SEALORDS
on the Mekong Delta
#243 June 2007

SEALORDS: メコンデルタの統合戦

河川、運河、沼地で構成されたメコンデルタは、南ベトナムの人口の40%が居住する肥沃な田園地帯であり、南北いずれの陣営にとっても要所だった。
メコンデルタには無数のVC(ベトコン)が住んでおり、ベトナム戦争がはじまる前からVC/NVAの強力な拠点が作られていた。彼らは連隊・大隊規模で自由に移動ができ、この地域の河川はNVAの浸透路でもあった。
そして、舟艇・兵士・空中支援による合同作戦「オペレーションSEALORDS」は、他の地域では達成できなかった決定的な勝利をアメリカ軍にもたらした。

ASW (Anti Submarine Warfare) とSEALORDS
メコンデルタの戦闘において、アメリカ軍は第二次大戦中のASW(対潜水艦戦)の成功から教訓を得ていた。
ASWは大規模な部隊による攻撃を必要としない。ASWは空と海の統合作戦であり、策敵がもっとも重要である。ASWは、戦略および作戦レベルの空中からの偵察と、パトロールボートによる戦術レベルの策敵で敵の存在を発見し叩く。
ASWでは、アグレッシブに敵を探して攻撃しない。その代わり、敵側を反生産的な状況に置く。敵側が増援できる数を上回る潜水艦を沈めることができるなら、それによるベテラン兵の喪失を含めて、ASWは成功である。その結果、敵潜水艦隊は、同じ戦果を維持するためには、よりアグレッシブに船舶を攻撃しなければならず、それは個々の潜水艦の姿をより多くさらすことになり、それはさらなる潜水艦の喪失につながる。

ワシントンの態度

メコンデルタの重要性を知りながらも、ワシントンとサイゴンは同地域の軍事作戦に政治的な理由と軍事的な理由から消極的だった。
政治的な理由とは、圧倒的な砲爆撃を使用するアメリカ軍の作戦は民間人の犠牲を避けられず、犠牲者が多数出た場合、彼らが共産主義者を支援するという懸念だった。軍事的な理由とは、極度に機械化されたアメリカ陸軍がデルタ地帯の軍事行動に向いていなかった事であった。

さらに中国が軍事介入することを恐れたワシントンは、北ベトナムに対して思い切った政策をとれなかった。
その結果、海軍は北ベトナムの港の封鎖ができず、陸軍はラオス、カンボジア領内での軍事行動を禁止された。1970〜72年にかけてこれらの規制は緩和されたものの、結局、メコンデルタには、これらのルートからVC/NVAの物資や人員が流れ続けた。
アメリカ軍はメコンデルタで戦わなければならなかったのである。

Elmo Zumwalt (エルモ・ズムウォルト)
オペレーションSEALORDSの背後にいた人物は、USNAVFORV司令官(1968-70)、Elmo Zumwalt提督だった。1942年にAnnapolisのアメリカ海軍アカデミーを卒業した彼は、太平洋戦線と朝鮮戦争に従軍、その後は巡洋駆逐小艦隊の司令官、海軍分析センターの科学士副官を担当した。

SEALORDS作戦の成功によって1970年から二期、アメリカ海軍作戦部長(Chief of Naval Operations)を務め、49歳で史上最年少の4つ星提督になった。彼はまた、「Z-grams」と呼ばれる政策メモで指令を発し、その内容は部隊点検から人種差別の撤廃まで多岐におよんだ。不必要な規則を撤廃したことでも人気が高い。ソビエトの海軍力の増大に対抗するためのアメリカ海軍の近代化にも貢献した。

ベトナム戦争において、Zmwaltは枯れ葉剤散布作戦を指揮した。1988年に息子を癌で亡くしているが原因は枯れ葉剤とされている。Zumwaltの息子もまた軍人で、SEALORDS作戦でスウィフト・ボートに乗っていた。


