The Black Prince
#260 December 2010

エドワード黒太子と中世の戦争

男子の継承者のいないシャルル4世の死は、カペー朝の終わりだった。
1328年の時点で、おそらく、当時10代のイングランド王エドワード3世がもっとも正統的な王位継承者だったが、フランス貴族はエドワード3世が外国人であるという理由から退け、代わりにヴァロワ伯シャルルの息子フィリップに王位を継承させた。

彼がスコットランドとアキテーヌ公領に介入し、1337年に公領などを没収すると戦争がはじまった。三年後、エドワード3世が王を名乗り、フランドル地方の裕福な地主層の支援を得ようとした。

クレシーの戦いは、1346年8月26日にフランス北部で行われた戦いで、エドワード3世率いる1万2千人のイングランド軍が、フィリップ6世のフランス軍3万人に勝利した戦いである。 エドワード3世の息子、16歳のエドワード黒太子は、イングランド軍の一部隊を率いてクレシーの戦いに参戦した。



付録ゲーム"The Black Prince: Crecy & Navarette"
前近代の戦術級ゲームが扱うテーマのひとつは、異なる種類の武器、すなわち、騎兵と歩兵、近接打撃と射撃、部隊フォーメーションと小規模部隊の相互作用である。

ゲームの中で、横長のユニットは移動により制限がある。普通の大きさのユニットは移動の自由度は高いが、集団性がない。射撃は同時に行われたと解釈するが、殴り合いは攻撃側の結果を解決した後に防御側の結果を判定する。すなわち、先制が有利である。

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ヨルダンのアラブ軍団

gアラブ軍団(The Arab Legion)は、1920年にイギリス統治下のヨルダンで編成された警察・治安部隊にその基礎を置く。
現地招集のアラブ人で編成したこの部隊は、当初、第一次大戦でアラビアのロレンスとともに戦ったFrederick G. Peake大尉が指揮官だった。150名からはじまった部隊の最初の任務はアマン-パレスチナ道路をベドウィンの襲撃から守ることとKarakのイギリス官僚の警護だったが、1926年には1,500名を擁する部隊に成長していた。

アラブ軍団は、1939年にJohn Bagot Glubb大尉が指揮官になるまでに、大きな変貌を遂げていた。部隊はベドゥイン出身の兵士で構成されるようになり、近代的な軍隊に鍛え上げられていた。第二次大戦中はイラクを攻撃、シリア領内のビシー政権フランス軍とも交戦し、撃退している。

1948年の第一次中東戦争がはじまった時、アラブ軍団は最強の軍隊とみなされていた。Glubb率いるアラブ軍団はウエストバンクを占領、イスラエル軍と激しい戦闘を行った。
その後、アラブ軍団は王立ヨルダン陸軍として再編成され、シリアの侵略から防衛したり、領内のPLO組織を破壊している。


黒い九月
eイスラエル建国後、ヨルダンに移住するパレスチナ人の人口が増えると、Yasser Arafatはヨルダン王Husseinにあからさまな示威行為をはじめた。
PLOは私兵を組織、道路を封鎖して税を徴収したのである。司令部はAmmanに置かれ、いくつかの難民キャンプを支配した。

Hussein王は1970年9月までに、レバノン軍にPLO司令部への襲撃を命じ、Amman、JarashなどのPLO司令部が攻撃を受けた。しかし、"48時間の電撃戦"のはずだったこの軍事作戦は、PLOの頑強な抵抗にあい膠着状態に陥る。

そこに参戦したのがシリア軍で、1970年9月20日、機甲一個旅団がRamtha付近の国境を越え、レバノン守備軍と交戦、翌日にはシリア軍第五歩兵師団、第九、第八十八機甲旅団、第六十七機械化旅団、レンジャー大隊が国境を越えた。
しかし9月22日、ヨルダン軍の二個旅団に対して行った攻撃では、シリア軍は100両の損失と600名の死亡を蒙り、9月27日、ヨルダンとPLOは停戦を合意する。

停戦は短いものだった。翌年1月、 パレスチナ解放民主戦線(Popular Front for the Liberation of Palestine)がHussein王の転覆を図ると、ヨルダン軍はAmmanとJarashを結ぶパレスチナ軍の拠点を襲撃、3月にはIrbidからPLOを追い出し、7月には第九十九機甲旅団と第三十六歩兵旅団がJareshのパレスチナ軍を包囲攻撃、PLOには600名の戦死と2,300名の捕虜を出した。

この一連のヨルダン軍のPLOに対する勝利は「黒い九月」と呼ばれ、その名を冠したテロリストグループが編成されたのである。(写真は1970年9月21日のヨルダンでのハイジャックを報じたTimes。)

