<my comments>242号の付録ゲームは、「Pershingのパンチョ・ビリャ追撃」と「Mad Anthonyのインディアン討伐」です。
「Pershing」は、第一次大戦の最中にアメリカ南部で行われていたアメリカ軍・メキシコ政府軍・メキシコ軍閥の巴戦で、チットによる移動・攻撃システムです。
ZOCによる移動停止がないため、ユニットの脇をすりぬけて簡単に敵の背後に入れます。その結果、ゲームはスピーディな機動戦の応報となるでしょう。
ビリャ側の「Division del Norte」ユニットは、マップのどこにでも登場できる信じられない部隊です。これを知らなかったアメリカ軍は瞬時に包囲されました。アメリカ軍もチットの順番によってはビリャを包囲でき、戦闘結果も納得できるものでした。
史実
Pershingの越境は事前にCarranza大統領に通告されていましたが、立派な主権侵害で、Pershing将軍は、「メキシコ軍を極力刺激しない」ようワシントンから命令されていました。
S&Tの記事によれば、Pershingは、メキシコ政府軍の拠点を迂回し、あるいは通行の許可を得たり、あるいは過少な武力で威嚇しながらビリャを追跡しなければなりませんでした。Pershingにとってビリャ軍は追うべき獲物であり、本当の脅威は、圧倒的な兵力を持つメキシコ政府軍だったようです。
メキシコ領内400キロまで潜入したPershing軍は、ビリャ軍の一部を壊滅させますが、結局、1916年6月にメキシコ軍と交戦になり、アメリカ側に12名の死者と24名の捕虜が出ます。これが原因で第二次米・メキシコ戦争勃発の危機となり、Wilson大統領とCarranza大統領の間で和平交渉が始まります。1917年1月にPershing軍はメキシコ国内から全面撤退、ビリャは逃げ切ったのでした。
Mad Anthony
一方、「Mad Anthony」は、普通に楽しめるゲームになっています。前半はインディアン側が有利で、アメリカ軍にミスが多いなら勝利ポイント30差の大勝も可能です。「Native
Allies」マーカーが50枚中2枚しかないので、アメリカ軍側インディアンは絶対に登場しません。
日本語ルールはこちら。
|
メキシコ革命
メキシコは1877年以来、30年以上にわたってPorfirio Diaz大統領の独裁下にあった。そしてアメリカは1911年から約10年間続いたメキシコ革命に直接的・間接的に関与してきた。
1910年にメキシコから亡命したIgnacio Maderoは、テキサスから反Diaz革命を呼びかけていた。革命側に四つの武装勢力、Venustiano
Carranza、Francisco “Pancho” Villa、Emiliano Zapata、Victoriano Huertaが結集、メキシコ各地で蜂起するとDiaz大統領は辞任、1911年、Maderoがメキシコの大統領になる。しかし、それはどの勢力にとっても面白いことではなく、二年後にMaderoはHuerta将軍によって暗殺され、Huertaが政権を握る。Huerta政権を承認しないアメリカがVera
Cruzを1914年に占領、ドイツからの武器供給を絶つと、Huertaはスペインに亡命、Carranzaが新大統領になり、アメリカ政府はCarranza政権を承認する。
Francisco “Pancho” Villa
アメリカ政府のバックアップで革命運動をしていた時の写真と思われる。
Celayaの決戦
すると、アメリカに亡命していたPancho VillaがZapataと連合して新革命軍を組織、Carranza政府と全面戦争を始める。1915年、Villa軍はCelayaの決戦において、二度と回復できないほどの損害を被る。4,000名の兵士を失い、6,000名が捕虜、120名のVilla軍将校が処刑になったのだった。
弱小勢力となったビリャは、政治的プレセンスの誇示と政情不安の喚起、生存に必要な物資を得るために、メキシコ国境沿いのアメリカ人を襲うようになった。
ビリャのユニット
Divsion del Norte
反政府運動から生まれた「Divsion
del Norte(北部師団)」は、当初は農民、農園経営者、盗賊、日雇い労働者らの集まりだった。ビリャはこれを軍編成に改革し、1911年までに1,800名の歩兵、2,800名の騎兵、36門の砲と500名の砲兵を擁する集団に育てた。1914年には40,000名の兵士から成る11個旅団と、60門の砲を持つ2個連隊になり、列車と飛行機まで装備していた。
しかしCelayaの決戦に敗れたDivision del Norteは、1916年までに2,000名に減っていた。
Dorados
「Golden
Ones」を意味するDoradosは、ビリャが1913年から14年にかけて創設した親衛隊であり、戦場においてはshock troopsとして機能した。Doradosは3個中隊、各中隊100名から成り、それぞれの兵士は一丁のライフル、二丁のピストル、二頭の馬を装備した。彼らは帽子に金のエンブレムを飾り、主に1915年に激しく戦った。1920年にビリャがメキシコ政府に投降した時に残っていたのは50名程度だった。
Columbus襲撃
1916年3月8日、ビリャはアメリカ・ニューメキシコ州Columbusを500〜700名の部隊で襲撃するが、この攻撃は大間違いだった。
襲撃の目的は、1. Columbusの占領、2. Carranza政権を承認したアメリカへの攻撃、3. メキシコの政争にアメリカを巻き込むこと、4.