For Your Information

19世紀のベトナム戦争とスペイン 1859〜62年
スペインは19世紀の半ばまでに、世界の覇権競争の舞台から姿を消していた。原因は現地革命によるラテンアメリカ植民地の喪失、1808年のナポレオンのスペイン侵攻、1833〜40年の王家分裂(カルリスタ戦争)などである。

しかしながら、1848年頃から、スペインは英仏と連携することで、世界権益の一端を握る道を模索していた。スペインの歴史ではこの期間を「小スペイン帝国の時代」と称している。この時期にスペインが介入した国際紛争は英西仏のベラクルス上陸(メキシコ、1862)、第一次リーフ戦争(モロッコ、1859-60)、海岸戦争(チンチャ諸島、チリとペルー、1863)である。その結果、一時的であったが、サントドミンゴ(現在のドミニカ共和国)はスペイン領に回復した(1861-65)。これらの国際紛争と平行して、スペインは、フランスのコーチシナ(南ベトナム)の植民地化にも軍事支援を行っていた。

コーチシナ
1856年のベトナム・アンナン政府によるキリスト改宗者や宣教師への弾圧は、フランス皇帝ナポレオン三世に介入の口実を与え、彼は懲罰部隊を乗せたフランス海軍をベトナムに送った。翌年7月、スペイン人司教Jose M. Diazの首が切り落とされると、スペイン政府はフィリピンに駐留するスペイン軍をベトナムに派兵する決定をした。

スペインの派兵目的は外交における影響力を高めることだったが、フランス政府はメコンデルタを中心とする植民地を作ることを目標としていた。
スペインとフランスは、1857年12月までにコーチシナへの軍事介入計画を完成させた。スペインは、フィリピンに駐在する2,000名の兵士を動員する。西仏軍はフランス人提督の指揮下にあり、この提督はユエのアンナン政府に、宣教師やキリスト教信者への犯罪を禁止する勅令を発布するよう求めた。

二国混成軍を乗せた軍艦は翌年8月31日にアンナン海岸沖に現れた。最初の攻撃目標はユエであり、そのためにダナンに上陸したが、海岸部より先に進むことができなかった。計画は変更され、1859年2月17日、ダナンを占領したまま、残存部隊がサイゴンを攻撃し陥落させた。サイゴンでは100丁の旧式の火器と一年以上篭城できる食料を獲得、フランス軍の増援が到着するまでの約半年間、800名のフランス軍と100名のスペイン軍でサイゴンを守備した。スペイン軍の大半は、政治的判断からフランス側から撤退を求められ、途中でフィリピンに帰っていた。

結末
戦争を決定づけたのは1862年3月23日のVin Lonの戦いで、これに勝利したフランス軍はサイゴンから北部アンナンまでの地域を獲得した。4月14日、アンナン政府との講和条約によって同地域は正式にフランスに割譲され、ナポレオン三世はその後一世紀の間フランスに富をもらたす植民地を得た。この戦いでスペイン国家が得たものは、一時的な海上覇権だけだった。

参考リンク: Cafe Saigon フランスによる植民地化

1990年8月2日、イラクがKuwaitに侵攻した時、Saddam Husseinの軍隊は606人のKuwait兵を捕虜にした。その年、砂漠の嵐作戦でKuwaitが開放された時、1名を除いて捕虜はすべて処刑されていた。 東部戦線において、1942年6月28日から1943年2月2日の間に10,000余名のソビエト兵がNKVDもしくは所属する部隊によって処刑されている。一日当たり45名が処刑されていた計算になる。
Schellenberg 1704: スペイン継承戦争へようこそ

ナポレオンの偉業によって忘れられがちだが、それより一世紀前、フランスはルイ14世(1638-1715)の絶対王政の下、約60年のあいだ超大国としてヨーロッパに君臨していた。大コンデ公、テュレンヌ、 Luxenburgの大公らに率いられたフランス軍が最強だったこの期間は、国民国家が誕生する前の啓蒙の時代だった。

