Persing Pursues Pancho Villa
#242 April 2007

 


パーシングの追撃: 1916-17 メキシコ遠征

John Joseph Pershing旅団長の任務は、Pancho Villa(パンチョ・ビリャ)の捕獲・殺害だった。彼の部隊はメキシコ領内600kmまで進入するが、結局Villaを取り逃がし、メキシコ政府軍と交戦、数名が死亡、24名のアメリカ兵が捕虜となった。

アメリカの新聞はメキシコとの紛争をセンセーショナルにとりあげ、両国の戦争突入は避けられないように見えた。しかし、アメリカ大統領Wilsonは、アメリカ兵捕虜の解放と引き換えにメキシコ領から軍隊を撤退させた。背景には、まじかに迫った欧州戦への参戦があった。

1917年、アメリカはドイツに宣戦布告、Persingはヨーロッパ派遣軍総司令官に任命され戦地に赴いた。メキシコ遠征と欧州戦の両方で、George S. PattonがPersingの参謀だった。


後の「第三軍」。
機械化車両の機動力を知ったPattonは、積極的なパトロールを行う。

付録ゲームのショートレビュー

ゲームの背景<my comments>

<my comments>242号の付録ゲームは、「Pershingのパンチョ・ビリャ追撃」と「Mad Anthonyのインディアン討伐」です。

「Pershing」は、第一次大戦の最中にアメリカ南部で行われていたアメリカ軍・メキシコ政府軍・メキシコ軍閥の巴戦で、チットによる移動・攻撃システムです。

ZOCによる移動停止がないため、ユニットの脇をすりぬけて簡単に敵の背後に入れます。その結果、ゲームはスピーディな機動戦の応報となるでしょう。
ビリャ側の「Division del Norte」ユニットは、マップのどこにでも登場できる信じられない部隊です。これを知らなかったアメリカ軍は瞬時に包囲されました。アメリカ軍もチットの順番によってはビリャを包囲でき、戦闘結果も納得できるものでした。

史実
Pershingの越境は事前にCarranza大統領に通告されていましたが、立派な主権侵害で、Pershing将軍は、「メキシコ軍を極力刺激しない」ようワシントンから命令されていました。
S&Tの記事によれば、Pershingは、メキシコ政府軍の拠点を迂回し、あるいは通行の許可を得たり、あるいは過少な武力で威嚇しながらビリャを追跡しなければなりませんでした。Pershingにとってビリャ軍は追うべき獲物であり、本当の脅威は、圧倒的な兵力を持つメキシコ政府軍だったようです。

メキシコ領内400キロまで潜入したPershing軍は、ビリャ軍の一部を壊滅させますが、結局、1916年6月にメキシコ軍と交戦になり、アメリカ側に12名の死者と24名の捕虜が出ます。これが原因で第二次米・メキシコ戦争勃発の危機となり、Wilson大統領とCarranza大統領の間で和平交渉が始まります。1917年1月にPershing軍はメキシコ国内から全面撤退、ビリャは逃げ切ったのでした。

Mad Anthony
一方、「Mad Anthony」は、普通に楽しめるゲームになっています。前半はインディアン側が有利で、アメリカ軍にミスが多いなら勝利ポイント30差の大勝も可能です。「Native Allies」マーカーが50枚中2枚しかないので、アメリカ軍側インディアンは絶対に登場しません。

日本語ルールはこちら

メキシコ革命
メキシコは1877年以来、30年以上にわたってPorfirio Diaz大統領の独裁下にあった。そしてアメリカは1911年から約10年間続いたメキシコ革命に直接的・間接的に関与してきた。

1910年にメキシコから亡命したIgnacio Maderoは、テキサスから反Diaz革命を呼びかけていた。革命側に四つの武装勢力、Venustiano Carranza、Francisco “Pancho” Villa、Emiliano Zapata、Victoriano Huertaが結集、メキシコ各地で蜂起するとDiaz大統領は辞任、1911年、Maderoがメキシコの大統領になる。しかし、それはどの勢力にとっても面白いことではなく、二年後にMaderoはHuerta将軍によって暗殺され、Huertaが政権を握る。Huerta政権を承認しないアメリカがVera Cruzを1914年に占領、ドイツからの武器供給を絶つと、Huertaはスペインに亡命、Carranzaが新大統領になり、アメリカ政府はCarranza政権を承認する。


