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沈まぬ太陽: 19世紀の大英帝国

イギリス・ペルシア戦争 (1856 - 57)
この戦争の背景には、"グレートゲーム"と呼ばれる中央アジアを巡るロシアとイギリスの対立がある。

19世紀に入ると、ロシアはインド洋めざして南下を始めた。アフガニスタンの山岳地形はロシアのインド侵攻を十分に困難にするものだったが、イギリス政府は、アフガニスタンの保護国化はインド防衛に欠かせないものであり、少なくともアフガニスタンがロシアの保護国になることは阻止しなけれればならないと考えていた。ロシアとイギリスは外交によってアフガニスタン政府(= ドースト・ムハンマド・ハーン政権)に接近、いずれも自国陣営に引き込もうとした。

背景 第一次アフガン戦争
先に動いたのはイギリスだった。必ずしも言う通りにならないドーストに対し、傀儡政権の設置を決断したのである。
すなわち1839年、インダス軍(東インド会社軍3,500名、アフガン反政府勢力6,000名の混成軍)が首都カブールに向かって進撃した。10ヶ月後、カブールは占領されドースト政権は崩壊、ライバルのシュジャー・シャー(Shuja Shah)が王位についた。
現地における抵抗は少なく、東インド軍はアフガニスタン東側(カンダハル、ジャララバード、カブール)に駐留した。戦争は終結したかに見えた。

ジハード
しかし1841年の暮れ、首都カブールでイギリス人顧問が殺害されるのと同時に、アフガニスタン全土で武力抵抗 「ジハード 」が始まった。反乱の先頭に立ったのはドーストの息子、Akbar Khanだった。カブールは反乱軍に包囲され、イギリス人司令官エルフィンストーンは反乱軍から退去を求められた。この時、停戦協議に派遣したイギリス人将校は馬から下りたとたん殺害され、死体は市内を引きずりまわされたが、にもかかわらずエルフィンストーンの東インド軍は、女性・子供を含む17,000人でカブールを出発したのである。
目的地は 150km離れたJalalabadだった。時は既に冬であり、徒歩でKhord-Kabul峠を越える過酷な道程であった。結局彼らは反乱軍の裏切りにあい、インドに着くことができたのは5人だった。Khord-Kabul峠の待ち伏せでは一日で3,000名が命を落としたと言われる。エルフィンストーン一隊のうち700名のイギリス兵、2,900名のインド兵、12,000名の従者は殺害されるか捕虜になった。

その年の終わり、イギリス軍は報復隊を送りカブールを再占領、捕虜を奪還するとともに市内の中心部を破壊・略奪した。アフガニスタンの長期支配は不可能であると考えたイギリスは全軍を撤収、シュジャー・シャーは戦乱の中で死亡していたので傀儡として使えず、結局イギリス政府は、ドースト・ムハンマド・ハーンを親英政権として復活させた。

シーク戦争
イギリスにとって続く10年間は、パンジャブ地方(インド北部。アフガニスタンに隣接する)のシーク教徒との戦いだった。驚くべきことにドーストはイギリス軍に味方した。パンジャブ地方を平定したイギリスはアフガニスタンと国境を背にするようになり、結果として、アフガニスタンの政治的支配がイギリスにとって重要味を増した。
同時にこの10年間の鉄道網の発達はロシアの南下をより容易にしていた。イギリス・ペルシア戦争は、まさにそのような情勢の中で行われた。

○参考リンク 「アフガニスタン史 第8章  カブールでのパレード

イギリス・ペルシア戦争のはじまり
イギリス・ペルシア戦争は、ロシアの支援を受けたカージャール朝軍(ペルシャ)が、アフガニスタン西方のヘラート公国に兵を進めたことから始まった(1856年、ヘラート遠征)。

