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沈まぬ太陽: 19世紀の大英帝国 |
イギリス・ペルシア戦争 (1856 - 57) 19世紀に入ると、ロシアはインド洋めざして南下を始めた。アフガニスタンの山岳地形はロシアのインド侵攻を十分に困難にするものだったが、イギリス政府は、アフガニスタンの保護国化はインド防衛に欠かせないものであり、少なくともアフガニスタンがロシアの保護国になることは阻止しなけれればならないと考えていた。ロシアとイギリスは外交によってアフガニスタン政府(= ドースト・ムハンマド・ハーン政権)に接近、いずれも自国陣営に引き込もうとした。 背景 第一次アフガン戦争 ジハード その年の終わり、イギリス軍は報復隊を送りカブールを再占領、捕虜を奪還するとともに市内の中心部を破壊・略奪した。アフガニスタンの長期支配は不可能であると考えたイギリスは全軍を撤収、シュジャー・シャーは戦乱の中で死亡していたので傀儡として使えず、結局イギリス政府は、ドースト・ムハンマド・ハーンを親英政権として復活させた。 シーク戦争 ○参考リンク 「アフガニスタン史 第8章 カブールでのパレード」 イギリス・ペルシア戦争のはじまり
1856年12月、Stalker師団はBushire(3509)近郊に上陸、基地を占領すると内陸に向かった。天候不順と敵の抵抗に進撃は阻まれたが、1月にHaylock将軍が師団とともに到着、この増援を得て1857年2月6-7日、Outram将軍はKhunshab(4107)でペルシャ軍を破った。 Outram将軍はBushireから兵を引き、メソポタミアのチグリスユーフラティス河口から再上陸した。これはオットーマン帝国に接近しないというロンドン政府の指針に反するものだったが、遠征隊はペルシャ軍が放棄したMohammerahに進攻、3月27日にはKhorramshahrに入った。同時に進められた外交で講和が成立、イギリスが望んだ通りペルシャはヘラート公国から兵を引いた。遠征隊はインドに帰還したが、OutramとHavelock将軍はその年の終わりに発生したさらに大きな紛争- セポイの反乱 - に対処しなければならなかった。 |
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Abyssiniaの捕虜救出 (1867)
1867年8月、ロンドン政府は武力による解決を承認し、Robert Napier将軍が司令官に選ばれた。
Magdala要塞への進撃は時間との戦いだったが、テオドロス2世の方が先に要塞に到着した。この時、彼の軍隊はほとんど消散していた。彼は要塞に監禁していたエチオピア人数百名を殺害したが、イギリス人を釈放、自身は逃亡する途中、ピストルで頭を打ち抜いた。自殺に使われた銃は、イギリスと友好関係だった時にビクトリア女王から貰ったピストルだった。
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アサンテ王国の戦争 (1873) |
第二次アフガン戦争 イギリス人使節団がKhyber Pass(0803)でアフガニスタン入国を拒絶されたのは、まさにこのようなタイミングだった。ロンドン政府はありきたりな最後通牒の後にフルスケールの戦争 - 第二次アフガン戦争 - を開始した。
イギリス軍の進攻は1878年11月21日に開始された。Robarts隊がPwiwar Kotal pass(0909)を越え、Kurram Valleyを掃討した。Sher Aliはロシアに亡命、息子のYakub Khanの署名によって、アフガニスタンはイギリスの保護国となった(1879年5月)。これにより、この国の外交政策はロンドンが決定することにになり、イギリス軍の大半はインドに帰還した。 しかしながら、第一次アフガン戦争と同様、これが戦争の終わりにはならなかった。
イギリス政府は、傀儡にアブドル・ラーマン王権を設置、過去の経験に鑑み一人のイギリス人も残さず、イギリス軍はまたもや撤退した。 ○参考リンク 「アフガニスタン史 第10章 失敗した報復」 |