Francisco “Pancho” Villa
アメリカ政府のバックアップで革命運動をしていた時の写真と思われる。

Celayaの決戦
すると、アメリカに亡命していたPancho VillaがZapataと連合して新革命軍を組織、Carranza政府と全面戦争を始める。1915年、Villa軍はCelayaの決戦において、二度と回復できないほどの損害を被る。4,000名の兵士を失い、6,000名が捕虜、120名のVilla軍将校が処刑になったのだった。
弱小勢力となったビリャは、政治的プレセンスの誇示と政情不安の喚起、生存に必要な物資を得るために、メキシコ国境沿いのアメリカ人を襲うようになった。

ビリャのユニット
Divsion del Norte
反政府運動から生まれた「Divsion del Norte(北部師団)」は、当初は農民、農園経営者、盗賊、日雇い労働者らの集まりだった。ビリャはこれを軍編成に改革し、1911年までに1,800名の歩兵、2,800名の騎兵、36門の砲と500名の砲兵を擁する集団に育てた。1914年には40,000名の兵士から成る11個旅団と、60門の砲を持つ2個連隊になり、列車と飛行機まで装備していた。
しかしCelayaの決戦に敗れたDivision del Norteは、1916年までに2,000名に減っていた。

Dorados
「Golden Ones」を意味するDoradosは、ビリャが1913年から14年にかけて創設した親衛隊であり、戦場においてはshock troopsとして機能した。Doradosは3個中隊、各中隊100名から成り、それぞれの兵士は一丁のライフル、二丁のピストル、二頭の馬を装備した。彼らは帽子に金のエンブレムを飾り、主に1915年に激しく戦った。1920年にビリャがメキシコ政府に投降した時に残っていたのは50名程度だった。

Columbus襲撃
1916年3月8日、ビリャはアメリカ・ニューメキシコ州Columbusを500〜700名の部隊で襲撃するが、この攻撃は大間違いだった。
襲撃の目的は、1. Columbusの占領、2. Carranza政権を承認したアメリカへの攻撃、3. メキシコの政争にアメリカを巻き込むこと、4. 襲撃によって必要な物資を得ること、5. ビリャに金を返さないSam Ravelへの個人的復讐、などと推測されるが、襲撃を予測していたアメリカ軍Slocum大佐は二時間の戦闘でビリャ軍の67名を殺害、ビリャ軍がメキシコに逃走する結果となった。
この襲撃でSam Ravel商店は略奪され、アメリカ兵8名と9名の市民が殺された。
追撃したThompkins少佐はメキシコ国境を越えた位置でビリャ軍を発見したが、三回の突撃の後に弾薬と水が尽き、戦果のないまま帰還した。

National Gurad
Columbus襲撃事件によって、アメリカ・Woodrow Wilson大統領はビリャの捕獲・殺害を決定した。
6,000名の遠征部隊が編成され、John Joseph Pershing将軍が司令官に選ばれた。国境警備には、「National Gurad」とアメリカ陸軍が動員された。付録ゲーム「Pershing」はここから始まる。

気狂いアンソニー・ウェインとアメリカ地域軍隊

<my comments>独立宣言を果たしたアメリカ合衆国は、1784年6月3日、大陸会議の決議によって軍隊 (Continental Army、大陸軍)を解散した。

しかし、大陸の西にはアメリカ人と利害が対立するフランス人、スペイン人が居住し、イギリスは同地域のインディアンに軍事支援を続けていた。Sawnee族がOhioに住む200名のアメリカ人を殺害した時、議会はペンシルベニア、コネチカット、ニュージャージー、ニューヨーク州に計700名の兵士の動員を命じたが、実際に集まったのは300名で、そのうち60名はオハイオに進撃する前に脱走した。

