(この記事はS&T#245の続編です)
1940年6月21日、ドイツ機甲部隊がパリに侵入するとフランスは降伏した。フランスの敗北は終わりのない議論を生んでいるが、原因はリーダーシップ、トレーニング、コミュニケーション、エアパワーの欠陥ないし欠如に要約できる。
リーダーシップ
1940年当時、双方のリーダーシップの質に大きな違いがあったことは疑いの余地がない。それは個々の兵士のトレーニングおよび双方の軍事ドクトリンに影響した。
フランス軍が採用した"bataille conduite"ドクトリンは中央の指揮統制を強調したものであり、上級司令官は前線から離れた場所に位置した。理論的には司令官は後方の司令部から、より有効な統御を行えるはずだった。フランスがこのような指揮系統を採用した理由は、兵士の大半が予備役だったからだった。彼らは独立した作戦を行うだけの教練を受けていなかった。しかしこの指揮組織は、予見できない状況や流動的な戦場には不向きであった。
ドイツ軍将校は"Auftragstaktik" - 任務単位の戦術 - で思考するよう教えられていた。上級司令部は全体的な方針を与え、将校とNCO(下級指揮官)が方針を遂行するためのイニチアチブを持った。命令で示されるのは最終的に達成する状態であり、とりうるべき戦術ではなかった。
フランス軍のドクトリンは敵側に対する継続的な攻勢と新規の敵側防衛ラインの阻止を前提としており、すべてはスケジュール通りにおきなければならなかった。
それに対しドイツ軍歩兵は戦闘中の計画変更に対応でき、最終目標を達成するためのイニシアチブを持つことができた。それゆえ、前線から指揮が行われた。
ドイツ軍のリーダーシップには二つの主要な欠点があった。ひとつは、将校とNCOが前線で指揮をとったため、指揮官の損耗の危険が大きかったこと。グーデリアンはセダンの戦闘で受けた砲撃で死にかかった。第一装甲師団装甲旅団の司令官は味方の空爆で死亡している。ロンメルがディナンの攻勢を指揮した時、彼の乗った三号戦車は対戦車砲の被弾を受けた。
一方、セダンのムーズ戦線におけるフランス軍大隊および連隊司令官の死亡者はゼロだった。彼らは前線のはるか後方で指揮していたからである。
第二の欠点は、採るべき戦術について、二人の指揮官に不一致が発生する可能性である。グーデリアンは一時的だが更迭され、司令官が命令に従わない場合もあった。皮肉なことに、ヒトラーが後にマイクロ・マネイジメントを行うようになると、フランス戦線のような電撃作戦の成功はみられなくなった。 |