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皮膚の病、心臓の病: 1916 - 28、中国再統合の戦争

中国の内戦のはじまり(1916~)は、日清戦争(1894)と義和団の乱(1900)に遠因を求めることができる。いずれも、清朝が西欧諸国の侵入者に敗れた争いだった。
清朝政府のこの二つの敗退は、政府の政治的正当性を弱めたと同時に、清朝が西欧から軍事アドバイザーを導入し、先進国に軍事研修団を派遣するきっかけになった。皮肉なことに、西欧文化の洗礼を受けた清朝の将校達は、急進的な反政府思想を本国に持ち帰った。

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北洋軍

北洋軍司令官・袁世凱
当時の清朝政府が持つ最強の軍事組織は500,000名の兵を擁する北洋軍であり、それは陸軍であると同時に海軍でもあった。李鴻章の淮軍を改編して生まれた北洋軍は、西洋式の新しい軍隊のはずだったが、清朝のすべての軍事組織にみられた特徴の如く、北京政府よりも直属の上官に忠実な組織だった。清朝が日清戦争で敗れた原因のひとつは、清朝の他の軍隊が北洋軍に戦闘支援をしなかったことである。

日清戦争に破れた後も、清朝政府は北洋軍を軍の中核とみなし近代化を図ったが、それは大きな間違いだった。1911年に辛亥革命が勃発した時、北洋軍は政府を守らず、清朝は滅亡した。

その後の1912年からの5年間は、北洋軍司令官・ストロングマン・袁世凱が対抗する勢力を抑圧し、権力を掌握した期間である。彼の目的は新国家"中華帝国"の樹立と初代皇帝への就任だった。しかしながら、その野望は本人が肝臓病で死亡することによって絶たれ、1916年に北洋軍は複数の軍閥に分かれた。

安徽派の誕生と没落
ほとんどの軍閥は、1920年までに段祺瑞の安徽派(Anhui)と同盟を組んだ。短期間であったが中国の大半をコントロールした安徽派は、日本から借款を得たために傀儡とみなされ、支持が低下した。1920年7月になると、安徽派に対する反乱が起きた。
すなわち、直隷派(Zhili)と奉天派(Fengtian)が同盟を組み、北京を占領すべく数千の兵士を動員したのである。それに対し、安徽派数千名と日本兵数百名が先制攻撃を仕掛け、それが5日間におよぶ安直戦争(Zhili–Anhui War)のはじまりとなった。河北省の直隷派はいったんは撤退したが、北京が直隷派と奉天派の挟撃にあい、安徽派は壊滅、段祺瑞は天津の日本租界に逃亡した。

第一次奉直戦争
直隷派と奉天派の連合政権は長くは続かなかった。新たに日本の支援を受けた奉天派と英米の支援を受けた直隷派との間で、1922年4月に戦争がはじまった。後に第一次奉直戦争 (The First Zhili–Fengtian War) と呼ばれるこの戦争で、奉天派はよく装備された100,000名の兵力によって北京近郊の直隷派を攻撃、しかしながら直隷派の総司令官・呉佩孚の待ち伏せが奉天派の突出部分を叩き、奉天派に70,000名の損害を出す。直隷派の損害は数千名だった。
イギリスの仲介で停戦となると、奉天派は満州に逃れ軍を再編成する。奉天派総司令官・張作霖が日本の支援によって満州を実質支配する一方で、中国南部ではKMT(国民党)の孫文が権力を掌握した。1923年にはソビエトが軍事顧問をKMTに送り、その後の連ソ容共政策のはじまりとなった。

