1937年7月7日、マルコポーロ橋のそばで日本軍の歩兵連隊が夜間演習をしていた。Lugoqiao(盧溝)という、北京郊外に位置する小さな村落だった。
小用を足しに行った上等兵が行方不明になると、日本軍中隊長は中国軍を疑い、マルコポーロ橋の反対側の中国軍陣地に押し入って兵士を捕獲、町の捜索を要求した。
数時間後には双方の銃撃が始まり、小競り合いは拡大していった。やがてそれは、数百万人もの死傷者を出す戦いに発展し、第二次大戦の幕開けとなるのだった。
大日本帝国
中国北部への日本の侵略には長い歴史があった。19世紀後半、鎖国を終えた日本は東アジアの強大国になっていた。プロシアが帝国陸軍を育て、イギリスが日本海軍を作った。いずれも当時のヨーロッパの最強国だった。ヨーロッパの覇権主義国家と同様、日本も弱体化した中国に侵攻し、その広大な領土の一部を支配下に置きはじめた。
関東軍の誕生
日本は、1894年の日清戦争で台湾と朝鮮を占領、1905年の日露戦争では満州鉄道と遼東半島を支配下に置いた。続く第一次大戦ではドイツの植民地を得、ロシア革命では反政府勢力を後方から支援、帝政の崩壊に力を貸した。清朝後に誕生した"ストロング・マン"Yuan
Shikai(袁世凱)の中華民国は、日本がつきつけた21か条の経済・領土要求の前に崩壊し、中央政府を失った中国は、1928年までの約10年間、軍閥割拠の時代に入る(関連記事:
S&T#269「中国再統合の戦争」)。
当時の朝鮮と南満州には、日本の歩兵師団と数個の守備大隊がいた。この軍は1919年に 「関東軍」として編成されたものであり、日本軍とは独立した軍事組織だった。関東軍は、日増しに激化する中国内戦に介入し、武器を提供したり、「好ましくない」軍閥を暗殺したりした。
満州国
1931年9月18日、関東軍は、満州侵攻の口実を作るため、Mukden(奉天)近郊で鉄道爆破事件を意図的におこした。KMT(国民党軍)のZhang Xueliang(張学良、関東軍に暗殺された張作霖の長男)率いる350,000名の軍隊は一個歩兵師団と六個大隊の関東軍に破れ、9月の終わりまでにLiaoning(奉天)、Jilin(吉林)が関東軍の支配下になった。拡大する戦線に対し、日本政府は三個歩兵師団を増援、満州全域を制圧した。
国際連盟の調査団は、これを日本の侵略と結論づけたが、日本に対して有効な制裁は行われなかった。「満州事変」は、その名の通り、強大国による弱小国への侵略は制裁を受けないことを世界中の覇権主義国家に示したものだった。歴史家には、満州事変を第二次大戦の最初の行為とみなす者がいる。
翌年、日本はふたたび中国軍の攻撃を偽装する。場所はShanghai(上海)で、陸戦隊一個連隊を増援して4ヶ月間戦った。停戦協定によって非武装地帯が設けられるが、Shanghai侵攻に対する英米の反応は満州事変と比べてはるかに強硬で、日本は国際連盟を脱退した。
KMTとCCPの連携
1932年、日本は清朝の廃帝・溥儀を傀儡として満州国を建国、中国侵攻の足がかりを強固なものにした。1934年までに関東軍はJohol(熱河省)とHebei(河北省)まで進み、Beijing(北京)から13マイルの地点まで到達していた。
KMTのリーダーJiang Jieshi(蒋介石)は、もともと強烈な反共主義者だった。彼は、KMT広東軍、KMT湖南軍と連携し、1930年12月から1934年までの包囲戦(第1次-第4次囲剿)によってCCP(共産党)を追い詰めていた。CCPはShaanxi(陝西省延安)までの有名な撤退 - 長征 - を行っていた。
CCPとの最終決戦のため、1936年にJiangは関東軍と交渉し、国境の策定を関東軍に有利にする密約を結んだ。その見返りに、彼は300,000名の兵士をShaanxi(陝西省)に集めることができた。
これを母国への裏切りとみなしたKMTの将軍Zhang(張学良)は、Xian(西安)でJiang(蒋介石)を監禁、CCPの特使とともにJiangを説得、その結果、KMTとCCPは連携して日本と戦うことになった(第二次国共合作)。
CCPのリーダーMao Zedong(毛沢東)は、KMTのもとでは政治的未来がないことは知っていた。しかし、紅軍には軍事増強のための時間が必要であり、彼はまた、Shaanxi(陝西省延安)の政体を強化したかった。
Mao Zedongが求めていたもうひとつの事件は日本との本格的な戦争だった。それは農民の動員を容易にし、共産主義による社会改革を促進するものだったからである。
1937年 CCPと関東軍の本格的戦争
マルコポーロ橋の軍事衝突は、作為的に起こされた事件かもしれないし、偶発的なものかもしれない。いずれにせよ、ひとたび勃発した後は両軍とも攻撃をやめるつもりがなかった。数日間にわたって激しい戦闘が行われ、7月17日にMao
Zedongは「日本と戦う時が来た」と演説する。
彼は、精鋭の七個師団を中国北部に送り、日本もまた数個師団を本国から送り、本格的な日中戦争となった。
Beijing(北京)は7月28日、日本軍によって陥落、Hebei(河北省)に南下し、Tianjin(天津)を占領した。
上海の激戦
CCPがHebei(河北省)を失った時、Jiang(蒋介石)とKMTの将軍達はNanjing(南京)にいた。彼らはShanghai(上海)の日本軍を攻めることで、中国北部での日本軍の攻撃力が分散されると考え、KMTの最良の数個師団とすべての重砲、戦車を投入しShanghaiを攻撃する。
日本軍もまたShanghaiに数個の歩兵師団を投入、8月から10月まで続いた戦闘で、Jiangもまた七十個以上の師団を増援した。結局、KMTは300,000名の兵士とすべての重砲と戦車を失い、Shanghaiから敗退しなければならなかった。
Jiang(蒋介石)は最強の師団を失ったが、KMTが日本軍と互角に戦った最初の戦闘であり、彼らの戦意は高まった。
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