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皮膚の病、心臓の病: 1916 - 28、中国再統合の戦争 | ||||||
中国の内戦のはじまり(1916~)は、日清戦争(1894)と義和団の乱(1900)に遠因を求めることができる。いずれも、清朝が西欧諸国の侵入者に敗れた争いだった。
北洋軍司令官・袁世凱 日清戦争に破れた後も、清朝政府は北洋軍を軍の中核とみなし近代化を図ったが、それは大きな間違いだった。1911年に辛亥革命が勃発した時、北洋軍は政府を守らず、清朝は滅亡した。 その後の1912年からの5年間は、北洋軍司令官・ストロングマン・袁世凱が対抗する勢力を抑圧し、権力を掌握した期間である。彼の目的は新国家"中華帝国"の樹立と初代皇帝への就任だった。しかしながら、その野望は本人が肝臓病で死亡することによって絶たれ、1916年に北洋軍は複数の軍閥に分かれた。 |
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安徽派の誕生と没落 |
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第一次奉直戦争 |
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直隷派単独政権から奉天派の復活 1924年9月15日から18日間、300,000名のよく訓練され十分な砲兵支援を持つ奉天派軍が、十分な計画に基づいてこのふたつの都市への攻略を開始した(第二次奉直戦争)。しかしながら、北京まで間近に迫ったところで直隷派軍の激しい抵抗にあった。10月13日になると南部から直隷派軍が前線に戻り、奉天派軍の進撃は完全に止まった。 戦争が膠着状態に陥ったと思われた10月22日、直隷派第三軍総司令の馮玉祥がクーデターをおこし、直隷派総司令官・曹錕を逮捕した(北京政変)。呉佩孚は北京を再占領するため前線から兵を引き抜かねばならず、11月3日までに直隷派軍は前線のコントロールをほとんど失った。第二次奉直戦争は奉天派が勝利したが、戦争の規模は第一次奉直戦争よりも大きく、双方に50,000名の損害が出た。 |
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反奉戦争
この年の終り、国民軍司令官・馮玉祥は北京に大胆な攻撃を仕掛けた。第三次奉直戦争とも呼ばれるこの戦争は、1925年11月から半年続き、北伐以前に行われた中国内戦では最大級の戦いとなった。第一次大戦型の消耗戦によって奉天派との間には数千の損害が出たが、この短い期間、国民軍は北京を支配した。 国民軍と奉天派軍の戦争は、KMTに十分な軍事増強のための時間を与えていた。1925年に孫文が死亡して以来、KMTの最高司令官・蒋介石は中国南部の軍閥のほとんどを味方につけ、政治基盤を強固なものにしていた。KMTはソビエトの軍事支援によってNRA(国民革命軍)を近代化、30,000名だった軍隊を戦車を装備した300,000名の部隊にしていた。CCP(中国共産党)と共同戦線ができた時(第一次国共合作)、KMTは"北伐"の準備が整ったのだった。 |
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北伐 (the Northern Expedition)
北伐は、1926年6月2日、直隷派の唐生智(湖南省)がKMTに寝返ったことからはじまった。KMTは8月までに100,000名の兵士を湖南省に送り、隣の湖北省まで侵入、武漢を脅かす位置まで兵を進めた。直隷派がこれを止めることができなかったのは、兵力を国民軍との戦いに集中していたからであり、CCPによって湖南省への増援が妨害されたからだった。CCPは鉄道と通信網の破壊を行うことで直隷派の移動を妨害していた。 8月29日武漢近郊で、呉佩孚は自らの指揮によってNRAに正面攻撃を仕掛けた。呉軍の攻撃は、NRAのよく訓練されたライフル射撃と砲撃によって阻まれ、呉佩孚側に10,000名の損害を出す結果になった。呉軍にとっては大きすぎる犠牲であり、彼は兵を撤退させるとダム、堤防を壊してNRAの進撃を妨害した。 10月後半から11月にかけて、NRAと孫は南昌をめぐって流血の戦いを繰りひろげた。双方のリーダーが直接指揮をとり、シーソーゲームとなった正面攻撃によって、両軍に十万人規模の損害が出た。NRAが南昌の孫軍を孤立させる位置に移動したため孫は南昌から撤退、11月9日、NRAは南昌を占領した。南昌の陥落は孫派の政治的な壊滅となり、彼のライバル・呉佩孚と同様、孫傳芳は北部に逃れ奉天派に保護を求めた。孫派残党が大量にNRAに降伏した結果、戦闘らしい戦闘なしでNRAは上海を占領した(1927年3月)。
NRAもまた100,000人の損害を出して疲弊していた。中国中西部を支配した時点でNRAの進撃は停止、その間、張作霖は直隷派の残党と奉天派を統合して「安国軍」を創設、自らが最高司令官になった。KMTがソビエトの軍事支援を受けていること、KMTにCCP幹部がいることから、張作霖は、KMTは共産主義者が支配するフロント組織であり、中国を共産主義から救うために安国軍への軍事支援が必要である、と西側諸国に訴えた。 上海クーデター クーデターによって壊滅的な打撃を受けたCCPは国民軍との同盟を模索したが、馮玉祥がKMTと同盟したため不成立に終わった。CCPはKMTの支配する武漢と南昌を攻撃するが、これも撃退された。 張作霖の安国軍は、1927年4月から進撃を開始した。南京と上海を脅かす位置まで到達した彼らは、海軍を持たなかっため揚子江北岸で停止した。これはKMTに十分な時間を与えた。 張作霖暗殺
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皮膚の病、心臓の病 1928年までに、KMTは中国のほぼ全土をコントロール下においた。ところが、これは各地方軍閥との弱い同盟関係にすぎず、1930年までに山西(閻錫山)、広西(李宗仁)、国民軍(馮玉祥)が反KMTで同盟、11月には200万人の兵士が中国中央部で激突した。後に中原大戦 (Central Plains War) と呼ばれるこの大戦争は6ヶ月続き、双方に300,000名の損害を出した。 KMTは中原大戦に勝利したものの、軍事力はいちじるしく低下した。 上海クーデターで多数のCCP幹部が逮捕、殺害された中で、周恩来は脱出に成功していた。毛沢東は江西省での反撃に失敗したが生き延びた。その後、CCPが勢力を伸ばすことができたのは、KMTが軍閥から嫌われていたこと、日本が侵攻したことによるものだった。蒋介石はしばしば、第一の敵は皮膚の病(日本軍)よりも心臓の病(CCP)である、と周囲に語っていた。 原文: S&T#259 "A disease of the skin and of the heart" |
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S&T#259に関連記事「"中国事変" 1937 - 41: 戦略的分析」があります。 |