1453年4月20日、ジェノヴァ公国の3隻のガレー船に率いられたビザンチンの船団は、オスマントルコの海上封鎖封鎖を破り、コンスタンチノープルに物資を届けた。
長年にわたって有効な海軍を持たず、この時は小都市に縮小していたビザンチン帝国は、ジェノヴァ公国から海軍力を"アウトソーシング"していたが、かつては1,100年にわたって湾岸とシーレーンを守る、誇り高い艦隊を擁していた。
ビザンチン帝国の海軍は、その陸軍と同じく、ローマ帝国の海軍に基礎を求めることができる。多くの歴史家は、ビザンチン海軍の誕生は、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、古代ギリシアの植民都市ビュザンティオン(Byzantium)に都市を建設した324年であるとしている。
コンスタンティヌス1世は、330年にこの地を帝国の首都に定め、Nova Rome (新ローマ)と呼んだ。東ローマ帝国の海軍はコンスタンティヌス1世の息子が指揮下にあり、455年の西ローマ帝国滅亡までに西ローマの海軍を吸収した。
コンスタンティノープルの海軍は、徴兵と志願兵から成る即時編成の船団であり、兵士の中核はギリシャかダルマチア出身だった。ローマ帝国時代の軍人は、どの艦艇にも数名しか乗船せず、ローマ帝国時代の軍事組織の痕跡はほとんど残っていなかった。100年前の内戦によってベテラン兵が枯渇していたからだった。その海軍は、ペリクレス時代のアテネ海軍にむしろ近いものだった。(関連記事がS&T#246にあります)
全力疾走で敵船に突っ込み、船首の衝角を船腹に当てる戦術は2世紀前にすたれていた。実際の戦術は地上戦と変わらないもので、投石機や弓矢、長槍によって敵の横隊を崩した後に接舷し、大量の兵士を送って斬りこみするものだった。
最初の一世紀の間は敵対する強大な他国の海軍が存在しなかったため、ビザンチン海軍の主要な役割は、内戦や蛮族の侵入に対する兵士の輸送だった。この当時の主要な敵はコルシカ島やサルジニア島、北アフリカを襲撃するバンダル族だった。
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