The Battle of Lepanto
#272 December 2011

西の勝利: レパント、1571年10月7日

15世紀の終わり、地中海を制圧していたオスマン帝国海軍は、スペインやイタリアの商人を身代金目的で誘拐し、あるいは海岸地域を自由気ままに略奪していた。 北アフリカの海賊もオスマン帝国の略奪行為を補佐していた。
ヨーロッパ南側の住民、特に利益率の高い貿易を行うベネチアやジェノヴァの都市国家にとって、オスマン帝国がもたらす安全への脅威と危険は、妨害以外の何物でもなかった。

古くからの怨念と、地理的、政治的な分裂、そして商業上の競合によって、地中海のヨーロッパ諸国は、オスマン帝国に対抗できるだけの統合され統御された海軍力を行使することができなかった。湾岸の都市国家の多くは優れた海軍を持っていたが、数においてオスマン帝国より劣勢だった。

折り合いのつかないアジェンダと充満する術策のおかけで、西側諸国は、勝利を得るに十分な規模の海上連合作戦への合意がとれなかった。ベネチア、ハプスブルク家、Charles V、Pope Paul IIによる1537年の呪われた神聖ローマ帝国、および地中海におけるオスマン帝国との戦いの敗北の記憶は関係者にとって新しいものであった。

イスラムの地中海侵出を防ぐには、分裂した権力をひとつのテーブルにつかせられる広範囲な政治機構が必要だった。ローマ教会がその機構のはずだったが、長年の組織内の腐敗がリーダーシップを阻害し、プロテスタントの台頭によってキリスト教圏は分裂していた。

 

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付録ゲーム「The Battle of Lepanto」
Robert Cowlingデザインのこのゲームは、一枚のカウンターが2隻の船を表し、ユニットはガレー船(Galley) 、小型ガレー船(Galliot)、ガレアス船(Galleass)の三種類がある。イオニア海を表すマップには、両軍の初期配置が印刷されている。ルールは、風向き、衝突攻撃、乗船攻撃、小火器、射程距離、弾薬切れ、小型ガレー船の海岸移動、キリスト教国軍の小火器優位、イスラム軍の機動優位、が含まれる。

 

第一次大戦のポーランド人

ヨーロッパ全土が第一次大戦に飲み込まれた時、ポーランドを分割していた三つの大国、ロシア、ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国もまた戦争状態に突入した。
ポーランド人国家主義者は、それがポーランド独立の好機であると考えた。

すなわち、いずれかの陣営が戦争に敗れた時、勝った国のスポンサーシップによって、負けた国が占領していたポーランド領を国土にした独立が可能になる、というセオリーである。
もちろん、そのためには、勝利した国の支援が必要であり、支援を得るにはその国の勝利に貢献することが不可欠だった。真の同盟軍としての認識をもたらすに十分な勝利を戦場で得るためには、それだけのサイズの軍事組織を編成しなければならない。しかし、実際には、徴兵によって数千のポーランド人がいずれかの陣営の兵士として既に参戦しており、その地域はコーカサスからフランダース地域まで及んでいた。


 

ユゼフ・ピウスツキ(Jozef Pilsudski)
1867年にロシア占領下のポーランド、Wilno(現在のヴィリニュス・リトアニア)に生まれる。第一次大戦後のポーランド建国の父と称されるピウスツキは、言うまでもなく、この国最大の英雄である。
国家主義者の家庭で育った彼は、常に活動的な独立主義者であり、それゆえ1886年に逮捕されている。その翌年にはロシア皇帝暗殺計画に連座して再逮捕され、6年間シベリアに流刑された。
解放後、ポーランド社会党の活動的なメンバーとなり、国際社会にポーランド独立を呼びかけた。進展がないことに失望したピウスツキは自分の組織を作り、ロシア人官僚の暗殺、銀行強盗や列車の襲撃を行った。
ロシアの追求を逃れるため、ピウスツキはオーストリア=ハンガリー帝国側のポーランドに移動し、第一次大戦の勃発の年に「ポーランド私設軍隊」を創設する。

1917年、ピウスツキはドイツへの忠誠の誓いを拒絶したために投獄され、第一次大戦が終わった日にポーランドに戻ると国家元首に就任した。1920年のソビエトのワルシャワ侵攻ではポーランド軍の最高司令官としてソビエト軍を撃退した。
ピウスツキはその後も政界に留まり、1935年の逝去までしばしば国家元首に就任した。

