これは我々の戦争だ: |
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背景
ラオスとカンボジアは独立国となり、ベトナムは17度線で南北に分断され、総選挙によるベトナム政権統一が1956年に予定された。 フランスに勝利したHo Chi Minh(ホーチミン)は共産主義で北ベトナムを統一、一方、南ベトナムの政治は、王室主義、右翼、仏教主義者に分断された。当時、北ベトナムが325,000名のベテラン兵を擁していたのに対し、南ベトナムには100,000名しかおらず、そのほとんどが敗戦国フランス軍に従軍していた兵士だった。 毛沢東をはじめとする多くの共産主義指導者は、インドネシアを含む世界の共産主義的軍事蜂起を支持していた。これに対するアメリカの政策は「封殺」であり、どの地域であろうと軍事蜂起に対しては、他の同盟国とともに軍事的に介入する、というものであった。そして、南北両政府ともに、選挙によってベトナムを統一する意思がなかった。
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ホーチミン対ゴ・ディン・ジェム
1954年6月、フランス傀儡政権時代の皇帝Bo Dai(バオ・ダイ)が南ベトナム政府の首相に任命したNgo Dinh Diem(ゴ・ディン・ジェム)は、政治的にはまったく知られていない人物だった。しかし、彼は反共産主義者であり、アメリカの支援を求めていた。Ngo Dinh Diemは首相兼ベトナム陸軍の司令官となり、武力によって南ベトナム政府を掌握、Bo Daiも含め、国内の政敵を倒すと「国民投票」によって大統領に就任、ベトナム共和国(Republic of Vietnam、以下、南ベトナムとする)を樹立した。アメリカは1956年に350名のMAAG(Military Advisory and Assistance Group)を派遣、軍事介入を開始した。 1959年、モスクワを訪問したHo Chi Minhはソビエト、中国らからの経済支援をとりつけ、40もの国内産業プロジェクトを開始した。経済ブームはHo政権に安定をもたらし、南ベトナム領内のゲリラ戦に力を注ぐことが可能になった。 |
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ホーチミン対ジョンソン大統領
1964年8月2日のトンキン湾事件によって、アメリカ議会は「自由な戦争権限」を政府に承認、11月の選挙でJohnson大統領が再選を果たすと、アメリカ合衆国は戦争への道ができた。そして1965年、北ベトナム侵攻を支持する将校グループが南ベトナムの政権を掌握すると、両国の政治目標は完全に一致した。しかし、Ho Chi Minhの方が動きが早かった。NVA(North Vietnam Army)は、アメリカの軍事介入が本格化する前に南ベトナムを叩く必要があったのだ。
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Dong-Xuanキャンペーン (冬春の攻勢)
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しかし、アメリカ軍の勝利
3月、Da Nangに米第9海兵連隊の先遣隊が到着、表向きはDa Nang基地の守備だったが、実際にはNVAの侵入を防ぐために、南ベトナム領北三分の一をカバーすることが目的だった。以後、Da Nang基地はNLFの攻撃を何度も受ける。 5月、Saigon北部の空港守備のために米第173空挺旅団がBien Hoaに配置、各地で連隊規模のNVA、NLFとの散発的な戦闘が発生する中、7月、中央高原のAn Kheに配置された第1騎兵師団が二個師団相当のNVAと激しく交戦する。これまでにない規模の戦闘に対し、Bien Hoaの第173空挺旅団が投入され、戦いはNVAが撤退する9月まで続いた。 同時に海岸部のChu Lai周辺でもNLFの活動が活発化、8月、アメリカ軍はスターライト作戦を実施、三個大隊で1,500名のNLF第一連隊を攻撃、NLF側は614名の死傷者を出して壊滅する。この戦闘は、NLFに対する米軍戦闘部隊初の正規作戦と言われる。 そして11月、アメリカ軍とNVAの最初の大規模な地上戦を繰り広げる。中央高原の戦闘でIa Drang(イア・ドラン)渓谷に撤退したNVAが、第66旅団との連携を求めてPlei Meを総攻撃したことがきっかけたった。この戦いは、、米第7騎兵隊のChu Pongへの投入やその他の空中機動部隊の支援で米軍の勝利に終わったが、米軍にも大きな損害が生じた。Ia Drang渓谷の戦いはMel Gibson主演「We Were Soldiers」で2002年に映画化されている。 |
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結論
米第173旅団は、機動化した旅団がベトナムのどこにでも数時間で展開できることを証明した。1965年に大規模なパラシュート作戦がなかったにもかかわらず、第173旅団の勝利は第二次大戦後の空挺戦術を根本から塗り替えた。 さらに、米第1騎兵師団は未来の戦いを実現した。ヘリコプターは数分のうちに師団を戦場に送ることを可能にし、空中機動で送られた師団は強力な地上支援を行った。 実際、部隊の機動能力があまりにも高まったため、規範的な戦法の重要性は失われた。師団および旅団司令官は、両翼の師団・旅団との相互支援を無視して、ひたすら前進した。戦場における通常の部隊密度よりも、速度とショック効果に優先順位が置かれたからある。 ほんどの場合、米軍の機動単位は大隊か中隊だった。NVAおよびNLFの連隊に米軍の旅団全体が交戦することはなかった。大規模な敵勢力に小規模の味方部隊を露出させる戦法は、米軍に多大の犠牲を生んだ。ひとたびアメリカ軍が戦闘をはじめると、空中および大規模な砲爆撃の支援を受けた。しかし、待ち伏せを受けたNVA、NLFはヒットアンドラン戦法で姿を消し、必要な戦力をキープできた。 1966年になっても、米軍はなおもNVAの侵攻を食い止める壁だったが、戦争は長期化したのである。 |
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