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西の勝利: レパント、1571年10月7日

背景
15世紀の終わり、地中海を制圧していたオスマン帝国海軍は、スペインやイタリアの商人を身代金目的で誘拐し、あるいは海岸地域を自由気ままに略奪していた。北アフリカの海賊もオスマン帝国の略奪行為を補佐していた。
ヨーロッパ南側の住民、特に利益率の高い貿易を行うベネチアやジェノヴァの都市国家にとって、オスマン帝国がもたらす安全への脅威と危険は、妨害以外の何物でもなかった。

古くからの怨念と、地理的、政治的な分裂、そして商業上の競合によって、地中海のヨーロッパ諸国は、オスマン帝国に対抗できるだけの統合され統御された海軍力を行使することができなかった。湾岸の都市国家の多くは優れた海軍を持っていたが、数においてオスマン帝国より劣勢だった。

西側諸国は、折り合いのつかない検討課題と充満する術策のおかけで、勝利を得るに十分な規模の海上連合作戦への合意がとれなかった。ベネチア、ハプスブルク家、Charles V、Pope Paul IIによる1537年の呪われた神聖ローマ帝国、および地中海におけるオスマン帝国との戦いの敗北の記憶は関係者にとって新しいものであった。

ミゲル・デ・セルバンテス
小説『ドン・キホーテ』の著者として知られるミゲル・デ・セルバンテスは24才の時、レパントの海戦に参加している。

この海戦でミゲル・デ・セルバンテスは、銃創を胸に二発、左腕に一発受けた。これによって左手の自由を失った彼は、<レパントの片手男>という異名を受けた。
セルバンテスは、それからさらに四年間従軍した後、ガレー船太陽号に乗って帰国するが途中で海賊の捕虜となり、アルジェリアの首都アルジェで身請けを待つ捕虜生活を5年間おくる。その間、四回にわたって集団脱走を企てるが、ことごとく失敗に終わる。
1580年に身請けが成立して帰国すると、新大陸アメリカでの官職、次に文筆に活路を求めるがいずれも成功せず、アンダルシア地域での無敵艦隊のための食糧徴発係の職を得た。しかしながら41歳の時に無敵艦隊が英艦隊に撃破され、その敗北により職を失う。
やがて滞納税金の徴収吏になるが銀行の破産によりセビーリャの刑務所に入獄。この時に自分の生涯を振り返り、58歳の時に『機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』を出版した。
『ドン・キホーテ』は大成功だったが、版権を安く売り渡していたため、生活は良くならなかった。その後も創作活動は続き、1616年、69歳でその波瀾に満ちた人生を終えた。

 

第二次神聖同盟
イスラムの地中海侵出を防ぐには、分裂した権力をひとつのテーブルにつかせられる広範囲な政治機構が必要だった。ローマ教会がその機構のはずだったが、組織内の長年の腐敗がリーダーシップを阻害し、プロテスタントの台頭によってキリスト教圏は分裂していた。

この状況は、1566年にアントニオ・ギスレーリがピウス5世として新教皇に選出されると突如変化した。ドミニコ会の規律に基づく厳格な改革を実行した彼は、スペイン、フランス、イタリアを単一のカトリック教圏として掌握すると、その教圏への潜在的脅威であるオスマン帝国に注意を向けた。すなわち1571年、教皇領、ハプスブルク領スペイン、ナポリ王国、シチリア王国、ベネチア共和国、ジェノヴァ共和国、トスカーナ大公国、サヴォイア公国、パルマ公国、ウルビーノ公国、マルタ王国をメンバーとする第二次神聖同盟を組織したのである。

キプロス島での前哨戦
オスマン帝国皇帝セリム2世は、アナトリア海を隔てて160km地点にあるキプロス島のベニス人の存在をこころよく思っていなかった。
1570年3月、セリム2世は増大する海軍力を背景に、キプロス島の割譲をベネチア共和国にもとめたが、神聖同盟の強化に励まされたベネチア共和国はこれを拒絶した。
4月からアナトリア海南に集まりはじめたトルコ艦隊は6月には結集を完了し、7月1日、司令官ララ・ムスタファの指揮のもと、キプロス島のNicosia南に上陸をはじめた。

用心深すぎるキプロス島の司令官ニッコロ・ダンドロは、水際での攻撃を行わず、Nicosiaの城壁で戦うことを選んだ。それゆえ、トルコ軍は7月28日までに4,000名の騎兵、6,000名のエリート・ジャニサリー兵、200門の砲を含む70,000名の兵力をニコシア近郊の海岸に上陸させることができた。
9月9日朝にNicosiaは陥落し、午後、市内に入ったムスタファは戦闘終了を命じたが、彼の血に飢えた兵士達の婦女暴行と略奪を止めることはできなかった。戦闘と略奪によって20,000名のキプロス人が命を落とし、生存者のほとんどは奴隷として売られた。この戦いにおけるトルコ側の犠牲は30,000名である。

