Drive on Moscow
#244 July 2007

Moscow, 1941: Guderian vs. Hitler

バルバロッサ作戦
1941年6月22日からはじまったバルバロッサ作戦に対する第一の批判は、8月になってドイツ中央軍集団にモスクワへの進撃を中止させたヒトラーの決定であろう。ドイツ中央軍集団は分割され、北方軍集団と南方軍集団の支援に充てられた。当時、中央軍集団がモスクワへの進撃を続けていたなら、夏の終わりまでにモスクワの陥落は可能であった、という見解は戦争中から存在する。

ヒトラーの決定に反対し、モスクワ侵攻を強く支持したのは、中央軍集団・第2装甲集団のグーデリアンだった。モスクワは共産主義の政治的、心理的中心であり、周辺には多くの軍事工場が存在した。モスクワが陥落すればソビエト政府は求心力を失い解体する。スターリンはモスクワを死守するであろうから、ドイツはここでソビエト軍の主力と決戦することができる。仮に、モスクワ陥落がソビエト政府の解体とならない場合でも、首都の占領はヒトラーが必要とする国際的プロパガンタになった。
では、なぜヒトラーは、中央軍集団のモスクワへの進撃を止めたのだろうか。

歴史
ヨーロッパ人なら誰でも、1812年にナポレオンがロシアに侵攻した時の大失敗を知っている。18世紀のスウェーデン王 カール12世、そして1812年のナポレオンの侵略において、ロシア人は撤退作戦で対抗した。むしろナポレオンは、モスクワまで駒を進めたがゆえに敗北したのである。

ドイツ参謀部はソビエト陸軍を200個師団と見積もっていたが、1941年夏までにドイツ軍が交戦したソビエト軍は360個師団だった。ドイツ軍は交戦したほとんどのソビエト軍を壊滅させるか捕虜にしたが、ソビエト軍は、損失以上の部隊を前線に補充することができた。
1941年7月23日、ドイツ参謀総長のFranz Halderは、「我々が10個師団を撃破すると敵は新たな10個師団を投入してくる。ソビエト国内の経済的、人的資源を除去しない限り戦争に勝利できない。」と報告書に書いた。この時点で、ドイツ軍が当初想定していた戦争の早期勝利の見通しは消えていた。

ソ連はバルバロッサ作戦開始前から、軍備の保有量において圧倒的にドイツを上回っていた。ドイツが3,700両の戦車と3,400機の航空機を擁していたのに対し、ソビエトはそれぞれ28,800両、81,000機だった。

対ソ戦において、モスクワ侵攻はもっとも直接的なアプローチであり、赤軍は十分にこれを予見していた。ドイツ軍がキエフとレニングラードを制圧せずにモスクワに直進した場合、ソ連軍は南北に分断されたかもしれないが、同時にドイツ軍はロシア領内に600kmの突出部を作ることになり、ソ連軍に無防備な両翼をさらすことになる。仮にドイツ軍がモスクワを占領しても、ソ連軍は伸びきった補給路を南北から攻撃することができ、モスクワのドイツ軍は孤立しただろう。その場合、スターリングラードでソ連軍が経験した包囲・消耗戦を、ドイツ軍はモスクワで強いられたかもしれない。

タイフーン作戦 - モスクワ侵攻
バルバロッサ作戦の第2段階として計画されたタイフーン作戦において、中央軍集団に与えられた目標はモスクワだった。タイフーン作戦は1941年9月16日に発令されたが、この日攻撃可能なポジションにいたのは第3装甲集団だけであり、実際の攻勢は9月30日まで始まらなかった。
中央軍集団は最初の週こそ快進撃を続けたが、10月6日の降雨で地面が泥濘と化すと装甲師団の前進に支障が出た。皮肉なことに、悪路では機械化部隊より歩兵の方が早く移動できた。

ドイツ軍が進撃すればするほど、前線に現れるソビエト軍の規模は大きくなった。1941年6月22日から12月1日までの間に、赤軍は新たに194個師団と94個旅団を動員し、これにロシア東部から引っ張った97個師団が加わった。10月中旬のドイツ軍の停滞中にソ連軍はモスクワ防衛線を構築し、11月末には、各所でのドイツ軍の攻勢が頓挫した。12月6日、ジューコフがモスクワ前面のドイツ軍を押し返してから形勢は逆転、ドイツ軍の敗退がはじまった。

 

結論
1941年8月にモスクワへの進撃を中止したヒトラーの決断は正しかったかもしれない。ヒトラーの誤りは、一度の攻勢で戦争に勝つことができる、と主張する将軍達を信じたことにある。ドイツは、独ソ戦に関して10月の終わりまでの4ヶ月間しか作戦を持っていなかった。1回の作戦シーズンでソビエト政府を破ることができる、と考えていたのである。一部の明敏な軍人は戦争は二年かかると見ていたが、戦争が長期化した場合、ドイツ経済は破綻したであろう。仮に経済上の問題がなくても、ドイツの工業力では戦争で喪失したのと同数の装甲車両を補充することは不可能だった。

