19世紀のベトナム戦争とスペイン 1859〜62年
スペインは19世紀の半ばまでに、世界の覇権競争の舞台から姿を消していた。原因は現地革命によるラテンアメリカ植民地の喪失、1808年のナポレオンのスペイン侵攻、1833〜40年の王家分裂(カルリスタ戦争)などである。
しかしながら、1848年頃から、スペインは英仏と連携することで、世界権益の一端を握る道を模索していた。スペインの歴史ではこの期間を「小スペイン帝国の時代」と称している。この時期にスペインが介入した国際紛争は英西仏のベラクルス上陸(メキシコ、1862)、第一次リーフ戦争(モロッコ、1859-60)、海岸戦争(チンチャ諸島、チリとペルー、1863)である。その結果、一時的であったが、サントドミンゴ(現在のドミニカ共和国)はスペイン領に回復した(1861-65)。これらの国際紛争と平行して、スペインは、フランスのコーチシナ(南ベトナム)の植民地化にも軍事支援を行っていた。
コーチシナ
1856年のベトナム・アンナン政府によるキリスト改宗者や宣教師への弾圧は、フランス皇帝ナポレオン三世に介入の口実を与え、彼は懲罰部隊を乗せたフランス海軍をベトナムに送った。翌年7月、スペイン人司教Jose
M. Diazの首が切り落とされると、スペイン政府はフィリピンに駐留するスペイン軍をベトナムに派兵する決定をした。
スペインの派兵目的は外交における影響力を高めることだったが、フランス政府はメコンデルタを中心とする植民地を作ることを目標としていた。
スペインとフランスは、1857年12月までにコーチシナへの軍事介入計画を完成させた。スペインは、フィリピンに駐在する2,000名の兵士を動員する。西仏軍はフランス人提督の指揮下にあり、この提督はユエのアンナン政府に、宣教師やキリスト教信者への犯罪を禁止する勅令を発布するよう求めた。
二国混成軍を乗せた軍艦は翌年8月31日にアンナン海岸沖に現れた。最初の攻撃目標はユエであり、そのためにダナンに上陸したが、海岸部より先に進むことができなかった。計画は変更され、1859年2月17日、ダナンを占領したまま、残存部隊がサイゴンを攻撃し陥落させた。サイゴンでは100丁の旧式の火器と一年以上篭城できる食料を獲得、フランス軍の増援が到着するまでの約半年間、800名のフランス軍と100名のスペイン軍でサイゴンを守備した。スペイン軍の大半は、政治的判断からフランス側から撤退を求められ、途中でフィリピンに帰っていた。
結末
戦争を決定づけたのは1862年3月23日のVin Lonの戦いで、これに勝利したフランス軍はサイゴンから北部アンナンまでの地域を獲得した。4月14日、アンナン政府との講和条約によって同地域は正式にフランスに割譲され、ナポレオン三世はその後一世紀の間フランスに富をもらたす植民地を得た。この戦いでスペイン国家が得たものは、一時的な海上覇権だけだった。
参考リンク: Cafe
Saigon フランスによる植民地化 |