d呉佩孚 (Wu Peifu)
1874年、山東省に生まれた彼は北洋軍の職業軍人であり、その統率力によって昇進した。清朝の崩壊後に直隷派司令官・曹錕の右腕となり、派閥内では"影の権力者"と呼ばれた。1920〜22年、直隷派は呉の指揮によって安徽派と奉天派に勝利、"翡翠元帥"のニックネームがつけられ、中国一の戦略家と評された。しかし1924年の第二次奉直戦争では、馮玉祥の裏切りによって大敗した。弱体化した呉の軍隊は1927年の北伐でKMTに敗れ、1939年に日本への協力を拒んだ後に不可思議な死を遂げた。愛国主義者で知られていたが、自室にジョージワシントンの肖像画を飾っていた。
d張作霖 (Zhang Zuolin)
"奉天の虎"として知られる張作霖は、1875年に遼寧で生まれた。日露戦争(1904-05)で日本軍の傭兵として戦った経験が1920年に実を結び、日本の支援によって張作霖は奉天派の総司令官になった。日本からの借款によって、満州は中国で一番豊かな地域となったが、数々の戦争と経済政策の失敗により、その経済は1926年に破綻する。KMTが奉天派に勝利した1928年、張作霖の乗る列車が爆破され、暗殺されたのだった。
d張宗昌 (Zhang Zong Chiang)
"狗肉将軍"と呼ばれた張宗昌は、もっとも腐敗し野蛮な軍閥として知られる。1881年山東生まれの彼の経歴は、はじめから盗賊であり、その剛勇さによって奉天派の指揮官になった。張宗昌は、賭博・犬の肉・女に目がなく、あらゆる地域から集めた数十人の妾を持っていたが、名前を覚えられないという理由から番号で呼んだ。張の軍隊もまた残忍で、支配した地域は略奪を受けた。彼はまた、「三つの"知らない"将軍」と呼ばれ、1) いくら財産かあるか、2) 何人妾を持っているか、3) 何人の兵士を擁しているか、を知らないとされた。1928年、張はKMTに敗れると日本に亡命した。1932年、かつて敵対した犠牲者から殺害された。
d孫傳芳 (Sun Chuanfang)
"南京将軍"と呼ばれた彼は1885年山東省生まれ、北洋軍の将校だった。清朝の崩壊とともに直隷派に加わり、1923年に福建省の司令官を務めた。1925年までに安徽、江蘇、浙江も傘下におさめると、直隷派を呉佩孚とともに二分する勢力になった。1927年にKMTに敗れると、日本の支配下にあった大連に亡命、1935年に天津で暗殺される。
d馮玉祥 (Feng Yuxiang)
1882年生まれ。北洋軍の将校だった馮は、孫傳芳と同じく清朝の崩壊とともに直隷派に加わった。1925年、彼は自軍を"国民軍"として独立させ、KMTと同盟した。1930年になると蒋介石に反逆して中原大戦をおこして敗退、1933年、察哈爾(チャハル)民衆抗日同盟軍の司令官として返り咲く。日本軍と満州軍をチャハルから追い出すが、日本軍とKMTの連合軍に壊滅される。1935年からの十年間はKMTを支持、要職を務める。彼は1918年にソビエトで死亡した。"クリスチャン・ジェネラル"として知られた馮は、キリスト教と社会主義を混ぜた独自の説教を行い、部下に聖書の携帯を求めた。部隊全体に洗礼を受けさたことでも有名。
d蒋介石 (Chiang Kai Shek)
1887年浙江生まれ。清朝へのクーデターに加担した蒋介石はKMTの創設メンバーのひとりであり、1925年の孫文の死後、最高司令官になった。KMT内の共産主義者を粛正した彼はドイツとの関係を深め、1928年までに中国のほとんどを支配した。1928年から地方軍閥、CCP、日本軍と戦い、1949年に台湾に逃れる。1975年に死亡するまで蒋介石は台湾の最高指導者だった。

直隷派単独政権から奉天派の復活
1924年までに、直隷派は北京を含む中国大陸の北部を支配し、米英はこれを正式な中国とみなした(中国統一支持声明)。満州では張作霖が軍事力を増強しながら補給システムを再構築、彼はまた海軍と空軍を拡張した。
単独政権となった直隷派が上海を占領すべく兵力を南部に集中すると、奉天派はこれをチャンスとみなした。奉天派の計画は、北京と天津を占領することで直隷派の政治力を落とし、壊滅させることだった。

1924年9月15日から18日間、300,000名のよく訓練され十分な砲兵支援を持つ奉天派軍が、十分な計画に基づいてこのふたつの都市への攻略を開始した(第二次奉直戦争)。しかしながら、北京まで間近に迫ったところで直隷派軍の激しい抵抗にあった。10月13日になると南部から直隷派軍が前線に戻り、奉天派軍の進撃は完全に止まった。

