Battle for China, 1937
#259 November 2009

"中国事変" 1937 - 41: 戦略的分析

1937年7月7日、マルコポーロ橋のそばで日本軍の歩兵連隊が夜間演習をしていた。Lugoqiao(盧溝)という、北京郊外に位置する小さな村落だった。
小用を足しに行った上等兵が行方不明になると、日本軍中隊長は中国軍を疑い、マルコポーロ橋の反対側の中国軍陣地に押し入って兵士を捕獲、町の捜索を要求した。
数時間後には双方の銃撃が始まり、小競り合いは拡大していった。やがてそれは、数百万人もの死傷者を出す戦いに発展し、第二次大戦の幕開けとなるのだった。

大日本帝国
中国北部への日本の侵略には長い歴史があった。19世紀後半、鎖国を終えた日本は東アジアの強大国になっていた。プロシアが帝国陸軍を育て、イギリスが日本海軍を作った。いずれも当時のヨーロッパの最強国だった。ヨーロッパの覇権主義国家と同様、日本も弱体化した中国に侵攻し、その広大な領土の一部を支配下に置きはじめた。

関東軍の誕生
日本は、1894年の日清戦争で台湾と朝鮮を占領、1905年の日露戦争では満州鉄道と遼東半島を支配下に置いた。続く第一次大戦ではドイツの植民地を得、ロシア革命では反政府勢力を後方から支援、帝政の崩壊に力を貸した。清朝後に誕生した"ストロング・マン"Yuan Shikai(袁世凱)の中華民国は、日本がつきつけた21か条の経済・領土要求の前に崩壊し、中央政府を失った中国は、1928年までの約10年間、軍閥割拠の時代に入る(関連記事: S&T#269「中国再統合の戦争」)。

当時の朝鮮と南満州には、日本の歩兵師団と数個の守備大隊がいた。この軍は1919年に 「関東軍」として編成されたものであり、日本軍とは独立した軍事組織だった。関東軍は、日増しに激化する中国内戦に介入し、武器を提供したり、「好ましくない」軍閥を暗殺したりした。

満州国
11931年9月18日、関東軍は、満州侵攻の口実を作るため、Mukden(奉天)近郊で鉄道爆破事件を意図的におこした。KMT(国民党軍)のZhang Xueliang(張学良、関東軍に暗殺された張作霖の長男)率いる350,000名の軍隊は一個歩兵師団と六個大隊の関東軍に破れ、9月の終わりまでにLiaoning(奉天)、Jilin(吉林)が関東軍の支配下になった。拡大する戦線に対し、日本政府は三個歩兵師団を増援、満州全域を制圧した。

国際連盟の調査団は、これを日本の侵略と結論づけたが、日本に対して有効な制裁は行われなかった。「満州事変」は、その名の通り、強大国による弱小国への侵略は制裁を受けないことを世界中の覇権主義国家に示したものだった。歴史家には、満州事変を第二次大戦の最初の行為とみなす者がいる。

翌年、日本はふたたび中国軍の攻撃を偽装する。場所はShanghai(上海)で、陸戦隊一個連隊を増援して4ヶ月間戦った。停戦協定によって非武装地帯が設けられるが、Shanghai侵攻に対する英米の反応は満州事変と比べてはるかに強硬で、日本は国際連盟を脱退した。

2KMTとCCPの連携
1932年、日本は清朝の廃帝・溥儀を傀儡として満州国を建国、中国侵攻の足がかりを強固なものにした。1934年までに関東軍はJohol(熱河省)とHebei(河北省)まで進み、Beijing(北京)から13マイルの地点まで到達していた。

KMTのリーダーJiang Jieshi(蒋介石)は、もともと強烈な反共主義者だった。彼は、KMT広東軍、KMT湖南軍と連携し、1930年12月から1934年までの包囲戦(第1次-第4次囲剿)によってCCP(共産党)を追い詰めていた。CCPはShaanxi(陝西省延安)までの有名な撤退 - 長征 - を行っていた。
CCPとの最終決戦のため、1936年にJiangは関東軍と交渉し、国境の策定を関東軍に有利にする密約を結んだ。その見返りに、彼は300,000名の兵士をShaanxi(陝西省)に集めることができた。

