エカテリーナの時代
1648年、ヨーロッパ各地を戦場にした三十年戦争がウエストファリア条約によって終結すると、ヨーロッパの国家数がおおむね確定した。国家数が決まると各国の中央集権化が進められ、地方領主は次第に軍事力を失い、戦争は領主の軍隊の寄せ集めで戦うものから国家の常備軍によって行なわれるものに変貌した。国の直轄軍は、国王にとって裏切らない軍事組織であり、軍が整備されると国王は、自身の政治的理由によって、チェスの駒のように軍隊を動かすことができるようになった。国家の軍隊は、国内の反乱の鎮圧に用いることもできた。
Balance of Power
ウエストファリア条約後、欧州における戦争の目的は他国を完全に占領することから、国境付近の地域を奪い合ったり、他の取引の材料を得ることに変貌した。
戦争が政治の道具となり、より「文明的」に戦われるようになると、ヨーロッパ各国間に「Balance of Power」が生まれた。いずれの国も他の国が強大になることを望まないため、ある国が戦争で優位に立つと、その他の国が戦争で負けている国に味方し、優勢な国の力をそぐのである。
たとえばスペイン継承戦争 (1701 - 14) において、フランス国王ルイ14世が自分の孫をスペイン王位の跡継ぎに推し進めた時、周辺のヨーロッパ諸国はフランスに対抗するため軍事同盟を組んだ。皮肉なことに、最後にルイ14世を救ったのも「Balance
of Power」で、イギリスが強大になりすぎるのを恐れた国々が、反フランス同盟から離脱したのである。
ロシア
近代ロシアのはじまりは14世紀に誕生したモスクワ大公国までさかのぼることができる。しかし、モスクワ大公国は中世の終わりまで、キプチャク・ハン国
(モンゴル) の小さな衛星国でしかなかった。その後、16世紀のはじめまでにモスクワ公は西ウラル地方のモンゴル人勢力を撃退し、ノブゴルドやキエフ、シベリアや中央アジアまで版図を広げた。
モスクワ大公国がモンゴルや中央アジアと戦争をした時、「Balance of Power」はまったく考慮されなかった。その領土がロシアのものとなるまで戦ったのである。
この時期、ロシアがモンゴルの支配から脱却できた理由のひとつは、ヨーロッパ伝来の近代戦争法や火器を戦争に導入した事実があげられる。また、同時期のロシアがイワン雷帝やピヨトール大帝などの強力な指導者を輩出したのに対し、モンゴルには第二のジンギスカンとなるべき人物が生まれなかったのである。そして女帝エカテリーナの時代、ロシアは「Balance
of Power」の抗争の中でヨーロッパ東側に進出、ウクライナやオスマン帝国の版図の一部を領有する一方、シリア全土も手中に収め、現在のロシア領にかなり近い国土を築いた。
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