このようにしてスタートした「地域軍隊」 -第1アメリカ連隊- はSawnee族に大敗を喫し、次いで1791年に創設された第2アメリカ連隊も1,400名のうち657名が戦死するという、対インディアン戦いでは最大の犠牲を出す結果に終わった。
アメリカ合衆国がオハイオ地域のインディアンに勝利するのは、独立戦争のヒーロー、Mad Anthony Wayne将軍が司令官に任命されてからである。

付録ゲーム「アンソニーウェインのインディアン討伐」は1791年と1794年のインディアンとの戦いを連結したルールで描く。1971年のターンでインディアン側は有利だが、圧倒的勝利が得られない場合、1794年のターンが始まり、双方の布陣は1971年の結果に左右され、勝利ポイントもそのまま引き継がれる。1794年から登場する「アンソニー」チットは、全軍を動かせる強力なコマンド・マーカーである。

中国のベトナム侵略

一般に、中越戦争の原因はベトナムのカンボジア侵攻にあるといわれる。事実、1979年の中国からベトナムへの最後通牒には、PAVN (People's Army of Vietnam、ベトナム軍)のカンボジアからの撤退が含まれていた。(もちろんベトナムはこの要求を一蹴した。)

Deng Xiaoping (ケ小平) の戦争の意図は、1.ベトナムがインドシナ戦争で中国から受けた恩恵を忘れ、ソビエトとの国交を深めている事への警告、2. ベトナム国内の中国系市民への不当な扱い、3. 以前から存在する中越国境紛争、であり、総じて「ベトナムへの懲罰行為」というべきものだった。

PLA (Chinese People's Liberation Army、中国軍)の作戦は、限定的かつ圧倒的な戦力でベトナムの重要拠点を制圧することだった。8つの侵攻地点が選ばれ、国境に位置する2つのPAVN師団が攻撃目標となった。政治的不信と対立から、PLAの軍団間に作戦的連携はとられなかった。PLAに与えられた命令は目標を占拠後、直ちに中国領内まで撤退することだった。

1979年2月17日の朝、PLAの侵攻がはじまり、PLAはその日のうちにベトナム領内8kmまで進入したが、やがてPAVNの強い抵抗に遭遇、戦線は膠着した。27日までにPLAはCao BangとLang Sonに進入したが占領状態は不確定であり、Lang Sonの陥落にはさらに2日を要した。

中国は3月5日、「懲罰目的を達した」との声明を出し、戦争の終結を宣言した。PLAがベトナム領から完全に撤退したのは16日で、中国はこの戦争で30,000名の犠牲を出したと言われる。中国軍がベトナムから撤退した後も、両国は8年間、爆撃や襲撃を 相互に国境で行った。

「Defending China (Gerald Segal著、1985年)」は、中越戦争は次の5つの点から中国にとって完全な失敗だったと記している。

  1. ベトナム軍はカンボジアから撤退しなかった。
  2. 結局、中越国境紛争を終結させることができなかった。
  3. ベトナム政府へのソビエトの影響力を弱めることができなかった。
  4. 中国が「張子の虎」であるイメージを弱めることができなかった。
  5. 反ソビエト連合としてアメリカと連携することができなかった。
ロン・タンの戦闘

戦争史において、オーストラリア陸軍は一日に数千人規模の死傷者を出すことがまれにある。ロン・タン・ゴム農園でのNVN・VCとの戦いも、熾烈さにおいて、その記録に列せられるべきである。

1996年8月18日、6RAR(6th Battaliaons, Royal Australian Regiment、王立オーストラリア連隊第6大隊) のD中隊108名はロン・タン・ゴム農園付近をパトロールしていた。午後3時40分、第11小隊の警戒線に6名のベトコンが文字通り歩いて入って来たため、1名を射殺、残りは逃走した。第11小隊が追跡したところ、少なくとも2名が負傷している痕跡が残っていた。

この時、第11小隊は認識していなかったが、付近にはNVN第274、275連隊およびD445解放戦線大隊が、オーストラリア連隊を攻撃する目的で集結していた。D中隊はその日、2500名の敵を相手に戦うことになるのだった。