戦争が膠着状態に陥ったと思われた10月22日、直隷派第三軍総司令の馮玉祥がクーデターをおこし、直隷派総司令官・曹錕を逮捕した(北京政変)。呉佩孚は北京を再占領するため前線から兵を引き抜かねばならず、11月3日までに直隷派軍は前線のコントロールをほとんど失った。第二次奉直戦争は奉天派が勝利したが、戦争の規模は第一次奉直戦争よりも大きく、双方に50,000名の損害が出た。

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軍閥政府軍

反奉戦争
1925年の中国は、次の4つの軍閥が最大勢力であった。

  • 奉天派(張作霖)=満州と中国北部・北京
  • 直隷派(段祺瑞、呉佩孚、孫傳芳)=中国中部
  • 国民軍(馮玉祥)=中国西北部
  • KMT(汪兆銘、蒋介石)=中国南部

この年の終り、国民軍司令官・馮玉祥は北京に大胆な攻撃を仕掛けた。第三次奉直戦争とも呼ばれるこの戦争は、1925年11月から半年続き、北伐以前に行われた中国内戦では最大級の戦いとなった。第一次大戦型の消耗戦によって奉天派との間には数千の損害が出たが、この短い期間、国民軍は北京を支配した。
第三次奉直戦争の勝負を決めたのは呉佩孚の参戦だった。戦線が膠着した時、かねてから復讐の機会を求めていた呉佩孚の直隷派が奉天派と同盟したのである(馮玉祥の裏切りがなければ、呉佩孚は第二次奉直戦争で負けることはなかった)。数十万の直隷派兵が戦場のバランスを替え、国民軍はさらに数千名の損害を出して北京から撤退した。
この戦争で奉直両派は300,000名の損害を出し、それは中国全体における軍事バランスを変えた。さらに、両軍が北京に主力を引き付けていたことは、彼らにとって大きな間違いだった。

国民軍と奉天派軍の戦争は、KMTに十分な軍事増強のための時間を与えていた。1925年に孫文が死亡して以来、KMTの最高司令官・蒋介石は中国南部の軍閥のほとんどを味方につけ、政治基盤を強固なものにしていた。KMTはソビエトの軍事支援によってNRA(国民革命軍)を近代化、30,000名だった軍隊を戦車を装備した300,000名の部隊にしていた。CCP(中国共産党)と共同戦線ができた時(第一次国共合作)、KMTは"北伐"の準備が整ったのだった。

編成と人材

軍閥時代の中国の軍隊の内容は、編成によって大きく異なる。メジャーな軍閥は、日本、フランス、ソビエト、ドイツに支援された結果、よく組織化されていた軍を持っていたが、多くの場合、軍とは無法者と盗賊の集まりだった。
1912〜33年の間、中国全土で約700の紛争がおきた。そのほとんどは新聞でも報道されない数百名から数千名の規模の戦いである。十万人規模の大きな戦争では、記録上、軍閥はそれだけの兵士を動員したことになっていても、実際は少数のエリート兵士を核にした貧弱な武装と統制のない民兵の集まりだった。

d軍閥の軍隊の補給と移動システムは、まったくないか最低のレベルのものだった。兵士は徒歩で移動し、食料は現地農民から徴収した。武器弾薬の再補給は"気まぐれ"であり、捕獲した敵の軍需品を用いるのが普通だった。糧食や軍需品であるべき補給物資はしばしば金であり、それは兵士をつなぎ止めておくためのものだった。

兵士の質はピンキリだった。主義や愛国心から戦う者よりも、略奪と生存のために兵士になった者が多かった。中国の経済は崩壊しており、常に募集されている"仕事"は兵士しかなかった。徴兵はかならずしも自主的なものでなく、未成年や年長者は強制的に軍に編入された。

中国社会で兵士は"悪い鉄"と呼ばれ、最低の階級とみなされていた。それは兵士がレイプ、殺人、略奪を行うからであり、多くの場合、犯罪は上官ぐるみだった。兵士は使い捨ての人材で、報酬は価値のない地方紙幣か、麻薬、武器弾薬で支払われた。

