ライヒスヒア & フライコーア
ヨーロッパの危機 1920
#273 March 2012

ライヒスヒア & フライコーア

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ローマカトリック・ポーランドとボルシェビキ・ロシアは、隣り合う国家としては最悪の組み合わせだった。新生ポーランドの前に、中世以来の敵国がソビエト連邦として姿を現すと、数世紀におよぶ対立は、残酷なイデオロギーによる軋轢となった。

レーニンの意図
「世界転覆は、白ポーランド人の死体の彼方にある。」と断言したのは赤軍司令官トハチェフスキーである。永久革命の理論がレーニンの中心的な発想になったのは、凄惨を極めた内戦後にボルシェビキが権力を掌握したこと、赤軍が後押しをしたことによるものだった。

戦闘的な政治スローガンにもかかわらず、赤軍最高指令には、ワルシャワまでの進撃を可能にする現実的な作戦の見通しがなかった。
ロシアのインフラストラクチャは内戦によって壊滅状態にあり、戦争物資と補給についても、ヨーロッパ中央部を蹂躙する規模の軍団に必要な量の供給ができないことは誰の目にもあきらかだった。
にもかかわらず、レーニンは"realpolitik"の方が軍事的分析より重要であると思っていた。彼の"realpolitik"とはすなわち、共産主義国の攻撃力を西側にデモンストレーションをすること、を意味した。

ポーランドが国策として持つ国境に対する非妥協的な態度は、ボルシェビキにとって戦争を始める口実となった。ポーランドに勝つことで、ソビエトは西側との間に緩衝地域を作ることができ、ひいてはドイツへの侵攻が可能になる。ドイツがソビエト連邦の衛星国となるなら、他のヨーロッパ(そして全世界)もまたそれにならうであろう。

第一次大戦終結によって、中央ヨーロッパのバランスオブパワーは大きく変化した。オーストリア・ハンガリー帝国は跡形もなく解体し、ドイツとロシアに挟まれた地域は政治的未決の状態に置かれていた。ポーランドが国家として独立したのはまさにこのような状況の中だった。ポーランドは独立後も依然として、攻撃的で潜在的に悪意的な二つの国の脅威にさらされていた。

ピウスツキの思惑
連合国によって行われた第一次大戦直後の国境画定によって、数百万人のポーランド人がポーランドの国境外に住むことになった。同時にポーランドは、産業資源地である北部Sileaia地方も失った。

新生ポーランドが最初に直面した外交課題のひとつは、かつてドイツが占領していたバルチック海沿岸の地域の扱いだった。ユゼフ・ピウスツキ(ポーランドの指導者)の外交目標は、これらの地帯に反ボルシェビキの連邦国家群を作ることだった。それらの国家とはByolorussia、Lithuania、Estonia、Romaniaのことであり、ソビエトに対する緩衝国となるはずだった。

対外的に不活発なように見えるソビエトは、依然西側の政治的干渉にさらされ、国内の白ロシア軍とも交戦中だった。ポーランドにとって、1919年の今こそ東側の国境画定にふさわしい時期だと思われた。

シモン・ペトリューラ
これらを前提に、ピウスツキは、一度はその地位を追われたウクライナ民族主義指導者シモン・ペトリューラと同盟した。ピウスツキのプランではKievに先制攻撃をかけ、何でも言うことを聞くペトリューラをUkraineの大統領に擁立する。これによって同方面からのソビエトの侵入を防ぐと同時に、戦争継続に必要な物資を得ることができると考えられた。

1919年9月、ポーランドは540,000名の兵を動員し、そのうちの230,000名をソビエト国境、残りをドイツ国境に配備した。装備は不十分で実戦経験もなかったが、ピウスツキへの忠誠心と愛国心、あるいはソビエトへの恐怖で団結していた。

それに対し、トハチェフスキーは国境北側に108,000名の歩兵と11.000名の騎兵、722門の砲兵を集め、これらを第三、四、十五、十六軍の指揮下に置いた。ソビエト軍は、内戦による実戦経験を積んでいた。

(本誌では、ポーランドのKiev侵攻、それに続くトハチェフスキーのSmolensk、Brest-Litovsk方面からの攻撃、ポーランド第五軍団のWarsawにおけるソビエト第四軍と第十五軍の間隙を突く攻勢、スターリンの非協力的態度、戦争終結までを豊富な図解入りで書いています。)

 

付録ゲーム「Reichswehr & Freikorps」
戦意は軍事作戦においてとても重要だが、しばしばシミュレーションゲームでは扱われていない要素である。「Reichswehr & Freikorps」では、戦意はゲームの中核をなすシステムである。
プレイヤーはしばしば、戦意のために戦わなければならない。このゲームでは、軍事目標よりも、戦意獲得のための戦闘を選ばなければならないだろう。

Reichswehr & Freikorps iWARSIMモジュールファイル

 