これを母国への裏切りとみなしたKMTの将軍Zhang(張学良)は、Xian(西安)でJiang(蒋介石)を監禁、CCPの特使とともにJiangを説得、その結果、KMTとCCPは連携して日本と戦うことになった(第二次国共合作)。

CCPのリーダーMao Zedong(毛沢東)は、KMTのもとでは政治的未来がないことは知っていた。しかし、紅軍には軍事増強のための時間が必要であり、彼はまた、Shaanxi(陝西省延安)の政体を強化したかった。

Mao Zedongが求めていたもうひとつの事件は日本との本格的な戦争だった。それは農民の動員を容易にし、共産主義による社会改革を促進するものだったからである。

21937年 CCPと関東軍の本格的戦争
マルコポーロ橋の軍事衝突は、作為的に起こされた事件かもしれないし、偶発的なものかもしれない。いずれにせよ、ひとたび勃発した後は両軍とも攻撃をやめるつもりがなかった。数日間にわたって激しい戦闘が行われ、7月17日にMao Zedongは「日本と戦う時が来た」と演説する。
彼は、精鋭の七個師団を中国北部に送り、日本もまた数個師団を本国から送り、本格的な日中戦争となった。
Beijing(北京)は7月28日、日本軍によって陥落、Hebei(河北省)に南下し、Tianjin(天津)を占領した。

上海の激戦
CCPがHebei(河北省)を失った時、Jiang(蒋介石)とKMTの将軍達はNanjing(南京)にいた。彼らはShanghai(上海)の日本軍を攻めることで、中国北部での日本軍の攻撃力が分散されると考え、KMTの最良の数個師団とすべての重砲、戦車を投入しShanghaiを攻撃する。
日本軍もまたShanghaiに数個の歩兵師団を投入、8月から10月まで続いた戦闘で、Jiangもまた七十個以上の師団を増援した。結局、KMTは300,000名の兵士とすべての重砲と戦車を失い、Shanghaiから敗退しなければならなかった。
Jiang(蒋介石)は最強の師団を失ったが、KMTが日本軍と互角に戦った最初の戦闘であり、彼らの戦意は高まった。

付録ゲーム「Battle for China」
日本軍が中国大陸に侵攻した1937年からの4年間を描く「Battle for China」は、日本軍、国民党軍(KMT)、共産党(CCP)の三者対戦ができるマルチプレイゲームです。
ルールはWorld at War#8のArriba Espanaの引用で、1937〜1941年は、日本が中国に勝つことができた決定的な期間なのだとS&Tに書かれています。

勝敗は政治ポイントで決まります。ゼロになったプレイヤーはサドンデスになりますが、テリトリーを得て獲得できる政治ポイントよりも、それを失って喪失する政治ポイントが大きく、日本軍のテリトリーはKMT/CCPのゲリラ兵が簡単に奪回できるので、むやみにテリトリーを広げるのはいいアイデアではありません。

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CCPのゲリラユニット(赤)が前線に浸透するところ。第6ターン。

感想:

ゲーム開始時、CCPは10ユニット程度の弱小勢力でした。日本軍とKMTが交戦しながら消耗するあいだにゲリラ兵を増やし、ゲーム中盤までにはKMTが戦争に勝つ上で、無視できない勢力になっていました。
当初無敵だった日本軍は、戦線が史実と同じぐらい拡大した第6ターンあたりから攻勢の速度が落ちました。Consimでも「日本軍は絶対に勝てない」と書かれています。

今回のプレイでは、第8ターンで日本軍のサドンデスでした。プレイバランスはKMT/CCPに有利なものでしたが、日中戦争はこんなものだったのだろうという感じのするゲームです。三人での対戦をおすすめします。

(2010/1/23に対戦)

 