ロン・タンの戦闘において、18名のオーストラリア兵が死亡、22名が負傷、北ベトナム側は245名(S&Tの記事では800名)が死亡したとされる。



過去のS&T

50号前#192
Great War in the East

SPI時代に人気のあったゲーム、Serbia/Galicia、Brusilov Offensiveの再掲載。ベテランウォーゲーマーJohn Burttがレイテ湾海戦、Derek Croxtonのオランダ独立戦争、「Load of the Sierra Madre」のデザイナーPhil Ekludがメキシコ革命の航空機について。

150号前#142
Read Beach One

第二次大戦の初期の上陸作戦であるタワラの戦いをMike Jocelynがソロゲームに。Joseph Mirandaがクラウゼヴィッツの「戦争論」に新しい解釈、Al Nofiが、南北戦争から逃れられなかった男について。

150号前#92
Iwo Jima

Dragon Publishing社への移行時期に出版されたこの号は太平洋戦争でもっとも激戦だった戦いをゲーム化。プレイヤーは海岸を守るかすり鉢山で戦うかの選択を迫られる。David Martinによる大英帝国の記事はアフガン戦争にも言及する。Christopher Johnによる映画「Uボート」の記事など。

200号前#42
East is Red

ソビエト赤軍と人民解放軍との戦いの付録ゲームはソビエトと中国の全面戦争である。Jim Dunniganデザインのこのゲームは軍団級で満州とその周辺が主戦場となり、核兵器も登場する。その他、Al NofiのWaterlooの記事など。

 

S&T 2007年の予定
2007 #243 SEALORDS (ベトナム戦争の河川作戦)
2007 特大号 #244 Drive on Moscow (ドイツ中央軍が南の代わりにモスクワを目指す)
2007 #245 Triple Allicance War (パラグアイでのブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの戦争)
2007 #246 Manila (太平洋戦争のスターリングラード)
2007 #247 Holy Roman Empire (ローマの再興)
2008 #248 First Blood Marne (第一次大戦初期の作戦級)
2008 #249 Forgotten Napoleonic Battle (ロシア・スゥェーデン戦と中東のナポレオン)
2008 #250 Cold War Battles 2 (KabulとWurzburgの戦い)
2008 特大号 #251 Cobra (SPI/TSRのアップデート)
2008 #252 War in Far West (ニューメキシコ戦役)
2008 #253 Kursk (Drive on Stalingradのシステム)
2008 #254 Great Medieval Battles 2
2009 #255 Battle over Britain: Warld War I (複葉機、ツェッペリン、気球など登場)
2009 #256 Marlborough's Battle (スペイン継承戦争のラミリー、マルプラケの戦い)
2009 #257 Sino-American War (架空の太平洋戦争)
2009 特大号 #258 Chosin/Gauntlet (朝鮮戦争における中国の反撃)
2009 #259 San Juan Hill (1898年のSantiagoキャンペーン)
2009 #260 Battle for China (1937-41年の日中戦争)
2009 #261 Second Punic War (ローマ対カルタゴ、219-202BC)
2010 #262 Operation Justice (1916年Verdunの戦い)
2010 #263 Lion Rising (17世紀の英蘭海上戦)

#249までのゲームは確定。#250から#256までは2007年中に製作に入るもの。

S&T誌は、古代・中世、近世、第一次大戦、第二次大戦、現代、アメリカ独立の6つのテーマが毎年のゲームの中で出版されるよう計画している。2007年から2010年までの時代別ゲーム一覧は次の通り。

  2007 2008 2009 2010
第一次大戦 241: Twilite of Ottomans 248: First Blood Marne 255: Battle Over Britain 262: Op. Justice
近世 245: Triple Alliance 249: Fogotten Nap. Battles 256: Marlborough's Battles 263: Lion Rising 
現代 243: SEALORDS 250: Cold War Battles 2 257: Sino-Amierican War  
特大号 244: Drive on Moscow 251: Cobra (update) 258: Chosin/Gauntlet   
アメリカ独立 242: Died with boots 2 252: War in Far West 259: San Juan Hill  
第二次大戦 246: Manila 253: Kursk (Bomba) 260: Battle for China   
古代・中世 247: Holy Roman Empire 254: Great Medieval Battles 2 261: 2nd Punic War