官に多く見られる。
たとえば、セポイの反乱においてインド人傭兵もイギリス軍も同じように訓練され、同じ武器で武装していた。両者の違いを決定づけたのはイギリス人指揮官の存在だった。
もちろん、最高指揮官が害悪をもたらしたケースもある。第一次アフガン戦争(1842年)のカブールにおいて、William Elphinstone将軍の不決断と病気は、イギリス軍全体の戦意を消滅させ、軍を全滅させた。

19世紀半ばを過ぎる頃には、イギリス人は海外戦争の手法を体系化していた。Robert Napier、Garnet Wolseley、Frederick Robertsらは計画性と補給の重要性を他の何よりも強調した。イギリス軍の戦場における勝利は、もはや機転や犠牲的な勇気によって得られるものではなくなった。敵に勝つために必要な量の物資と支援をどのようにして送るかがもっとも重要な戦略となったからである。

〇特集記事はこちら--->

付録ゲーム「Sun Never Sets 2」
S&T#179のゲーム「第一次アフガニスタン戦争」と共通のルールのゲーム「Sun Never Sets 2」は、イギリスの4つの植民地戦争を扱います。

特集記事の通り、補給が重要な要素です。本ゲームには、進行を無秩序にするサブシステムがいくつか存在します。"Marh Table"を参照して決定する移動力は0から三倍の可能性があります。これは19世紀の海外遠征で顕著だった指揮レベル、戦場の霧、損耗度を表現しています。

戦闘は、砲撃、ライフル射撃、殴り合い、の順で解決されます。双方が距離をつめ、接近戦となる前に砲撃が多大な損害を相手に与えるプロセスを表現しています。
史実では、たった一度の戦闘が戦役すべてを決定している場合があります。戦意ルールがこれを表しています。
イギリス軍と原住民軍は、それぞれ固有のアドバンテージを持っています。イギリス軍は銃砲の数において優っていますが、原住民は移動と補給に強く、動員に優れています。原住民プレイヤーはヒット&ラン戦法でイギリス軍の補給路を断ち、前進した部隊を孤立させることができるかもしれません。
いくつかのシナリオでは、イギリス軍に政治将校ユニットが登場します。政治将校は特殊なタイプのリーダーユニットで、情報収集と原住民の動員に力を持ちます。

(同じルールが、S&T#200「French Foreign Legion」とDesision Gamesの「Sun Never Sets」で引用されてるようです。)

iWARSIMファイル

 

軍事地図の歴史

古代から中世にかけての最高司令官、アレキサンダー大王、ジュリアスシーザー、征服王ウィリアムは、自らが前線に立ち、自分の目で戦場を観察しなければならなかった。今日で言うところの「司令官の偵察」である。

彼らがそうしなければならかった最大の理由は、測量地図と軍事記号が存在しなかったからだった。当時の地図は歪みと省略が激しく、地形を忠実に表したものではなかった。
やがて測量技術と地形学が発達すると、戦場に忠実な地図が作成されるようになり、司令官は、まだ訪れたことのない外国の戦争プランも検討できるようになった。近世に入り、ナポレオンは測地を重視したが、部隊は依然、色のついた虫ピンで地図の上に表されていた。

20世紀、兵器の殺傷力と有効範囲が多様化すると、それらを表記し分析する手段が必要になった。すなわち、兵科を表す新しい言語 - 軍事記号 - が発明されたのである。

メコン河に流れる血: ジャヤーヴァルマン7世の戦役 1177年

9世紀から13世紀まで東南アジアに君臨していた王国は、クメール王朝である。その版図は現在のカンボジア、タイ、南ベトナム、ラオス、ビルマにまで及び、首都アンコールは最盛期で750,000人の人口を集めた。

そのクメール王朝時代でもっとも有名かつ偉大な王は、Jayavarman VII(ジャヤーヴァルマン7世、1178 - 1219)であろう。
今日でも人気の高いJayavarman VIIは、シャムに占領された首都を奪還した後に、クメール王朝の領土を最大限に広げた。仏教に深く傾倒していたJayavarman VIIは、王朝の国教を仏教に変えたことでも知られる。

