第一次大戦がはじまってから最初の数カ月間、イタリアは中央同盟と連合国の両方と交渉していた。イタリアの交渉の目的は「いずれかの陣営からより多くを獲得すること」であり、今日から歴史を振り返るなら何ら驚くべきことではないが、連合国側の方がより広大な領土をイタリアに約束したのである。
すなわち1915年4月にロンドンで調印した秘密協定では、オーストリア領の南チロル地方、トレンティーノ地方、トリエステ、イストリア地方、ダルマチア地方、果てはアドリア海対岸、トルコ東部をイタリアに提供することが約束された。しかし、協定が結ばれた時点で、そもそも連合国はこれらの領土をイタリアに提供する立場になかった。その意味で、この秘密協定はイタリアに対し、きわめて気前のいい内容だった。
イタリアは1915年5月23日にオーストリア・ハンガリー帝国に宣戦布告、イゾンツォ川周辺で5回の攻勢を行い、翌年の後半にはゴリツィア、1917年9月には11回の攻勢でバインジッツを占領した。
劣勢のイタリア戦線を守るため、ドイツ軍Erich Ludendroff将軍はオーストリアに六個師団を送った。その結果、オーストリア軍との混成の15個師団相当の第14軍が誕生、カポレット攻略の中核を担うことになった。
戦闘前の状態
ドイツ軍がたてた作戦は、一ヶ月前のRigaで実証されたフーチェル戦術(Hutier tactics)であった。すなわち、砲兵による敵司令部、敵砲兵陣地、予備軍への大量の砲爆撃と、クロロアルシン、ジホスゲンによる毒ガス攻撃の後、浸透戦術による歩兵部隊が敵の抵抗拠点を迂回して後方の指揮系統を破壊、敵前線を崩壊させる、という作戦である。
対峙するイタリア軍は疲弊していた。最後の戦闘で勝利していたものの、トリエステは占領できず、食料は不足、志気が下がって不服従が蔓延、銃殺刑まで行われていた。国内では石炭、鉄、食物が不足、ストライキが発生し、嫌戦気分が蔓延した議会では「兵士が塹壕で過ごすのは今年の冬まで」とまで言われた。
加えて、イタリア軍兵士は、防衛戦の訓練をほとんど受けていなかった。攻撃主体のイタリア軍が持つ唯一の防衛ドクトリンは、その場に踏みとどまって戦う、というものであった。
イタリア軍情報部は、敵軍の攻勢はイゾンツォ川で行われると読んでいたが、これは正しかった。しかしイタリア軍司令官Luigi Cadorna将軍は、敵攻撃の中心は山岳地のイタリア第二軍にではなく、海岸よりのイタリア第三軍に対して行われると考えていた。
結果
10月24日からはじまったカポレットの戦いで、イタリア軍は大敗を喫した。約30,000名が戦死もしくは負傷、296,000名が捕虜、3,000門の火砲を失った。イタリアは、二年かけて獲得した領土を三週間の戦闘で喪失し、イタリア第二軍は壊滅した。
ドイツ軍が得た戦果は戦術的には目をみはるべきものだったが、戦略的には限られたものだった。オーストリアは失われた領土を得、トリエステへの脅威は取り除かれたが、もしドイツ軍がさらに攻勢を続けたなら、イタリアが連合国の同盟からはずれた可能性があった。
赤矢印がドイツ・オーストリア軍の攻勢。
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