1943年まで、クルスクの名は世界にまったく知られていなかった。ヒトラーがクルスクへの「Zitadelle作戦」を決定した時、グーデリアンは、「仮にそこを奪取したとして、何が得られるのか?」と疑問を呈した。マンシュタインは「後の先」を主張し、防衛撤退後の反撃を進言したが、撤退はヒトラーの受け入れるところではなかった。
ソビエト軍は、1942年冬のスターリングラードの勝利以後、広大なウクライナ平原に進撃を続けていたが、マンシュタインの聡明なクラコフへの反撃によって一時的に均衡し、にらみあいになっていた。問題は、どちらが先に攻勢するか、であった。ソビエト軍は連合国から増援物資で日々増強しており、時間はソビエトに利するものだった。
一方、他の戦線において、ドイツ軍は北アフリカから駆逐され、大西洋ではUボートが次々と沈められ、フランスへの連合軍の上陸作戦が現実のものとなりつつあった。ヨーロッパ本土への戦略爆撃がはじまると、ドイツの同盟国は戦争の行く末に懐疑的になった。ルーマニアとハンガリーは戦争の継続に消極的になり、ムッソリーニはヒトラーに忠実だったが、ムッソリーニ政権そのものが転覆の危機にさらされていた(その後、1943年7月にクーデターが発生する。)スペインでは、フランコ政権がドイツと距離を置きはじめ、日本は、ソビエトへの攻撃を拒否した。ヒトラーは、国内外に対して、ナチ・ドイツが戦いのイニシアチブを握っていることを示す必要があると考えた。
クルスクは、東部戦線におけるソビエト側の突出部であり、ここにありったけの兵力を投入することで作戦的勝利が得られるとヒトラーは計算した。しかし、ソビエト陸軍も、ありったけの兵力を投じていたのである。
1943年7月、ドイツ軍は、28個の歩兵師団、2450台の戦車、7400門の火砲、1830機の航空機を準備して戦いの火蓋を切ったが、ソビエト軍は76個の歩兵師団、5100台の戦車、31,400門の火砲、3550機の航空機を用意していた。緒戦における戦術的成功はあったものの、総合的にドイツ軍は大敗を喫し、休戦も不可能になるほどの戦力の格差が生じた。これ以降、ドイツは全面的に守勢に立たされることになる。
そもそも、ドイツ陸軍の初期の成功は電撃戦と奇襲によるものだった。しかし、戦線で対峙した状態において電撃戦はありえず、奇襲も困難である。しかも、「Zitadelle作戦」は、諜報によってソビエト陸軍に筒抜けになっていたのである。
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