1917年 カポレットの戦い

第一次大戦がはじまってから最初の数カ月間、イタリアは中央同盟と連合国の両方と交渉していた。イタリアの交渉の目的は「いずれかの陣営からより多くを獲得すること」であり、今日から歴史を振り返るなら何ら驚くべきことではないが、連合国側の方がより広大な領土をイタリアに約束したのである。
すなわち1915年4月にロンドンで調印した秘密協定では、オーストリア領の南チロル地方、トレンティーノ地方、トリエステ、イストリア地方、ダルマチア地方、果てはアドリア海対岸、トルコ東部をイタリアに提供することが約束された。しかし、協定が結ばれた時点で、そもそも連合国はこれらの領土をイタリアに提供する立場になかった。その意味で、この秘密協定はイタリアに対し、きわめて気前のいい内容だった。

cイタリアは1915年5月23日にオーストリア・ハンガリー帝国に宣戦布告、イゾンツォ川周辺で5回の攻勢を行い、翌年の後半にはゴリツィア、1917年9月には11回の攻勢でバインジッツを占領した。

劣勢のイタリア戦線を守るため、ドイツ軍Erich Ludendroff将軍はオーストリアに六個師団を送った。その結果、オーストリア軍との混成の15個師団相当の第14軍が誕生、カポレット攻略の中核を担うことになった。

戦闘前の状態
ドイツ軍がたてた作戦は、一ヶ月前のRigaで実証されたフーチェル戦術(Hutier tactics)であった。すなわち、砲兵による敵司令部、敵砲兵陣地、予備軍への大量の砲爆撃と、クロロアルシン、ジホスゲンによる毒ガス攻撃の後、浸透戦術による歩兵部隊が敵の抵抗拠点を迂回して後方の指揮系統を破壊、敵前線を崩壊させる、という作戦である。

対峙するイタリア軍は疲弊していた。最後の戦闘で勝利していたものの、トリエステは占領できず、食料は不足、志気が下がって不服従が蔓延、銃殺刑まで行われていた。国内では石炭、鉄、食物が不足、ストライキが発生し、嫌戦気分が蔓延した議会では「兵士が塹壕で過ごすのは今年の冬まで」とまで言われた。

加えて、イタリア軍兵士は、防衛戦の訓練をほとんど受けていなかった。攻撃主体のイタリア軍が持つ唯一の防衛ドクトリンは、その場に踏みとどまって戦う、というものであった。

イタリア軍情報部は、敵軍の攻勢はイゾンツォ川で行われると読んでいたが、これは正しかった。しかしイタリア軍司令官Luigi Cadorna将軍は、敵攻撃の中心は山岳地のイタリア第二軍にではなく、海岸よりのイタリア第三軍に対して行われると考えていた。

結果
10月24日からはじまったカポレットの戦いで、イタリア軍は大敗を喫した。約30,000名が戦死もしくは負傷、296,000名が捕虜、3,000門の火砲を失った。イタリアは、二年かけて獲得した領土を三週間の戦闘で喪失し、イタリア第二軍は壊滅した。

ドイツ軍が得た戦果は戦術的には目をみはるべきものだったが、戦略的には限られたものだった。オーストリアは失われた領土を得、トリエステへの脅威は取り除かれたが、もしドイツ軍がさらに攻勢を続けたなら、イタリアが連合国の同盟からはずれた可能性があった。

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赤矢印がドイツ・オーストリア軍の攻勢。

S&T 刊行予告

  2010 2011 2012
第一次大戦 261: Kaiser's War 267: ロシア内戦 273: Irish Uprising
ガンパウダー 262: フレデリック大王 268: When Lions Sailed 259: Pacific War
近代 263: カブール79'と核戦争対応師団 269: フォークランド 260: Anaconda
アメリカ史 264: シャイローの戦い 270: Amer Rev. 261: Ticondaroga
第二次大戦 265: ディエップ上陸作戦 271: 2nd Kharkov 262: Tobruk
古代 266: レコンキスタ 272: Julian 263: Lepanto

ロシア内戦: SPIのリメイク。Joseph Miranda。
When Lions Sailed: 17世紀のヨーロッパの海上覇権。マップは地球のほとんどをカバーする。イギリス、オランダ、スペイン、フランスで対戦するマルチプレイヤーゲーム。
Irish Uprising: 1916年ダブリンでの蜂起からはじまった紛争。イギリスとアイルランドプレイヤーの対戦。Braian Trainの"Algeria"システムを引用したエリアマップ方式。デザイナー、Don Cooper。
Pacific War: 1879年にチリとボリビア・ペルー同盟で行われた戦争。陸上と海上の両方で勝利する必要があるという。Javier Romeroがデザイナー。
Anaconda: Joseph Mirandaがデザイナー。2002年アフガニスタンでの、アメリカ連合軍とアルカイダ/タリバンの戦い。アメリカ軍がより大規模な攻撃を行うには政治的コストを支払う。指揮系統、アフガン人の戦意、電子戦のルール。
Ticondaroga: 1755-58年におけるジョージ湖の戦い。ハドソン湖とシャンプレーン湖の戦略マップと、戦術マップから成るゲーム。William Nesterがデザイン。
Tobruk: 連隊、大隊規模の228枚のカウンター。チット活性化。デザイナー、Paul Youde。
Lepanto: ガレー船による海戦。船の速度は櫓と帆、風向きと船の針路で変わる。砲撃、乗船攻撃、衝突。より多くの船舶が残っている方が勝ち。Robert J. Cowlingデザイン。