イギリスは直ちにペルシャに対し宣戦布告したが、第一次アフガン戦争の失敗から学び、よりよく検討された作戦を実施した。山岳地帯に陸軍を送ることはせず、海軍力によって東インド軍を上陸させたのである。
ペルシャ上陸軍は二個師団で編成され、総司令官はJames Outram卿、師団はRobert Stalker将軍とHenry Hayelock将軍とが率いた。
ペルシャ軍の中核は普通歩兵と騎兵だったが武装と練度はまちまちだった。他に軍団所属の砲兵があり、一部の砲はラクダが運搬した。大量の非正規兵が支援部隊として存在したが補給は貧弱であり、必要な期間、一定の地点に兵力を集中することは困難だった。ペルシャ軍はナポレオン戦争時代にフランス軍の訓練を受け、後にイギリス軍も訓練した。

1856年12月、Stalker師団はBushire(3509)近郊に上陸、基地を占領すると内陸に向かった。天候不順と敵の抵抗に進撃は阻まれたが、1月にHaylock将軍が師団とともに到着、この増援を得て1857年2月6-7日、Outram将軍はKhunshab(4107)でペルシャ軍を破った。

Outram将軍はBushireから兵を引き、メソポタミアのチグリスユーフラティス河口から再上陸した。これはオットーマン帝国に接近しないというロンドン政府の指針に反するものだったが、遠征隊はペルシャ軍が放棄したMohammerahに進攻、3月27日にはKhorramshahrに入った。同時に進められた外交で講和が成立、イギリスが望んだ通りペルシャはヘラート公国から兵を引いた。遠征隊はインドに帰還したが、OutramとHavelock将軍はその年の終わりに発生したさらに大きな紛争- セポイの反乱 - に対処しなければならなかった。


Abyssiniaの捕虜救出 (1867)
19世紀における最も偉大かつ大胆な補給戦のシナリオ。
エチオピア皇帝テオドロス2世は、、コプト派キリスト教を信仰する貴族の出身である。戦国時代さながらのエチオピアにおいて、彼は盗賊から豪族にのし上がり、エチオピア北部を支配、やがて他のライバルもうち破り、1855年にはエチオピア皇帝に上りつめた。
皇帝になった後も、イスラム教徒の豪族との絶え間ない争いが続いた。テオドロス2世は、イギリスに軍事顧問団の派遣を依頼したが、イギリス政府からの回答は得られなかった。

これは、 当時のイギリスが海外紛争に対し、不干渉政策をとっていたからだったが、事態をエスカレートさせたのは、この不干渉政策だった。テオドロス2世が送ったビクトリア女王への親書は二年間にわたり黙殺された。それゆえ彼は、イギリス人外交官らをMagdala要塞に監禁、ロンドンの回答を求めたのである。人質には婦女子を含む白人宣教師も含まれていた。万一、人質が殺害された場合、イギリス政府は激しい非難を浴びるであろう。

1867年8月、ロンドン政府は武力による解決を承認し、Robert Napier将軍が司令官に選ばれた。
当初、Magdala要塞への急襲を考えていたNapier将軍は、峻険な地形と、進撃路に敵対する部族が多数存在する事実から、補給を重視した規範的な戦法を採用した。
イギリス軍にとって幸いなことに、テオドロス2世はエチオピア西部の反乱を鎮圧中であり、Magdala要塞には不在だった。

1867年10月、ボンベイ兵を主力とするイギリス軍は紅海をわたり、Zulaに上陸した。工兵が港湾施設と鉄道、道路の建設を開始、同時にWilliam Lcoker Merewether将軍が内陸部に威力偵察を行った。
翌年1月にZulaに到着したNapier将軍は、部隊をふたつに分け、5,000名の兵士でMagdalaを攻め、残りの部隊を港湾および補給路の確保に充てた。政治将校が途上のエチオピア人に接触、反テオドロス派を懐柔した。

Magdala要塞への進撃は時間との戦いだったが、テオドロス2世の方が先に要塞に到着した。この時、彼の軍隊はほとんど消散していた。彼は要塞に監禁していたエチオピア人数百名を殺害したが、イギリス人を釈放、自身は逃亡する途中、ピストルで頭を打ち抜いた。自殺に使われた銃は、イギリスと友好関係だった時にビクトリア女王から貰ったピストルだった。

 