タラス河畔の戦い

751年の春、フェルガーナ(Ferghana)の王は唐皇帝Xuanzongに援軍を求めた。隣国の石国(Tashukent)がフェルガーナの王位継承に干渉したからだった。
その結果、唐の将軍高仙芝(Gao Xiangxi)が40,000名の兵士で石国を攻め、石国の王には生命の安堵の変わりに降伏を求めた。
にもかかわらず、高仙芝は、降伏した国王を殺害し市内を略奪した。脱出に成功した石国の王子は、イスラム勢力のアッバース朝でSamarkandを治めるズィヤード・イブン=サーリフ(Ziyad ibn Salih)に援軍を求めた。部下のアブ・ムスリム(Abu Muslim)は撤退する唐軍をタラス河畔で捉えた。Ziyardは50,000名、Gaoは30,000名を率いていたと推測されている。
戦いは5日間続き、唐軍の大敗に終わった。中国本土に戻ることのできた兵士は2,000名であったという。

 

ロシア戦役におけるナポレオンの側面軍

一般に流布されている誤謬は、フランス軍が負けたのは、ロシア軍の撤退・消耗戦略によって補給が長く伸びたことが原因である、ということである。
すなわち、ロシア軍は飢餓と寒さ(戦闘ではない)を武器にしたとされる。結果的にそうであったが、それはロシア軍が計画したものではなかった。

ロシア軍の指揮準備は最悪だった。軍団は全土に分散し、採用された作戦は後になって変更され、再び取り消された。たとえば、アレキサンダー皇帝が愛着を持ったドリッサ陣地についても、バルクライが撤退命令を出さなければ、ロシア軍は壊滅的打撃を受けていたであろう。

このように、ロシア軍は聡明であったというよりも、僥倖に恵まれていたのである。

地獄への道: 1989 - 2003年リベリア内戦

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ラテン語のLiber(自由な)から命名されたリベリアは、アメリカ合衆国の奴隷解放政策によって1847年に建国された。
人口四百万人が28の種族に分かれ、それぞれが異なる言語を話す地帯に、アメリコ・ライベリアン(奴隷から解放されたアメリカ人)が移住し、大統領を選任して国家樹立を宣言したのである。それゆえ、この国を支配したのは、人口数パーセントのアメリコ・ライベリアンだった。

リベリアには豊富な天然資源があったが、政府の腐敗によって大半の人口は貧困下にいた。経済的恩恵は少数のアメリコ・ライベリアンとレバノン人商人が独占していた。
リベリアのインフラストラクチャは未整備で、舗装道路は稀、首都Monroviaでも電気が使える場所は少なく、日常的な停電があった。

積もり積もった不正と不満によって、1980年にAFL(リベリア国軍)がクーデターを起こし、William Tolbert大統領を殺害、Samuel Doeが国家権力を掌握した。
しかしながら、Doe政権は従前の政府と何ら変わるところがなかった。Doeは自分の部族Krahn族を要職に置き、他のすべての種族を迫害したからである。それがリベリア内戦の始まりだった。

内戦を戦った代表的な政治グループは、AFL (リベリア国軍)、CRC (中央革命評議会)、ECOMOG(ECOWAS停戦監視団)、IGNU(国家統一政府)、INPFL(リベリア独立国民愛国戦線)、LDF(ロファ防衛軍)、LPC(リベリア平和評議会)、LURD(リベリア統一民主連合)、MODEL(リベリア民主運動)、NPFL(リベリア国民愛国戦線)、ULIMO(リベリア統一解放戦線)である。

国家の終わり
1992年までに、"国家"リベリアは終わり、戦争によって壊滅された"地帯"となった。都市のほとんどは瓦礫と化し、既に貧しかった産業拠点は略奪され、殺害された市民の数は統計がない。
どの政治派閥も、略奪した天然資源で武器を購入したため、戦争は悪化し、貧困だった経済は疲弊を極めた。冷戦の終わりによってソビエト製の武器が大量に流れたと言われる。
たくさんの国と犯罪組織が各政治派閥を支援し利用したが、中でも有名なのは、Ivory Coast、Burkina Faso(この国の独裁者はMcArthur Ghankay Taylorの友人)、Libyaであろう。Guinea、Sierra Leone、NigeriaaはTaylorと対立する派閥を支援した。

リベリアはまた、ヘロインとコカインの有名な中継地点となった。南アジアと南アフリカからヨーロッパに流れる麻薬は、リベリアを通過した。
リベリアに流通する武器が安価であったため、南アメリカの麻薬王は、コカインと交換に銃器を入手した。リベリアからの武器は、コロンビアのFARC、リオデジャネイロのFavelaギャングで使用されていることが確認されている。

国家再生への道
1991年から1996年までに13回の停戦調停が行われ、すべてが失敗した。
1997年7月、McArthur Ghankay Taylor(NPFL)が大統領に選ばれるが、武力と不正による選挙の結果と非難された。

2003年7月、アメリカ海軍とECOWAS(西アフリカ諸国経済共同体)の圧力によってTaylor大統領が辞任、国連軍とECOMIL(リビエラECOWAS任務)が首都に入ることで停戦となった。
2005年にはEllen Johnson Sireleafが近代初の女性として大統領に就任、再生への道を歩みはじめている。