スペイン継承戦争(1702-13)は、ルイ14世時代の最後で最大の戦争であり、John Churchill、Marlborough、Savoy公などの名将が登場する。

シーザーの対反乱戦

紀元前58年、ジュリアス・シーザーとローマ帝国が、Gaul(現在のベルギーとフランス)に侵入した時、現地の民族の激しい抵抗を受けた。シーザーは、ローマに友好的な種族をHelvetii族から守る名目でGaulに侵攻したが、時間が経つにつれ、ローマ軍は占領を目的としていることがあきらかになった。ローマ軍は数において劣勢だったが、シーザーは戦術的優位を作ることができた。

シーザーが優れていたのは攻撃時のスピードであり、敵が反応するより早く軍隊を動かし、戦場に集中させた。この結果、数において勝る敵が準備を整える前に戦うことができ、さらに敵部族が他の部族と連携することを困難にさせた。

シーザーにとって「スピード」は戦闘力を何倍にもするパワーだった。もちろん、迅速な進撃によって長くなった補給路は進撃を遅らせ、天候もまたスピードを損ねる原因となる。さらに、勝利した地域の占領はローマ軍を分散して配置することを求められ、これもまたスピードと兵力集中を阻害する原因となった。これらの要因にもかかわらず、シーザーは8年でGaulを平定した。

過去のS&T
50号前#193
The Crimean War

ビクトリア王朝時代の戦争をJoseph MirandaがThe Crimean Warとしてゲーム化。多大の犠牲を出したLight Brigadeの突撃で有名な1854〜56年の戦いとTim Kuttaの分析記事。ナイルの戦いをColey Cowan、ナポレオンの戦略手腕をAnthony Howarth、Tim Kuttaによる1964〜65年のコンゴ革命の悲劇と茶番、ハッピーエンド。

100号前#143
Rio Grande

Richard BergとDave Arnesonによる南北戦争のニューメキシコ戦役。Steve Frattによるフランスの軍人インテリArdant du Picq、Dani Shanskeのハプスブルグ家の軍事陰謀家Montecuccoli、R. E. Bellによる軽歩兵の記事。

150号前#93
American Civil War

南北戦争の戦略級ゲームが最初にS&Tに登場したのは43号である。誌上二度目の戦略級はShelley、Reiser、Ritchie、Lewisらのデザイン。Richard Bergが特集記事とゲームレビュー、その他MOVES誌のコーナーなど。
200号前#43
American Civil War

Jim DunniganとRedmond Simonsenによる南北戦争の戦略級ゲーム。Al Nofiの特集記事、Frank DavisとR. Toelkeが"Soldier Kings"の記事でgunpowder時代の新解釈、Sid SacksonがOutdoor Survivalのレビュー。

付録ゲーム

243号のゲームは「SEALORDS」。北ベトナムプレイヤーはデルタ地域への浸透と補給をめざし、アメリカ軍はこれを阻止する。ユニットは陸・海・空の種類があり、Joseph Mirandaがデザイナー。

〇ゲームレビューはこちら--->

次号予告

特大マップで「Drive on Moscow」。1941年のドイツ軍のモスクワ侵攻を描く。
その他、アフガニスタンのアレキサンダー大王、ドイツ空軍のニューヨーク爆撃、アルカイダを撃退したエチオピア、などの記事。

読者が選んだ2006年のベストゲーム

S&T#240号で応募した「読者が選んだ2006年のS&Tベストゲーム」は、239号の「Operation Windged Horse」でした。ベスト記事は234号「Last Darkness Fall: Rome in Crisis, AD235-285」。

リメイク「Luftwaffe」

Avalon Hillの「Luftwaffe」をDecision Games社がリメイク中。ユニットの戦闘序列はオリジナル版と同じだが、ドイツ軍はジェット機も選べるという。
ターゲットには新たに発電所が加わり、旧バージョンではアメリカ軍はすべてのターゲットを爆撃しなければならなかったが、勝利ポイントを導入した結果、5つの目標のうち4つを爆撃することに変わった。夏発売で44ドル。