For Your Information

1942年半ば、アメリカ海軍司令官Ernest King提督がソロモン諸島における戦略的反撃を提案した時、アメリカ陸軍George C. Marshall将軍は、その作戦は危険であり、パールハーバー後に定めた「ドイツ第一」の大前提からの逸脱である、という理由から支援を断った。Marshall将軍がKing提督への支援を表明したのは、King提督が、Douglas McArthur将軍ま陸軍主導によるニューギニアへの第二次攻勢への支援を表明してからだった。

インドからヒマラヤ山脈を越えての、アメリカ軍による中国軍への空中補給支援は、1942年5月から1945年11月まで42ヶ月にわたって行われた。投入された軍事物資は総計650,000トンであり、ほとんどの歴史家は、この物資なしでは蒋介石政権は存続しなかったと評価する。それゆえ、この補給支援は、空中補給支援が戦争における戦略目標を獲得した最初の例であると言われる。
分析: マウマウ団の乱

イギリス政府が"ケニアの緊急事態"と呼んだマウマウ団の乱は、イギリスの植民地ケニア(イギリス領東アフリカ)で1952年から1960年に起こった反乱である。この抵抗は1960年に鎮圧されたが、1963年にケニアが独立する布石になった。

マウマウ団の乱は複数の原因から発生した。第一の理由は、国の中央平原に起因するものだった。1948年までに、白人入植者は原住民を2,000平方マイルの居留区に移住させ、自らは12,000平方マイルの農業に適した土地を占有した。入植した植民者の人数はわずか30,000人であった。
入植者達は120,000名のKikuyu族を小作人として雇用した。彼らには所有権がなかったばかりか、かつての部族の土地は白人のものになっていた。
祖先の土地から追われたKikuyu族は仕事を求めて都市に移住した。同時に、植民地政府の利益ために働くKikuyu族は中流階級となり、民族内に断絶が生じる結果となった。

ビザンチン海軍、324 - 1453年

1453年4月20日、ジェノヴァ公国の3隻のガレー船に率いられたビザンチンの船団は、オスマントルコの海上封鎖封鎖を破り、コンスタンチノープルに物資を届けた。
長年にわたって有効な海軍を持たず、この時は小都市に縮小していたビザンチン帝国は、ジェノヴァ公国から海軍力を"アウトソーシング"していたが、かつては1,100年にわたって湾岸とシーレーンを守る、誇り高い艦隊を擁していた。

ビザンチン帝国の海軍は、その陸軍と同じく、ローマ帝国の海軍に基礎を求めることができる。多くの歴史家は、ビザンチン海軍の誕生は、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が、古代ギリシアの植民都市ビュザンティオン(Byzantium)に都市を建設した324年であるとしている。
コンスタンティヌス1世は、330年にこの地を帝国の首都に定め、Nova Rome (新ローマ)と呼んだ。東ローマ帝国の海軍はコンスタンティヌス1世の息子が指揮下にあり、455年の西ローマ帝国滅亡までに西ローマの海軍を吸収した。

コンスタンティノープルの海軍は、徴兵と志願兵から成る即時編成の船団であり、兵士の中核はギリシャかダルマチア出身だった。ローマ帝国時代の軍人は、どの艦艇にも数名しか乗船せず、ローマ帝国時代の軍事組織の痕跡はほとんど残っていなかった。100年前の内戦によってベテラン兵が枯渇していたからだった。その海軍は、ペリクレス時代のアテネ海軍にむしろ近いものだった。(関連記事がS&T#246にあります)

全力疾走で敵船に突っ込み、船首の衝角を船腹に当てる戦術は2世紀前にすたれていた。実際の戦術は地上戦と変わらないもので、投石機や弓矢、長槍によって敵の横隊を崩した後に接舷し、大量の兵士を送って斬りこみするものだった。

最初の一世紀の間は敵対する強大な他国の海軍が存在しなかったため、ビザンチン海軍の主要な役割は、内戦や蛮族の侵入に対する兵士の輸送だった。この当時の主要な敵はコルシカ島やサルジニア島、北アフリカを襲撃するバンダル族だった。