オスマン帝国の終焉:
第一次大戦の中東
#241 January 2007

 


第一次大戦とオスマン帝国

1914年当時、大英帝国はスエズ運河を通じて、ヨーロッパ戦線に必要な資源や人員をアジア・東アフリカの植民地から輸送していた。イギリスにとってスエズ運河は戦争の生命線だった。そしてスエズ、エジプト、ペルシャに隣接するオスマン帝国は、イギリスの海外権益を十分に脅かす位置にあった。

一方、オスマン帝国の戦略目標は、Caucasus領の再占領だった。オスマン帝国は、数次に渡るロシアとの戦争によってCaucasus(黒海とカスピ海の間)を失っていた。
第一次大戦が勃発した時、オスマン帝国は、フランス・イギリスの連合国側か、ドイツ・ハンガリーの中央同盟国側につくか決めていなかった。1914年8月2日、オスマン帝国がドイツと同盟すると、中東全域のイギリス軍は突如脅威にさらされた。イギリスは中東に数個師団しか派兵していなかったのである。
イギリスとオスマン帝国は、エーゲ海とアラビア半島で対決、これが20世紀の双方の国、ひいてはアラブ世界の運命を決定づけた。

結末
イギリスはスエズ運河を守ることができた。スエズの防衛にシナイ半島の占領が必要であるとの見地から、イギリスはエルサレムまで侵攻した(1917年12月9日)。中東におけるイギリス軍の勝利は、ガリポリの戦い(エーゲ海)で大敗を喫し、ヨーロッパ西部戦線が膠着状態にあった当時、イギリス国内の戦意を維持するに役立った。
対トルコ戦において連合国側はイギリス・フランス軍あわせて250,000名の犠牲を出し、それに対するドイツ軍の損害は寡少であった。

第一次大戦後、中東のアラブ地域はイギリス・フランスによって分割占領された。イギリスはパレスチナ地域・ヨルダン・イラク、フランスはシリア・レバノンを得た。
ギリシャはコンスタンチノープルを占領しようと幾度か試みたが成功せず、オスマン帝国は数度にわたって解体され、1923年にトルコ共和国となった。

1917年に発布されたバルフォア宣言(イスラエル建国を認める宣言)とサイクス‐ピコ協定(イギリス、フランス、ロシア間でオスマン帝国を分割する密約)は、第一次大戦中、イギリス側についたアラブ部族たちに、果たして自分らは正しい側を選択したかどうか疑問を与える結果になった。
第一次大戦中、イギリスは、オスマン領内のアラブの離反を促すため、アラブ独立国家の樹立を促していた(アラビアのロレンスなど)。第一次大戦の終結は、400年にわたるオスマン帝国の中東支配の終焉であると同時に、今日まで続く中東紛争のはじまりだった。

 

先制戦争 Operation Opera イスラエルとイラク核プラント破壊

1981年6月7日、イラクの核武装の試みは爆発とコンクリート片、引き裂かれたアルミ建材に帰した。イスラエル空軍機がイラクOsiraqの核プラントに決定的な空爆を行ったのであった。

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中央カフカス: 忘れられた戦場

黒海とカスピ海に挟まれたカフカスは、3000メートル級の山々が連なる、水源に乏しい荒涼とした地域である。
1914年12月8日、オスマン帝国の最高司令はトルコ第三軍にカフカスへの大攻勢を命じたが、翌月には90,000名の死者と40,000名の負傷者を出す大敗を喫する。攻撃を行ったIX、X、XI軍団の中で、無事に帰ることができたのは12,400名だった。

 

1799年: アレクサンドル・スヴォーロフのイタリア戦線
ロシア軍最高司令官に任命されたスヴォーロフはオーストリア軍(神聖ローマ帝国軍)と合流、オーストリアから北部イタリアを攻め、ジェノヴァを除く北部イタリアは全て連合軍の手に落ちた。スヴォーロフはサルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ4世から、サヴォイア大公の爵位を授けられた。

S&T 予告

S&T#236の付録ゲームは、They Died With Their Boots On II。Anthony Wayneのオハイオ川渓谷におけるインディアン戦、Persingのメキシコ・パンチョビラ戦いの二つのゲーム。

過去のS&T

50号前#191
Sea Devils

Ted Garlandによる南軍の外洋における攻撃のゲーム、マップは地球規模。Brain Trainの第一次インドシナ戦争の分析、1860年の英仏の北京キャンペーンをJoe Miranda、17世紀の軍事首謀者マザリン枢機卿とフランスの興隆をDerek Croxton。

150号前#141
Hannibal

1991年のこの号は、第二次ポエニ戦争を戦略級でJohn Sutcliffe。John Burttによる現代機甲戦の分析、Desert Shield、Desert Storm作戦の戦闘序列を含む。Matt CaffreyとWalt Millerは、ウォーゲームをどのように世界情勢に当てはめるかを書き、編集者はサダム・フセインの湾岸戦争における動機について"If Looks Could Kill"で想像。

150号前#91
Tito

Richard RustinとJoe BalkoskiによるTitoは、第二次大戦におけるユーゴスラビアのパルチザン戦を描いたゲーム。ユニークなゲームシステムと型破りなデザインは、非正規戦にふさわしい。Austin Bayの化学戦による大量破壊兵器の記事、その他、南北戦争の砲兵、中世の海戦、イスラエル空軍など盛りたくさんの記事。

200号前#41
Kampfpanzer

1935〜40年の機甲戦の発達をAl Nofi、Jim Dunnigan、Red Simnsenが戦術級でゲーム化。Steive Patrickが"War in the East"関連の歴史記事。