クメール王朝以前
クメール王朝によって統一される前のカンボジアは、略奪が横行する無法地帯だった。治安があまりにも悪かったため、家族単位の生活は困難で、一家の中に殺害されたり誘拐された者がいることは当たり前だった。
森では虎、コブラ、野牛や象が人間を襲い、河にはワニが生息していた。自然の脅威から身を守るため、彼らは竹の上に住居を作り、"P'o-to-li"と呼ばれる悪魔神に生け贄を捧げ、安息を求めた。
7世紀から8世紀にかけて、インドから来たヒンズー教徒がヒンズー教を広めた。ヒンズー教はJayavarman VIIが仏教を国教にするまでの間、カンボジアの主要な宗教だった。

今日のカンボジアの地域にクメール王朝を樹立したのは、Jayavarman IIである(802年)。Jayavarman IIは、もともとジャワ王国に囲われていた人質だったが、カンボジアでの反乱を平定するためにジャワ王からカンボジアに派遣された。自由を得たJayavarman IIはジャワ王国に反旗を翻し、クメール王朝をうちたてたのだった。

Jayavarman VII王子
Jayavarman VII王子は、国王Yashovarman IIの息子のひとりである。王子の中で王位継承からもっとも遠いところにいた彼は、1165年、チャンパ王国に人質に出された。仏教に帰依していたJayavarman VII王子は、悟りを求めて座禅三昧の日々を過ごしていたが、その修行は13年目の1177年に打ち破られた。
チャンパ王国がクメール王朝を急襲したからだった。それより十年前、Jayavarman VIIの父親はクーデターによって殺害され、王族の血を引かないTribhuvanadityavaman将軍がクメール王国の王になっていたが、以来、クメール王国は分裂していた。その混乱に乗じてチャンパ王国はクメール王国に攻め入り、首都アンコールを占領したのだった。アンコール陥落と同時にTribhuvanadityavaman将軍は殺害され、アンコールワットに祭られていた聖なる種火は持ち去られた。1,000名の祭女(Apsara dancers)も略奪されていた。

自分の身に危険が及ぶことを知ったJayavarman VII王子はチャンパ王国を密かに脱出、首都アンコールに向かうが、彼が途上で知った事実は、1,000名いた王族は全員殺害され、王家の血を引く者は自分ひとりになっていた、という事実だった。
やがて彼は生き残りのクメール王朝軍兵士を集め、チャンパ王国に決戦を挑んだのだった。

アンコールワット
Suryavarman II王(1113 - 1150)による建設。無数のヒンズー寺院から成るアンコールワットは、須彌山 (スメール山) を模したもので、須彌山は最高神ビシュヌが住む神聖な山とされている。当時の寺院の外壁は金箔で覆われていた。

クメール人や周辺の部族は、アンコールワットは須彌山とつながっており、そこに神聖な力と富が宿ると信じていた。その後のクメール王朝の戦争の中でアンコールワットの争奪戦が行われたのは、まさにその理由によるものである。

クメール王朝にとって幸運だったことは、Jayavarman VII王子が、誰もが従うだけのカリスマ性とリーダーシップを備えていたことだった。
Jayavarman VII王子はアユタヤ王国とシャム王国を味方につけ、陸路と河川の二方向から首都アンコールを攻略した。言い伝えによると、首都を陥落させた際、Jayavarman VII王子自らがチャンパ国王Indravarmanを殺害、死体となった後も矢を射続けたという。敬虔な仏教徒は、13年に及ぶ人質生活と祖国を滅ぼされた時の怒りを爆発させたのである。
クメール王国を復活させたJayavarman VII王子は、逆にチャンパ王国に攻め入って属国とした。

1291年に91歳で亡くなるまで、Jayavarman VIIはたくさんの寺院を建設し、仏教を興隆した。この時の建設事業がクメール王朝を疲弊させたとも言われる。彼はヒンズー教にも寛容であったため、東南アジアの仏教はヒンズー教との混合宗教として発展した。アンコールワットは仏教寺院として復活、同時に、ヒンズー教の聖火も祭られ、聖女の数は三倍の3,000人に増員されたという。

クメール王朝は1431年に滅亡した。
属国だったアユタヤ王国(タイ)が攻め入り、7ヶ月の戦いの後に勝利した。アンコールワットは再び収奪され、祭女はタイに連れ去られた。以来、アンコールワットは放棄された。