アサンテ王国の戦争 (1873)
入門用シナリオ。
S&T#239に特集記事があります。


第二次アフガン戦争
1860年代にロシアは、再び南下を開始した。1865年Tashkent、Samakrand、1868年Bokhara、1873年Khivaがそれぞれ占領された。アフガニスタンにおいてロシアは、ドースト・ムハンマドの後継者Sher Ali Khanとの関係を深め、1878年に友好協定を結んだ。ロシアからすれば、中央アジアへのイギリスの影響力拡大を防ぐ目的があった。

イギリス人使節団がKhyber Pass(0803)でアフガニスタン入国を拒絶されたのは、まさにこのようなタイミングだった。ロンドン政府はありきたりな最後通牒の後にフルスケールの戦争 - 第二次アフガン戦争 - を開始した。

この戦争において、イギリスは前回(第一次アフガン戦争)よりも有利な立場にいた。インド・パンジャブの平定と鉄道網の伸張によってインダス川(2905)を越えて補給が送れるようになっていた(もちろん、そこから奥は動物や人力によって物資、大砲、傷病兵を移送しなければならない)。
遠征軍は、Peshawar Valley(0801)のSamuel Browne中将(ペシャワール野戦軍)、Kandahar(1924)のDonald Stwart少将(カンダハル野戦軍)、Kurram ValleyのFrederick Sleigh Roberts少将(カラム渓谷野戦軍)の三軍に分かれた。

Khyber Pass(0803)の反対側にはSher Aliが52,000名から成る62個の歩兵連隊、16個騎兵、49個の砲兵隊を展開、弾薬物資も豊富に貯蔵していた。英国諜報部の見積もりでは、アフガン軍は100,000名動員できるとされていたが、部族間の対立その他の理由から、兵力の集中は困難であると考えられた。

イギリス軍の進攻は1878年11月21日に開始された。Robarts隊がPwiwar Kotal pass(0909)を越え、Kurram Valleyを掃討した。Sher Aliはロシアに亡命、息子のYakub Khanの署名によって、アフガニスタンはイギリスの保護国となった(1879年5月)。これにより、この国の外交政策はロンドンが決定することにになり、イギリス軍の大半はインドに帰還した。

しかしながら、第一次アフガン戦争と同様、これが戦争の終わりにはならなかった。
その年の9月5日、首都Kabul(0712)において、インド総督府外交使節Pierre Louis Napoleon Cavagnariおよびその団員が群衆に殺害された。イギリスは再派兵を行わなければならなかった。

この進攻作戦を行ったのはRoberts少将であり、彼のカラム渓谷野戦軍はカブール野戦軍と名称が変更された。野戦軍は、10月6日にKabul(0712)から20キロのCharasiaでYakub Khanと決戦、6日後にKabulを占領した。
軍事法廷が開かれ、Cavagnari殺害の犯人らが処刑されたが、アフガン全土には「聖戦」が呼びかけられ、Kabulには不穏な空気が漂った。Roberts少将が陣地構築を進めていたところ、予想通りに反乱軍の包囲を受け、12月23日、Roberts少将らは包囲網を破ってKabulを脱出する。その間、Stwart少将のカンダハル野戦軍はRobarts救援に向かっていた。

条約上は保護国化したにもかかわらず、アフガニスタンは降伏とはほど遠い状態だった。1880年、ヘラートに拠点を置くYakub Khanの兄弟Ayub Khanが挙兵しKandahar(1924)に向かった。Maiwand(1826)でイギリス軍と交戦になり、驚くべきことにイギリス軍は惨敗した。彼らはKandahar(1924)に撤退するが、そこもAyub Khanに包囲され、カブール野戦軍(Roberts少将)が救援に呼ばれた。Ayub Khanを破ったカブール野戦軍は8月31日、Kabulを「解放」し、Ayub Khan軍と再び交戦、Ayub Khanはヘラートに逃れた。


Maiwandの戦い

イギリス政府は、傀儡にアブドル・ラーマン王権を設置、過去の経験に鑑み一人のイギリス人も残さず、イギリス軍はまたもや撤退した。
(Roberts少将はこの後、第二次ボーア戦争で兵を率いた後、イギリス軍最高司令官となる。ちなみに彼は「アメリカの研究家による世界の軍事指導者100人 」に選ばれている。)

○参考リンク 「アフガニスタン史 第10章  失敗した報復