ガレー船の戦い
当時の海戦の主力は「Trireme」と呼ばれるガレー船だった。「Trireme」の呼称は櫂の漕ぎ手が三層であったことに由来する。
船には貯蔵庫や居住スペースはなく、甲板は歩兵戦のために平らになっていた。乗組員は約170名の漕ぎ手と10〜14名の戦闘員、これに指揮官その他20名がすべてだった。
Triremeの攻撃力は船首の衝角と、船上の歩兵からの投石、投槍、弓矢であり、敵の船の速度が落ちると、乗り込んで白兵戦を行った。船の最大速度は時速25kmだが、時速9〜15kmで数時間巡航するのが普通だった。
当時の船はタールによる防水加工が行われていなかったので浸水があり、長距離の航海には不向きだった。メムノンが島づたいに移動しなければならなかった理由もそこにあった。Triremeは可能な限り乾かすものであり、夜になる前に接岸して船を水揚げした。冬季は乗組員を解散して給料を節約し、船を乾燥させた。
ペルシャ軍はギリシャ軍より大きなガレー船を持っていたが、ほとんどの場合、ペルシャ軍は勝つことができなかった。ガレー船の構造と構成の違いが、勝負の主たる原因だった。
ギリシャ軍の戦法は船首の衝角で敵の船にぶつかることであり、漕艇術とドクトリンは度重なる戦争で磨かれていた。ギリシャ都市のほとんどは常備艦隊を持ち、6〜10隻の編隊で訓練した。
ペルシャ帝国は常備艦隊を持たず、個々の軍艦は裕福な商人のスポンサーによって維持されていた。軍艦の目的は海賊の撃退であり、敵船に伴走しながら、投槍や投石で敵船の漕ぎ手を負傷させ、乗っ取るのが彼らの海戦だった。
個々の戦艦の性能では、ギリシャ軍よりペルシャ軍の方が優れていた。ペルシャ軍の方が速度が速く、幅広の船幅は、広いプラットフォームを船上の戦士に提供した。
ほとんどのギリシャ軍艦は編隊による漕艇の訓練を受けていたが、ペルシャ軍側は終結地点で合流するのが最初の船団の出会いであり、それゆえ単純な攻撃法しか行えなかった。ギリシャ軍は全員共通の言語-ギリシャ語-を話せたが、ペルシャ軍はフェニキア、旧ギリシャ、エジプトからの寄せ集めだった。ペルシャ海軍は広い公海での戦闘に慣れていたが、ギリシャ軍との戦いは島々に囲まれた狭い海域で行われた。
復元されたTrireme
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