ブルシーロフ攻勢、1916年7月

第一次大戦が二年目に突入すると、誰もが1916年までに戦争を終結させたいと考えるようになった。
イギリス・フランス軍はドイツ軍と膠着状態に陥り、Ypres、Neuve Chapelle、Champagne、Artoisの攻勢も失敗した。イギリスは、起死回生を狙ったGallipoliでも敗退していた。
状況を打開するには、何事かを成さなければならなかったが、深く長い前線に"両翼"はなく、人的資源に限界があったドイツ軍は攻勢を仕掛けるつもり がなかった。
(1916年7月にウクライナ地方で行われたロシア軍の大攻勢を図解入りで解説しています。)
コンキスタドール: 力の分析
カリフォルニアからパタゴニアまでの広大なアメリカ大陸が植民地化されたのは、1492〜1550年までの約60年間であり、それはほんの一握りのスペイン人によって達成された。数百名の兵士で数万名の原住民を撃破した例もある。どうしてこのようなことが可能だったのだろうか。

乱暴なスペイン人
探検の時代の西側諸国の軍人は、団結力、訓練、テクノロジー、侵略の徹底性、進取の気性の5つにおいて秀でていた。
特に、団結力と戦意は、ヨーロッパの戦争において勝敗を分ける要素だった。イベリア半島からイスラム勢力を駆逐した後、フランス、南イタリアでも戦ったスペイン軍は、コンキスタドールとしてアメリカ大陸に降り立った時、十分すぎるほどの結束力と経験を持っていた。16世紀のスペイン軍は"Furor Hispanicus" (乱暴なスペイン人)と呼ばれ、世界中から無敵と見なされていた。

テクノロジー
もちろん、技術的優位もコンキスタドールを無敵にした要素のひとつである。中でも鉄製の武器とボディアーマーは決定的な強さをスペイン人に与えた。アステカやインカ帝国の武器は石器時代のそれと何ら変わらぬもので、金銀銅を加工する知識は持っていたものの、その技術は装飾品止まりだった。スペイン人は、火薬の補給の問題から、銃砲を頻繁に使うことはできなかった。実際のところ、鉄の威力があまりにも強力だったので、スペイン人達は占領後も原住民に鉄製品の所有を禁じたほどである。
軍用犬もまた、原住民に多大な恐怖を与えた。スペイン人と遭遇するまで、彼らが知っている犬は食用のものだった。

侵略の徹底性
スペイン人と原住民とは、戦争の概念が根本から異なっていた。古代ギリシャ時代から白人にとって戦争とは、敵軍を一人残らず殺害することだった。しかし原住民にとって、敵対する集団を完全に抹殺することは革命的な概念であり、彼らはスペイン人の戦争目的を最後まで理解できなかった。
アステカ人やインカ人にとって、戦争の目的は捕虜の収集であり抹殺ではなかった。多くの戦闘において、コルテスやピサロは、ヨーロッパの戦場で同じ状況であるなら死んでいた場面に遭遇している。彼らが負傷や気絶で済んだ理由は、原住民の武器がノックアウトを目的としたものであったからだった。アステカでは、戦争の勝利はどれだけ捕虜を持ち帰れるかで評価されていた。

リテラシー
さらにスペイン人達は、原住民が絶対に持ち得ない優位性を持っていた。リテラシー、すなわち、文字で記録された知識を活用する素養である。
多くのコンキスタドールはローマ語とギリシャ語に堪能だった。彼らは過去の軍事、作戦、戦術に関する膨大な量の知識にアクセスできた。トゥキディデス、ジュリアス・シーザー、ウェゲティウス・レナトゥスの著作は翻訳され、多くの学者に分析されていた。
そうやって得られた知識の中で、アメリカ征服でもっとも広範に用いられた原則は「離反と征服」だった。メキシコ高原に到達したコルテスは、アステカの宿敵であるトラスカラ人と同盟を結び、アステカ帝国を滅ぼした後にトラスカラを制服した。これはアメリカインディアンが白人に負けた原因と同じである。アメリカ原住民は、政治的結束を持たないが故に敗北したのであった。