マルクス・リキニウス・クラッススと内乱の一世紀

t紀元前一世紀までに、ローマ帝国は内側から崩壊しはじめる。地中海世界の全域で軍事勝利を得る一方、戦争の勝利は、本国に制度疲労をもたらした。

伝統的なローマの政治制度は、貴族と農業平民との容易ならぬバランスの上にできていた。戦争は、それに参加した平民に新たな土地を与えたが、同時に多量の奴隷をローマ帝国に与えた。安価な労働力を得るため、大地主は市民を雇う代わりに奴隷を使い、地方の市民は貧困にあえぎ、彼らは都市に流入した。

ティベリウス・グラックスとガイウス・グラッススは土地改革を行い、このアンバランスを是正しようとするが、ティベリウスは紀元前133年、ガイウスは紀元前121年にそれぞれ、「共和制の敵」として、貴族によって暗殺される。ローマの政治に暴力が入りはじめたのであった。

マリウスの軍団

2この時代の標準的なローマの軍隊は、レギオー、あるいはマリウスの軍制改革(BC107)にちなんでマリウスの軍団、とも呼ばれる。
ポエニ戦争時代のローマ軍は、ローマ市民から構成され、武器は自前でそろえなければならなかった。その結果、裕福な市民でなければ一流の武器を持つことはできなかった。

戦争が継続化すると、農民から兵士を徴集する必要が生じ、マリウスは志願制の軍隊を採用した。かれらには武器と給与が与えられ、ローマ軍は職業兵士で構成された精強な軍団へと変貌する。

ディエンビエンフー : 第一次インドシナ戦争を決定づけた戦い

1CEFEO(フランス軍極東遠征軍団)の司令官、Henri Navarre(アンリ・ナヴァール)将軍が受けた命令は、Nam Youm渓谷の再占領のためにディエンビエンフーを強襲することだった。ラオスとベトナム国境にあるNam Youm渓谷は、ベトミンの進入路になっていた。ディエンビエンフーには、かつて日本軍が使っていた滑走路があった。

ベトミンのディエンビエンフーでの抵抗はほとんどなかった。ディエンビエンフーに降り立ったフランス軍は、相反する二つの任務を行わなければならなった。ひとつの任務は渓谷におけるベトミンの掃討作戦であり、もうひとつはディエンビエンフーの守備だった。

ディエンビエンフーの司令官、Christian de la Croix de Castries(クリスチャン・ド・ラクロワ・ド・カストリ)大佐は、すぐに、防衛線を引くには、兵力を薄く分散させなければならないことに気づいた。滑走路を守るには、周囲の五つの丘陵に陣地を置く必要があったが、丘陵は離れており、すべての丘陵を守備する兵力ははじめからなかった。

盆地にあるディエンビエンフーは、雨季になると水没し、五つの丘陵は孤島のように独立した。陣地の最大の欠点は、もともと、長期的な篭城戦のために作られたものではなかったことだった。砲兵陣地は野ざらしで、ベトミンから丸見えだった。五つの陣地が相互に火気支援できるのは、理論上の話だった。

1そしてボー・グエン・ザップ。彼が28歳の時、義理の姉が禁じられた共産主義運動に加わった罪でギロチンにかけられていた。もともとは歴史の教師だったグエン・ザップは、ベトナホーチミンとともに中国に渡り、戦略家になって帰ってきた。

ディエンビエンフーにフランス軍の基地ができた時、グエン・ザップは二つの大きな戦いに既に勝ち、「補給戦の名将」「丘陵戦の大家」の称号を得ていた。彼はディエンビエンフーへの総攻撃に先立ち、北部ベトナムやラオスでの軍事作戦を繰り返し、フランス軍を忙しくさせていた。

グエン・ザップは、十分な兵力と備蓄が集まるまでディエンビエンフーへの攻撃を遅らせていた。彼が待っていたのは雨季だった。やがてディエンビエンフーのフランス軍は、少なく見積もっても4倍以上のベトミンに包囲されていることを知る。

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