第一次大戦直前に誕生したイギリス遠征軍
(BEF) は、戦争を通じて、連合軍の中核戦力のひとつだった。1906年から準備されたBEFはイギリスの精鋭部隊であり、その存在も配置もドイツ軍にとって予想しないものだった。実際、BEFが1914年のモンスにいなかったなら、ドイツのシュリーフェンプランが初動からつまづくことはなかったのである。
しかし、 BEFが誕生するまでの道のりは平坦ではなかった。第一次大戦勃発までイギリスが経験した国際戦争は数え切れないほどあるものの、Waterloo以来イギリス軍が近代軍を相手に戦った戦争はクリミア戦争(ロシア)とボーア戦争だけであり、しかもこの二つの戦争においてイギリス軍はきわどい戦いを強いられていた。
対ロシア戦
1854年の対ロシア戦(クリミア戦争)でイギリス軍が採用した戦法はナポレオン時代と変わりのないものだった。実際、この戦争の指揮をとったLoad
Raglanの傍らにはWellington卿がいたのである。軍上層部の戦略の過ちと補給、医療の不足は、戦争中ならびに戦後、民間と議会から激しく糾弾された。しかし、個人攻撃と感情的姿勢が主だったメディアの糾弾は軍の存在性に太刀打ちできるものではなく、戦争が過去のものとなるにつれ、大衆は興味を失い、議会もまた関心を喪失した。
クリミア戦争の後にイギリス軍が20世紀の到来までの約50年間に経験した戦争は植民地における小規模な紛争であり、ほとんどの場合、敵は未訓練の近代兵器を持たない原住民だった。それでもこの期間に2つの大きな軍事紛争をイギリスは経験している。シーク戦争(1845〜46,
1848〜49)におけるインド人は戦術面で優れていたものの、リーダーシップに欠陥がある敵だった。セポイの反乱(1857)におけるイギリスの敵はインド人の正規軍だったが、彼らは軍事訓練の段階で問題を抱えていた。最終的にイギリスはこの2つの紛争においても勝利を収めるが、余裕のある勝利ではなかった。
第一次ボーア戦争
1879年、南アフリカのズール族はIsandlwanaにおいてイギリス軍を撃退するが、最終的にこの戦争でもイギリスが勝っている。1880年、イギリス軍はマフディの戦争(スーダン)においてKhartoum市の防衛に失敗している。いずれにせよ、総合的にイギリス軍はほとんどすべての敵に勝利しているのである。勝利の理由は、イギリス軍のすぐれた統率と兵器の優位だった。やがて、第一次ボーア戦争(1880-81)において、イギリス軍ははじめて勝つことのできない敵と遭遇する。1881年のマジュバ・ヒルの戦いで英軍は大敗、このためイギリスはトランスヴァール共和国を承認しなければならなかった。
イギリス遠征軍創設
1859〜1895年のイギリス軍の総司令官は、ビクトリア女王の従兄弟ケンブリッジ公爵だった。彼は軍改革への反対論者だったが、この意見に反対する者は少なかった。大英帝国はイギリス海軍によって維持されており、表面上は陸軍も機能していた。1898年までに、イギリスはインド、エジプト、オーストラリアを含む一大版図を築いており、軍改革は貴族的なリーダーシップを壊し、軍の忠誠を損なうものとされていた。
1905年の日露戦争は、世界の軍事関係者に発想の転換を与えた。攻勢主体の日本が防衛主体のロシアを破り、アジアの国がヨーロッパ大国に勝てることを証明したからである。この戦争の教訓は、精神的に高揚した攻撃はいかなる防衛も打ち砕く、かのようであった。見落とされていた事実は、戦争によって日本が疲弊したことであった。戦争が終わった時、日本には新たに召集できる予備的兵力はなかった。戦争の間に日本軍がこうむった損害は膨大なものであり、戦争を継続する力が日本にはなかった。加えて言うなら、ロシアはシベリア横断鉄道という細く長い伝達手段の末端の敵と戦っていた。
ヨーロッパ最大国を相手に「小国」日本が攻勢主体の戦争を挑み、その結果多大の犠牲を強いられたという教訓は、後に欧州戦に参加する「小国」イギリスにおいて見落とされた。1899年からの第二次ボーア戦争において、イギリスは44,8435名の兵員を送り、戦死5,774名、負傷22,829名、負傷もしくは病気で死亡した者が16,168名となる大きな損害を出したのである(後の首相チャーチルは、この戦争で敵の捕虜となり脱走している)。政治に対するクリミア戦争の影響がマッチの火であるとすれば、第二次ボーア戦争は炎の暴風だった。政権が交代し、新任の軍事長官Richard
Haldaneは、軍改革について特別の予見がなかったにもかかわらず、軍事改革を行うことになった。
Richard Haldaneの行った改革の中で、海外駐留軍が縮小される一方、1906年に設立された参謀本部はドイツのフランス侵攻を予見した。来る欧州戦に備えて海外遠征軍を設立することになったRichard
Haldaneは、Douglas Haigを軍事訓練に指名、1914年までにイギリス遠征軍 (BEF) はそれぞれ2個の歩兵師団から成る3個軍団と1個の騎兵師団として編成された。
Douglas Haigは効果的な軍事教練を行い、第一次大戦勃発時、BEFの錬度は師団レベルまで完成していた。戦術面において、火器の効果的使用と遮蔽物を利用しての移動が強調され、歩兵の平均的な射撃能力は、300メートル離れた的に1分間で15発命中させるレベルまで高まっていた。このように高い錬度でありながらも、司令官レベルは軍団規模の指揮が未経験であり、徴兵制でないため軍団の規模は小さく、機関銃と重砲の不足は戦争終結までBEFの弱点となった。
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