記録されている人的損害は、おおくの場合、降伏した兵士の数である。忠誠心のない彼らは、局面が不利になると簡単に降伏した。戦いに勝った側が負けた側の兵士を吸収することが当たり前だった。

参考リンク「台湾監獄島・好鉄不打釘、好人不当兵

北伐 (the Northern Expedition)
北京政府と各地軍閥に一大攻勢を仕掛けることは、KMTにおいて孫文の時からの一貫した目標だった。目的は各地軍閥の完全な除去とKMTによる国家統一である。当初1924年に予定されていた北伐はKMTの内紛によって延期になっていた。1926年の時点でNRAの兵員数はけして多いものではなかったが、装備と錬度において各軍閥のそれを優っていた。中国の一般大衆は、軍閥よりもKMTの行政を望むと考えられていた。

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NRA騎兵

北伐は、1926年6月2日、直隷派の唐生智(湖南省)がKMTに寝返ったことからはじまった。KMTは8月までに100,000名の兵士を湖南省に送り、隣の湖北省まで侵入、武漢を脅かす位置まで兵を進めた。直隷派がこれを止めることができなかったのは、兵力を国民軍との戦いに集中していたからであり、CCPによって湖南省への増援が妨害されたからだった。CCPは鉄道と通信網の破壊を行うことで直隷派の移動を妨害していた。

8月29日武漢近郊で、呉佩孚は自らの指揮によってNRAに正面攻撃を仕掛けた。呉軍の攻撃は、NRAのよく訓練されたライフル射撃と砲撃によって阻まれ、呉佩孚側に10,000名の損害を出す結果になった。呉軍にとっては大きすぎる犠牲であり、彼は兵を撤退させるとダム、堤防を壊してNRAの進撃を妨害した。
絶望的な状況の中、呉佩孚はライバルの孫傳芳に援軍を求めた。孫傳芳自身が上海でNRAを迎撃しなけばならなかったため、当初、孫は援軍をためらっていたが、10月3日、彼は江西省南昌に200,000名を送った。南昌に着くと、孫はKMT支持者を大量に逮捕し処刑した。それから孫は武漢に向けて進撃したが、NRAの防衛線に一時的に阻止された。10月10日に武漢はNRAの手に落ち、呉佩孚の政治生命は終わった。呉佩孚の残党は北部に逃れ、奉天派に合流したのである。

10月後半から11月にかけて、NRAと孫は南昌をめぐって流血の戦いを繰りひろげた。双方のリーダーが直接指揮をとり、シーソーゲームとなった正面攻撃によって、両軍に十万人規模の損害が出た。NRAが南昌の孫軍を孤立させる位置に移動したため孫は南昌から撤退、11月9日、NRAは南昌を占領した。南昌の陥落は孫派の政治的な壊滅となり、彼のライバル・呉佩孚と同様、孫傳芳は北部に逃れ奉天派に保護を求めた。孫派残党が大量にNRAに降伏した結果、戦闘らしい戦闘なしでNRAは上海を占領した(1927年3月)。

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NRA

NRAもまた100,000人の損害を出して疲弊していた。中国中西部を支配した時点でNRAの進撃は停止、その間、張作霖は直隷派の残党と奉天派を統合して「安国軍」を創設、自らが最高司令官になった。KMTがソビエトの軍事支援を受けていること、KMTにCCP幹部がいることから、張作霖は、KMTは共産主義者が支配するフロント組織であり、中国を共産主義から救うために安国軍への軍事支援が必要である、と西側諸国に訴えた。
実際には、KMT内部は右派と左派との対立が激しく、蒋介石は共産主義者を信用していなかった。彼は共産主義者を配下に採用せず、資本家と連携していた。

上海クーデター
1927年4月12日、蒋介石はKMT内の共産主義者の粛正を命じ、その後数ヶ月間で数千名の共産主義指導者と支持者を殺害した。この粛正によって、上海の目抜き通りは血に染まったという。KMTはまたソビエト人の軍事顧問を追放し、ドイツと軍事提携した。地方軍閥の多くはKMTを支持、KMTと同盟する軍閥が増えた。