襲撃によって必要な物資を得ること、5. ビリャに金を返さないSam Ravelへの個人的復讐、などと推測されるが、襲撃を予測していたアメリカ軍Slocum大佐は二時間の戦闘でビリャ軍の67名を殺害、ビリャ軍がメキシコに逃走する結果となった。
この襲撃でSam Ravel商店は略奪され、アメリカ兵8名と9名の市民が殺された。
追撃したThompkins少佐はメキシコ国境を越えた位置でビリャ軍を発見したが、三回の突撃の後に弾薬と水が尽き、戦果のないまま帰還した。
National Gurad
Columbus襲撃事件によって、アメリカ・Woodrow
Wilson大統領はビリャの捕獲・殺害を決定した。
6,000名の遠征部隊が編成され、John Joseph Pershing将軍が司令官に選ばれた。国境警備には、「National
Gurad」とアメリカ陸軍が動員された。付録ゲーム「Pershing」はここから始まる。
|
<my
comments>独立宣言を果たしたアメリカ合衆国は、1784年6月3日、大陸会議の決議によって軍隊 (Continental
Army、大陸軍)を解散した。
しかし、大陸の西にはアメリカ人と利害が対立するフランス人、スペイン人が居住し、イギリスは同地域のインディアンに軍事支援を続けていた。Sawnee族がOhioに住む200名のアメリカ人を殺害した時、議会はペンシルベニア、コネチカット、ニュージャージー、ニューヨーク州に計700名の兵士の動員を命じたが、実際に集まったのは300名で、そのうち60名はオハイオに進撃する前に脱走した。
このようにしてスタートした「地域軍隊」 -第1アメリカ連隊- はSawnee族に大敗を喫し、次いで1791年に創設された第2アメリカ連隊も1,400名のうち657名が戦死するという、対インディアン戦いでは最大の犠牲を出す結果に終わった。
アメリカ合衆国がオハイオ地域のインディアンに勝利するのは、独立戦争のヒーロー、Mad Anthony Wayne将軍が司令官に任命されてからである。
付録ゲーム「アンソニーウェインのインディアン討伐」は1791年と1794年のインディアンとの戦いを連結したルールで描く。1971年のターンでインディアン側は有利だが、圧倒的勝利が得られない場合、1794年のターンが始まり、双方の布陣は1971年の結果に左右され、勝利ポイントもそのまま引き継がれる。1794年から登場する「アンソニー」チットは、全軍を動かせる強力なコマンド・マーカーである。
|
一般に、中越戦争の原因はベトナムのカンボジア侵攻にあるといわれる。事実、1979年の中国からベトナムへの最後通牒には、PAVN
(People's Army of Vietnam、ベトナム軍)のカンボジアからの撤退が含まれていた。(もちろんベトナムはこの要求を一蹴した。)
Deng Xiaoping (ケ小平) の戦争の意図は、1.ベトナムがインドシナ戦争で中国から受けた恩恵を忘れ、ソビエトとの国交を深めている事への警告、2.
ベトナム国内の中国系市民への不当な扱い、3. 以前から存在する中越国境紛争、であり、総じて「ベトナムへの懲罰行為」というべきものだった。
PLA (Chinese People's Liberation Army、中国軍)の作戦は、限定的かつ圧倒的な戦力でベトナムの重要拠点を制圧することだった。8つの侵攻地点が選ばれ、国境に位置する2つのPAVN師団が攻撃目標となった。政治的不信と対立から、PLAの軍団間に作戦的連携はとられなかった。PLAに与えられた命令は目標を占拠後、直ちに中国領内まで撤退することだった。
1979年2月17日の朝、PLAの侵攻がはじまり、PLAはその日のうちにベトナム領内8kmまで進入したが、やがてPAVNの強い抵抗に遭遇、戦線は膠着した。27日までにPLAはCao
BangとLang Sonに進入したが占領状態は不確定であり、Lang Sonの陥落にはさらに2日を要した。
中国は3月5日、「懲罰目的を達した」との声明を出し、戦争の終結を宣言した。PLAがベトナム領から完全に撤退したのは16日で、中国はこの戦争で30,000名の犠牲を出したと言われる。中国軍がベトナムから撤退した後も、両国は8年間、爆撃や襲撃を
相互に国境で行った。
「Defending China (Gerald Segal著、1985年)」は、中越戦争は次の5つの点から中国にとって完全な失敗だったと記している。
- ベトナム軍はカンボジアから撤退しなかった。
- 結局、中越国境紛争を終結させることができなかった。
- ベトナム政府へのソビエトの影響力を弱めることができなかった。
- 中国が「張子の虎」であるイメージを弱めることができなかった。
- 反ソビエト連合としてアメリカと連携することができなかった。
|