1941年に採りうるドイツにとって実行可能な選択肢は、キエフを占領し、レニングラードへの道を開いた時点で進撃を止め、1942年の攻勢の準備をすることである。10月の第一週、すなわち天候が悪化する直前の戦線は比較的直線であり、ドイツ軍の限られたリソースを考えるなら、もっとも守りやすかった状態である。このポジションはレニングラード、モスクワ、ドン川を攻撃するのに適している。ドイツ軍は1942年にこれらの地域を攻撃する。


The Next Naval War

第二次大戦
第二次大戦が終わった時、世界でもっとも強力な海軍を有する国はアメリカとイギリスだった。太平洋では連合軍の空母と潜水艦が、大西洋では空母と対潜水艦作戦が連合国に勝利をもたらした。ソビエト海軍が両国海軍の覇権に挑むのは、冷戦時代になってからである。
第二次大戦は航空母艦が最強であることを証明した戦争だった。戦争の流れを決定付けたもうひとつのタイプの艦船は潜水艦だった。大西洋ではドイツU-ボートが連合軍側の輸送船を荒らし、太平洋ではアメリカ軍の潜水艦が日本軍の海上補給を壊滅させた。

戦後の軍事ドクトリン
第二次大戦中に実証された空母と潜水艦の優位性は、冷戦時代になって、航空母艦と潜水艦のどちらが優れているかという議論を生んだ。すなわち、航空母艦の長大な攻撃力は他のすべての艦船の攻撃力に優るという「空母優位派」と、原子爆弾が水上のすべてを破壊するのだから、海底に隠れる潜水艦が最も優れているという「潜水艦優位派」とが生まれた。
米ソが軍事ドクトリンを開発する際、この航空母艦と潜水艦の議論に、それぞれの戦略的展望が反映された。アメリカは、自国ならびに同盟国の海上通商と交通を守る必要性から世界最大の海軍をつくり、戦力の中心は航空母艦となった。
ヨーロッパ、中東、中国と地続きであり、自給自足が可能であり、地上軍が中心であるソビエトは、敵対国の海上支配を阻害すればよいのだから、潜水艦中心の艦隊を創った。西側諸国と対等に交戦できない他の国、たとえば中国も潜水艦優位のドクトリンを採用した。

航空母艦の防衛戦術
アメリカ海軍の空母の防衛戦術は護衛艦による縦深を持つ。典型的な空母機動部隊は、1隻の空母、1〜2隻のAGEIS艦、4〜6隻の巡洋艦、あるいは駆逐艦、フリゲート艦から成る。それと別に1〜2隻の補給艦が随行する。
護衛艦は、それぞれの戦闘システムが最大の効果を発揮する距離を保つ。機動部隊のディフェンスは、外郭ゾーン、中郭ゾーン、内郭ゾーンに分かれる。

The Outer Zone
最初のディフェンスラインは、機動部隊の中心から100海里のゾーンであり、哨戒機および戦闘機による戦闘空中哨戒(Combat Air Patrol)である。E-C2Hawkeyeは200海里離れた敵艦および400海里離れた敵機を発見でき、収集した敵の情報はNTDSデータリンクで機動部隊に送信される。機動部隊は空母からAMRAAM (advanced medium-range air-to-air misslie)、JDAM (joint direct attack munition)搭載のA/F18、F-35を発進、発見した敵艦隊を叩く。攻撃は、敵艦が攻撃ミサイルを発射する前であることを目的とする。

The Middle Zone
機動部隊から6〜100海里のゾーン。AEGIS艦およびSAM搭載の駆逐艦が防衛する。航空機と艦船から発信する妨害・欺瞞電波によって敵の火器統制レーダーとミサイルの誘導システムを無効にする。

The Inner Zone
護衛艦によって張られた内部スクリーン、および空母である。これらの艦船は通常、完全な電子的静謐状態を作る。ESM (Electronic Support Measures、電子支援手段)およびパッシブセンサーによって敵脅威を察知するが、司令官が静謐状態が有効でない、と判断した時、アクティブな電子戦がはじまる。
護衛艦は、Sea Sparrow (米)、Sea Wolf (英) などの短距離SAM、多重目的艦載5inch、4.5inch砲で防衛する。第二の方法として、チャフ散布と欺瞞ジャミングで偽の目標を作り、敵ミサイルを誘導する。これらが役に立たない時、SR-BOC (米)、Sea Gna t(英) による短距離チャフ散布と航路変更を行う。それでも進入してきた脅威には20-mm Pharanx、30-mm Goalkeeperオートキャノン砲が最後の防衛を行う。

ザマにおけるローマ軍の快進撃

この時代のローマ軍団の編成は、社会構成とおおいに関係があった。

第一列のウェリテス (Velites) とは軽装歩兵で、ローマ市民の中で資産のない者あるいは年少者で構成された。軍団のスクリーンとなり、あるいは敵陣を乱すのが仕事であり、これらの任務を終えると後退した。ウェリテスは鎧を身に着けず、頭部を狼の皮で守っただけで、直径90cmの盾と数本の槍、短刀を持った。