キプロス島の残りの守備拠点は、Famagustaを除いて、すべてムスタファの降伏勧告に応じた。
ムスタファは、Famagusta攻撃のための軍の編成をはじめたが、Famagusta市長Marcantonio Bragadioと司令官Astor Baglione、そして7,000名のベネチア兵が行った抵抗は、彼の予想を上回るものだった。
すなわち1571年1月、トルコ軍の大半が冬季休養のためにRhodesとChiosに停泊している間、Marcantonio Quirini率いる16隻のベネチア軍ガレー船がトルコ軍の海上封鎖を破り、Famagustaに1,600名の兵士と補給物資を送り届け、住民の一部を脱出させた。この時、トルコ軍は6隻のガレー船のみが封鎖作戦に就いていただけであり、不意を突かれたトルコ軍は3隻を喪失した。
Bragadioらの抵抗によって、ムスタファのFamagusta占領作戦に6ヶ月の遅れが生じた。
激怒したセリム2世は、Famagustaを占領するまで、他の地域におけるすべての軍事作戦を停止する命令を出した。2月下旬には200隻から成るトルコ艦隊が、RhodesとChiosの艦隊と合流すべく、Bosporus海峡を出発した。4月上旬までに、100,000名の戦闘隊と100,000名の支援部隊がキプロス島東に上陸していた。

セリム2世が示したかったのは、オスマン帝国は不敗であり、すべてのキスリト教国が畏怖すべきものである、という事実だった。
7月の終わりにはFamagusta守備軍の火薬と食糧は尽きた。ベネチア側の敗北は避けられなくなると、Bragadino市長はムスタファと講和交渉を行った。降伏条件が慎重かつ正確に協議されるなら、Famagustaの兵士と住民はNicosiaの悲劇を免れるはずだった。

8月1日、協議された講和条件に基づいて、Bragadino市長はオスマン帝国軍にFamagusta市を明け渡した。
ムスタファがBragadinoに約束したことは、兵士と住民の命の保証、オスマン帝国支配のもとに生きるか無傷でキプロス島を出るかの選択の自由、留まる場合の財産の保証および信仰の自由、だった。

40隻のガレー船に武装解除されたベネチア兵が乗せられた。彼らの送り先は、クレタ島のベネチア軍だった。
8月4日になると、ムスタファはBragadino市長ら高官を自らのテントに召喚した。8月1日から三日間の降伏プロセスは順調に進んでおり、裏切りの兆候は見られなかった。礼儀正しく会話をはじめたムスタファは、やがてBragadino市長を激しく非難しはじめた。彼が挑発していることはあきらかだった。
ムスタファは、40隻のガレー船が安全に帰還するためには、Bragadinoの若い息子を人質に出す必要があると言った。Bragadinoが冷静にこれを拒絶すると、ムスタファは怒って話し合いをやめ、会合は暴力に変わった。
Bragadinoは鎖に繋がれ、彼の部下達はテントの外に引きずり出されて、Bragadinoの見ている前で首をはねられた。Bragadinoは三回、首はね台に頭を乗せられたが動じず、耳と鼻を削がれ、生き長らせるために止血が施された。
ガレー船のベネチア兵達は裸にされ、オールに縛りつけられた。指揮官は絞首刑にされ、ガレー船はベネチア市民達から見える海域に出された。Bragadinoはマストに吊るされた後、市内の広場に引きずり出され、さらし台に固定されて皮を剥がれながら殺された。死後、Bragadinoの皮膚には藁が詰められ、Famagusta市内のパレードに使われ、最後はコンスタンチノープルまで運ばれた。

神聖同盟がキプロス島を守ることができなかった事実は、次の三つの予期せぬ結果をもたらした。
第一に、神聖同盟が迅速で効果的な反撃を行うことができなかったことから、オスマン帝国の地中海進出は継続された。
第二に、オスマン帝国はキプロス島を攻略することで、ベネチア共和国が神聖同盟から離脱し、オスマン帝国との通商を復活させると考えていたが、イタリア市民はこれをオスマン帝国の破壊的願望と解釈した。
第三に、NicosiaとFamagustaにおけるオスマン帝国軍の残虐行為によって、カトリック国側は、武力による解決しか方法がないという考えをいっそう強くした。


レパントの海戦の油絵(作者不詳)