クーデターによって壊滅的な打撃を受けたCCPは国民軍との同盟を模索したが、馮玉祥がKMTと同盟したため不成立に終わった。CCPはKMTの支配する武漢と南昌を攻撃するが、これも撃退された。

張作霖の安国軍は、1927年4月から進撃を開始した。南京と上海を脅かす位置まで到達した彼らは、海軍を持たなかっため揚子江北岸で停止した。これはKMTに十分な時間を与えた。
1927年後半から28年にかけての安国軍の揚子江攻撃は失敗に終わり、大きな損害を出した。1928年4月、4つの軍団に別れた200万人のNRAが安国軍を壊滅させ、彼らは満州に逃れた。

張作霖暗殺
軍事的に強大となり、統一が進むKMT中国を見た日本は、自らが飼いならしたつもりの張作霖に疑問を持ち始めた。彼らは列車を爆破し、張作霖を殺害した。日本は、アヘン中毒者でありプレイボーイの張学良の方が操作しやすいと考えたが、それは間違っていた。張学良はKMTと同盟し、満州はKMTの支配下になったのである。

 

d毛沢東(Mao Zedong)
1893年、湖南省の小作農の家庭に生まれる。ロシア革命の影響を受け18才で共産党に入党、1920年代は労働組合の結成と武装蜂起に明け暮れるが、政府に弾圧され長沙に逃れた。上海クーデターの時は農民兵を組織、自ら率いて江西省で武装蜂起するが壊滅(秋収起義)、湖南省と江西省の境にある井崗山に立てこもった。KMTに逮捕され、処刑された共産党幹部の汪寿華、陳延年、趙世炎らと比較するなら、毛沢東は幸運だった。

d周恩来 (Zhou Enlai)
1898年、江蘇省の官僚地主の家に生まれた彼は、東莞模範学校で高い教育を受け、奨学金を得て日本とフランスに留学する。第一次国共合作が成立した1924年、中国共産党フランス支部のメンバーとして帰国、孫文が創立した士官学校の副校長に就任した。1926年の上海クーデターでKMTに逮捕された時は、かつての士官学校学生の助けで身元が割れることなく上海を脱出する。南昌蜂起で反撃に転じるが、NRAの包囲攻撃を受けて敗走した。写真はNRA将校だった時の周恩来。

皮膚の病、心臓の病
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1916~28年の軍閥時代は流血の時代だった。12年間の軍事衝突によって、数百万人の兵士と民間人が死傷したが、その後の中国の歴史はさらに悲惨なものだった。

1928年までに、KMTは中国のほぼ全土をコントロール下においた。ところが、これは各地方軍閥との弱い同盟関係にすぎず、1930年までに山西(閻錫山)、広西(李宗仁)、国民軍(馮玉祥)が反KMTで同盟、11月には200万人の兵士が中国中央部で激突した。後に中原大戦 (Central Plains War) と呼ばれるこの大戦争は6ヶ月続き、双方に300,000名の損害を出した。

KMTは中原大戦に勝利したものの、軍事力はいちじるしく低下した。
日本は、統一した中国を自国への脅威とみなし、KMT内部の反蒋介石派を支援したが、蒋介石を失脚させるに至らなかった。日本はより直接的な手段に訴えた。1931年9月の満州事変、1932年2月の上海事変によってKMTを攻撃したのである。そしてこれらはみな、1937年から45年までの日中戦争のプレリュードにすぎなかった。

上海クーデターで多数のCCP幹部が逮捕、殺害された中で、周恩来は脱出に成功していた。毛沢東は江西省での反撃に失敗したが生き延びた。その後、CCPが勢力を伸ばすことができたのは、KMTが軍閥から嫌われていたこと、日本が侵攻したことによるものだった。蒋介石はしばしば、第一の敵は皮膚の病(日本軍)よりも心臓の病(CCP)である、と周囲に語っていた。

原文: S&T#259 "A disease of the skin and of the heart"

S&T#259に関連記事「"中国事変" 1937 - 41: 戦略的分析」があります。