第二列のハスタティ (hastati) は、20代後半の者で構成され、1.3mの槍とgradiusと呼ばれる両刃の剣で武装した。ヘルメットには羽飾りがつき、胸当てと脛当てで防御し、左肩に乗せた縦長の盾で身を守った。ハスタティの任務は投槍し、敵と干戈を交えることだった。

第三列のプリンキペス (principes) の任務はハスタティ と同じだが、より裕福な者から構成され、金属製の鎧、鎧かたびらで身を固めた。

最後列のトリアティ (Triarii) は、30代後半から40代で構成された最古参の兵士だった。彼らは金属製の鎧と大型の盾、脛あてで身を守り、剣も持っていたが、主要な武器は突刺し用の槍だった。戦力の中核とされたトリアティは戦局の終盤に投入された。

軍団の戦術は、もっとも経験豊かなハスタティの損害を最小にし、経験の浅いウェリテスを接近戦の衝撃にさらさないことだった。そのために、ウェリテスは遠距離から投槍を行い、軍団の後ろに隠れる戦術を採った。敵を叩きつぶす任務は、ハスタティとプリンキペスの仕事だった。

戦術ファイル ロクロワの戦い

1635年、フランスがスペインに宣戦布告、30年戦争は最終局面を迎えた。1643年5月19日、パリを目指して進撃したスペイン軍は、ロクロワの戦いで大敗し、これによってスペイン軍の戦力は激減した。

付録ゲーム

「Drive on Stalinglad」のシステムを引用した「Drive on Moscow」は、ダブルサイズのマップ、13ページのルールで、1941年10月1日から12月7日までのドイツ軍の攻勢をゲーム化。
ドイツ軍の目標は、モスクワを占領するか、その外のすべての都市を占領するか、であり、防衛側のソ連軍もカウンターアタックを試みなければならない、という。

過去のS&T
50号前#194
Forgotten Axis

Mike Bennighofによるドイツ・フィンランド軍対ソ連軍の戦いを描いた「Forgotten Axis」は、Platinum Fox作戦でのMurmanskの奪還をめざす。Brain Trainはペントミック(核戦対応)時代の南アフリカの軍隊、Tim Kuttaは南北戦争・バレー戦役のストーンウォール・ジャクソン、T. Schebenは第一次大戦におけるドイツの空中戦を執筆。

100号前#144
Chad: The Toyota Wars

Richard Davidの「Chad」は、複数陣営間の非正規戦を独自の軍事・政治システムで表現したゲームであり、フランス外人部隊の投入もできる。James J. Schneiderは赤軍と作戦級軍事技術の興隆の記事、Al NofiのFYIコラムなど。

150号前#94
Nordkapp

ワルシャワ条約軍によるノルウェー侵攻を描いた付録ゲームはChuck KampsとE. Sollersによる。Richard Rustinによる1940年のノルウェーの戦い、John Pradoのアメリカ軍降下部隊によるDien Bien Phuフランス軍救出作戦「The Sky World Fall」のレビューをRichard Berg、Ian ChadwickがTRS-80用のコンピュータゲーム「Caveat Emptor」の記事。
200号前#44
Tank!

Jim DunniganとRed Simonsenが作った「Tank!」は、個々のAFVを表現し、あらゆる種類の戦車戦を表現できるゲームだった。Stephen B. Patrickが20世紀の機甲戦の記事、David IsbyがRuyter、Byng、Suffren、Nelsonの時代の海戦、Sid Sacksonの「三人チェス(スタートレックとは異なる)」「Alien Space」、Outgoing Mailコラムにはベトナム戦争後のウォーゲームと軍事主義に関する興味深い議論、巻末の広告は、「史上最大のウォーゲームがいよいよ発売: War in the East」

ゲーム予告

S&T#246「Manila '45 太平洋のスターリングラード」は、1945年2月3日から3月4日までのマニラ市街戦を、1ターン3日のスケールで描く。
史実で日本兵は文字通り最後の一兵まで戦ったため、アメリカ軍プレイヤーは最終ターンまでにすべての日本軍ユニットを除去しなければ勝利できない。最終ターンに日本軍ユニットがマップに1枚でも残っているなら日本側の勝ちとなり、引き分けはないという。プレイ時間は3〜5時間。Joseph Mirandaがデザイナー。

 

World at War

Decision Games社は第二次大戦の専門誌「World at War」を創刊、2008年12月から発売する。体制はS&Tと同じで、付録のウォーゲームは戦略級から戦術級までのヨーロッパ、太平洋戦線、その他を扱う。「World at War」はS&Tの発売されない隔月に発行される。

その結果、S&Tのダブルサイズゲームは2008年の「Cobra」が最後になり、特大ゲーム「Chosin/Gauntlet」は、「S&T特別号」として2010年に発売になる。「S&T特別号」の記事は付録ゲームに焦点を当てたもので、他の時代の記事は載せない。しかし、S&Tは今後も第二次大戦を扱うし、内容にも変化はないという。