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ローマカトリック・ポーランドとボルシェビキ・ロシアは、隣り合う国家としては最悪の組み合わせだった。新生ポーランドの前に、中世以来の敵国がソビエト連邦として姿を現すと、数世紀におよぶ対立は、残酷なイデオロギーによる軋轢となった。
レーニンの意図
「世界転覆は、白ポーランド人の死体の彼方にある。」と断言したのは赤軍司令官トハチェフスキーである。永久革命の理論がレーニンの中心的な発想になったのは、凄惨を極めた内戦後にボルシェビキが権力を掌握したこと、赤軍が後押しをしたことによるものだった。
戦闘的な政治スローガンにもかかわらず、赤軍最高指令には、ワルシャワまでの進撃を可能にする現実的な作戦の見通しがなかった。
ロシアのインフラストラクチャは内戦によって壊滅状態にあり、戦争物資と補給についても、ヨーロッパ中央部を蹂躙する規模の軍団に必要な量の供給ができないことは誰の目にもあきらかだった。
にもかかわらず、レーニンは"realpolitik"の方が軍事的分析より重要であると思っていた。彼の"realpolitik"とはすなわち、共産主義国の攻撃力を西側にデモンストレーションをすること、を意味した。
ポーランドが国策として持つ国境に対する非妥協的な態度は、ボルシェビキにとって戦争を始める口実となった。ポーランドに勝つことで、ソビエトは西側との間に緩衝地域を作ることができ、ひいてはドイツへの侵攻が可能になる。ドイツがソビエト連邦の衛星国となるなら、他のヨーロッパ(そして全世界)もまたそれにならうであろう。
第一次大戦終結によって、中央ヨーロッパのバランスオブパワーは大きく変化した。オーストリア・ハンガリー帝国は跡形もなく解体し、ドイツとロシアに挟まれた地域は政治的未決の状態に置かれていた。ポーランドが国家として独立したのはまさにこのような状況の中だった。ポーランドは独立後も依然として、攻撃的で潜在的に悪意的な二つの国の脅威にさらされていた。
ピウスツキの思惑
連合国によって行われた第一次大戦直後の国境画定によって、数百万人のポーランド人がポーランドの国境外に住むことになった。同時にポーランドは、産業資源地である北部Sileaia地方も失った。
新生ポーランドが最初に直面した外交課題のひとつは、かつてドイツが占領していたバルチック海沿岸の地域の扱いだった。ユゼフ・ピウスツキ(ポーランドの指導者)の外交目標は、これらの地帯に反ボルシェビキの連邦国家群を作ることだった。それらの国家とはByolorussia、Lithuania、Estonia、Romaniaのことであり、ソビエトに対する緩衝国となるはずだった。
対外的に不活発なように見えるソビエトは、依然西側の政治的干渉にさらされ、国内の白ロシア軍とも交戦中だった。ポーランドにとって、1919年の今こそ東側の国境画定にふさわしい時期だと思われた。
シモン・ペトリューラ
これらを前提に、ピウスツキは、一度はその地位を追われたウクライナ民族主義指導者シモン・ペトリューラと同盟した。ピウスツキのプランではKievに先制攻撃をかけ、何でも言うことを聞くペトリューラをUkraineの大統領に擁立する。これによって同方面からのソビエトの侵入を防ぐと同時に、戦争継続に必要な物資を得ることができると考えられた。
1919年9月、ポーランドは540,000名の兵を動員し、そのうちの230,000名をソビエト国境、残りをドイツ国境に配備した。装備は不十分で実戦経験もなかったが、ピウスツキへの忠誠心と愛国心、あるいはソビエトへの恐怖で団結していた。
それに対し、トハチェフスキーは国境北側に108,000名の歩兵と11.000名の騎兵、722門の砲兵を集め、これらを第三、四、十五、十六軍の指揮下に置いた。ソビエト軍は、内戦による実戦経験を積んでいた。
(本誌では、ポーランドのKiev侵攻、それに続くトハチェフスキーのSmolensk、Brest-Litovsk方面からの攻撃、ポーランド第五軍団のWarsawにおけるソビエト第四軍と第十五軍の間隙を突く攻勢、スターリンの非協力的態度、戦争終結までを豊富な図解入りで書いています。)
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