1914年当時、大英帝国はスエズ運河を通じて、ヨーロッパ戦線に必要な資源や人員をアジア・東アフリカの植民地から輸送していた。イギリスにとってスエズ運河は戦争の生命線だった。そしてスエズ、エジプト、ペルシャに隣接するオスマン帝国は、イギリスの海外権益を十分に脅かす位置にあった。
一方、オスマン帝国の戦略目標は、Caucasus領の再占領だった。オスマン帝国は、数次に渡るロシアとの戦争によってCaucasus(黒海とカスピ海の間)を失っていた。
第一次大戦が勃発した時、オスマン帝国は、フランス・イギリスの連合国側か、ドイツ・ハンガリーの中央同盟国側につくか決めていなかった。1914年8月2日、オスマン帝国がドイツと同盟すると、中東全域のイギリス軍は突如脅威にさらされた。イギリスは中東に数個師団しか派兵していなかったのである。
イギリスとオスマン帝国は、エーゲ海とアラビア半島で対決、これが20世紀の双方の国、ひいてはアラブ世界の運命を決定づけた。
結末
イギリスはスエズ運河を守ることができた。スエズの防衛にシナイ半島の占領が必要であるとの見地から、イギリスはエルサレムまで侵攻した(1917年12月9日)。中東におけるイギリス軍の勝利は、ガリポリの戦い(エーゲ海)で大敗を喫し、ヨーロッパ西部戦線が膠着状態にあった当時、イギリス国内の戦意を維持するに役立った。
対トルコ戦において連合国側はイギリス・フランス軍あわせて250,000名の犠牲を出し、それに対するドイツ軍の損害は寡少であった。
第一次大戦後、中東のアラブ地域はイギリス・フランスによって分割占領された。イギリスはパレスチナ地域・ヨルダン・イラク、フランスはシリア・レバノンを得た。
ギリシャはコンスタンチノープルを占領しようと幾度か試みたが成功せず、オスマン帝国は数度にわたって解体され、1923年にトルコ共和国となった。
1917年に発布されたバルフォア宣言(イスラエル建国を認める宣言)とサイクス‐ピコ協定(イギリス、フランス、ロシア間でオスマン帝国を分割する密約)は、第一次大戦中、イギリス側についたアラブ部族たちに、果たして自分らは正しい側を選択したかどうか疑問を与える結果になった。
第一次大戦中、イギリスは、オスマン領内のアラブの離反を促すため、アラブ独立国家の樹立を促していた(アラビアのロレンスなど)。第一次大戦の終結は、400年にわたるオスマン帝国の中東支配の終焉であると同時に、今日まで続く中東紛争のはじまりだった。
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