ラオスとカンボジアの聖域
敗因としてよく言われるのは、ラオスとカンボジアの"聖域"である。南ヴェトナム領土は扇型だった。NLFはラオス・カンボジアの拠点から、南ヴェトナムのどの地域にも容易に侵入できた。一方、その縦長の国土は、US/ARVNに移動の困難をもたらし、縦深のない防衛を強いる結果になった。地勢がNLFに与えた戦略的優位性は無視できない。
しかしながら、ヴェトナム戦争中、"聖域"はまったく不可侵だったわけではない。1970年にアメリカはカンボジア侵攻を行い、1971年にARVNはラオスに侵攻、ホーチミンルートの遮断を試みている。ところが、これらの作戦以前に、"鉄のトライアングル"(サイゴン北方)やUミン森(メコンデルタ)など、南ヴェトナム領内にもNLFの拠点は存在した。そしてラオス、カンボジアいずれの侵攻作戦も成功しなかった。
また、第一次インドシナ戦争において、ヴェトナム戦争におけるアメリカのような政治的拘束のないフランス政府は、自由にラオス、カンボジア領内を行動できたがViet
Minに勝つことはなく、Dien Bien Phuは1954年に陥落している。
このように見るなら、アメリカ軍のヴェトナム戦争における敗因は"聖域"以上の要因があったと考えるべきである。
地下インフラストラクチュア
戦術レベルで論ずるなら、ヴェトナム戦争の戦闘の80%はVC/NVAによって口火を切られたものだった。VC/NVAは自発的に戦闘を開始することができ、戦場から離脱できた。これを可能にしていたのは、VC/NVAの持つ卓越した情報力であり、地下インフラストラクチュア
- 政治委員の浸透、民兵の動員、民間人のサポート、VCのネットワーク - の存在だった。
地下インフラストラクチュアは、戦術移動の優位、戦術情報、兵力の隠蔽、補給、兵員のリクルートをNLFに与えた。リクルートされた現地民兵は、戦区のゲリラ兵にアップグレードし、アップグレードしたゲリラ兵はやがてNVA正規兵に編入された。一方、アメリカ軍はヴェトナム戦争全般を通じて、戦力オッズでは優位でありながらも、交戦した敵を完全には壊滅できない、というジレンマを繰り返した。
1965年のIa Drang作戦では、数において優る米第一騎兵師団と圧倒的な砲爆撃力がありながら、米軍は挟撃したNVA二個連隊を殲滅できなかった。そのNVA連隊はやがて再編成され、他の前線に投入されたのである。
1967年のCedar Falls作戦も同様であり、アメリカ軍の攻勢に対し、メコンデルタのVC/NVAは"鉄のトライアングル"のどこかに消えた。この地域はサイゴンから20kmしか離れていない。一国の首都近郊で敵勢力が活動していること自体、共産陣営の戦術的、作戦的、戦略的優位を証明していた。
Khe Sanhの攻防はアメリカ軍の戦術の欠陥を顕著に現している。Khe SanhはNVA二個師団に包囲されたが、NVA側に多大の損害が生じ、NVAは撤退した。しかし1
Corpsゾーンで活動中の精鋭海兵師団、ARVNレンジャー、米特殊部隊らは、この敗走したNVAを壊滅できなかった。その結果、アメリカ軍は防衛戦には成功したものの、その年の7月に自発的にKhe
Sanhを放棄しなければならなかった。
これらの事実から、アメリカ軍の敗因は単純に政治的制約にだけもとめることはできず、欠陥は戦術レベルにも及んでいたことがわかる。
まとめ
第二次大戦型の米軍の損耗戦略では、より多くの火力はより多くの敵の損害を意味した。ヴェトナム戦争で投下された爆弾は第二次大戦でドイツ・日本に投下した量を上回る。B-52重爆撃機"アークライト"を南ヴェトナムの地上戦支援にも使ったことは、偶発被害(collateral
damage)が発生した点でも、本来の重爆撃機の目的からしても、戦術的な錯誤であった。空中機動力、空砲爆撃力と火力統制システムによる優位性のおかげで、アメリカ軍陣地が潰走したり壊滅することはなかったが、敵に大損害を与えることはあったとしても戦局の勝利にはつながらなかった。
戦史を通じて、通常、機動作戦は陣地戦に優ることが証明されている。Vo Nguyen Giap将軍は、自軍を「機動戦力」、アメリカ軍を「陣地戦力」と形容した。
1965年から67年までのアメリカ軍の戦略錯誤は、南ヴェトナム全土において、VC/NVAの捕捉と壊滅に失敗し、NLF勢力の増強を許した点である。アメリカ軍はVCとNVAの結集と拡大を阻止しなければならなかった。1968年にNLFが十分な数の師団を南ヴェトナムに展開できなかったなら、テト攻勢のインパクトはもっと小さなものであったか、攻勢そのものが不発に終わり、史実に見られたような1968年の共産勢力の心理・政治勝利宣言はなかったであろう。
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