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これは我々の戦争だ:
ベトナム1965

 

背景

1954
1954年5月8日、フランス軍基地・Dien Bien Phuの陥落によって、東南アジアに対するフランス植民地政策は終りを告げた。
ラオスとカンボジアは独立国となり、ベトナムは17度線で南北に分断され、総選挙によるベトナム政権統一が1956年に予定された。
フランスに勝利したHo Chi Minh(ホーチミン)は共産主義で北ベトナムを統一、一方、南ベトナムの政治は、王室主義、右翼、仏教主義者に分断された。当時、北ベトナムが325,000名のベテラン兵を擁していたのに対し、南ベトナムには100,000名しかおらず、そのほとんどが敗戦国フランス軍に従軍していた兵士だった。

毛沢東をはじめとする多くの共産主義指導者は、インドネシアを含む世界の共産主義的軍事蜂起を支持していた。これに対するアメリカの政策は「封殺」であり、どの地域であろうと軍事蜂起に対しては、他の同盟国とともに軍事的に介入する、というものであった。そして、南北両政府ともに、選挙によってベトナムを統一する意思がなかった。


ホーチミン対ゴ・ディン・ジェム

1955
フランスに軍事的に勝利して以来絶大な人気を誇るHo Chi Minhは、選挙で南北を統一することも不可能ではなかった。しかし、彼は政権の安定と国内経済復興に追われ、ジュネーブ会議後も、南ベトナムに物資と政治員、主に農村部に北ベトナム兵を浸透させ続けていた。南ベトナム領内に作られた軍事組織はNLF (National Liberation Front、ベトナム解放戦線) と命名され、米軍はこの組織をベトコンと呼んだ。

1954年6月、フランス傀儡政権時代の皇帝Bo Dai(バオ・ダイ)が南ベトナム政府の首相に任命したNgo Dinh Diem(ゴ・ディン・ジェム)は、政治的にはまったく知られていない人物だった。しかし、彼は反共産主義者であり、アメリカの支援を求めていた。Ngo Dinh Diemは首相兼ベトナム陸軍の司令官となり、武力によって南ベトナム政府を掌握、Bo Daiも含め、国内の政敵を倒すと「国民投票」によって大統領に就任、ベトナム共和国(Republic of Vietnam、以下、南ベトナムとする)を樹立した。アメリカは1956年に350名のMAAG(Military Advisory and Assistance Group)を派遣、軍事介入を開始した。

1959年、モスクワを訪問したHo Chi Minhはソビエト、中国らからの経済支援をとりつけ、40もの国内産業プロジェクトを開始した。経済ブームはHo政権に安定をもたらし、南ベトナム領内のゲリラ戦に力を注ぐことが可能になった。
Ngo Dinh Diemは、朝鮮戦争のような奇襲攻撃を恐れ、17度線にARVN (Army of Republic Vietnam、南ベトナム政府軍) の大半を配備した。それに対し、南ベトナム領内で活動するNLFは、農村部に対するサイゴン政府の影響力を断ち切ることを目標に、農村部の警察署、軍事拠点、政治組織を攻撃しながら、都市部を包囲しはじめた。1963年11月1日、Diem政権がクーデターにより崩壊、政治的混乱に乗じたNLFの攻勢が増加した。事実上壊滅状態にある南ベトナム政府が、北ベトナムの侵攻に対して有効な防御戦ができるとは到底思えなかった。

ホーチミン対ジョンソン大統領

1964
1964年に次期大統領選挙を控えたジョンソン大統領(Lyndon B. Johnson)は、「共産主義者に屈しない政治家」である必要があった。米陸軍参謀本部は1961年10月の時点において、3個師団でNLFを壊滅、さらに10個師団を投入でNVAおよび中国軍の国境侵犯を阻止できる、と見積もっており、ホワイトハウスは、アメリカの選挙民が反対票にまわるほどの多数の犠牲者を出さずに1964年までにベトナム平定が達成できる、と判断した。

1964年8月2日のトンキン湾事件によって、アメリカ議会は「自由な戦争権限」を政府に承認、11月の選挙でJohnson大統領が再選を果たすと、アメリカ合衆国は戦争への道ができた。そして1965年、北ベトナム侵攻を支持する将校グループが南ベトナムの政権を掌握すると、両国の政治目標は完全に一致した。しかし、Ho Chi Minhの方が動きが早かった。NVA(North Vietnam Army)は、アメリカの軍事介入が本格化する前に南ベトナムを叩く必要があったのだ。


アメリカの軍事介入
ベトナムに対するアメリカの軍事介入は、第二次大戦までさかのぼることができる。CIAの前身OSS(Office of Strategic Serives)が日本軍へのゲリラ戦を支援したことにはじまり、当時のアメリカはHo Chi Minhも支援していた。
日本軍の降伏とともに、フランス支配の復活を望むアメリカと、それに反対するベトナム・ゲリラとの間で利害の対立が生じ、1945年にはOSS将校がベトミンから暗殺されている。

表向きにフランスを支援できないアメリカは、武器や技術供与を行い、1949年までには75万ドルの秘密資金がインドシナの反共活動に費やされ、1950年6月28日には8機のC-47によってはじめての軍事物資の空輸が行われた。支援の金額はその後も増え続け、1954年までに総額30億ドルになった。


1961年、 McNamaraとNgo Dinh Diem


1961

Dong-Xuanキャンペーン (冬春の攻勢)
NVAは、戦争に当初から絶対的な自信を持っていた。Nguyen Chi Thanh将軍が立案した作戦は、二個師団によって南ベトナムを中央で分断するもので、一年以内でアメリカ・南ベトナム軍に勝利する予定だった。このプランによれば、一個師団がカンボジア領からベトナム中部高原のPleikuに侵攻、別な一個師団がAn Lao Valleyに拠点を築き、海岸部のBong SonとQui Nohnを占領する。これが成功すると、国道1、14号線は遮断され、17度線に配置されたARVNは孤立、アメリカ軍は、北半分の南ベトナム領を放棄するか、空と海からこの領土を支援しなければならなくなる。


しかし、アメリカ軍の勝利

1966
1965年1月の旧正月(テト)、NVA第18、22連隊とNLFの主力連隊がAn Lao Valleyに進出、秘密裏に拠点を築くと、その月の終わりまでに沿岸部のBong Sonを占領した。
3月、Da Nangに米第9海兵連隊の先遣隊が到着、表向きはDa Nang基地の守備だったが、実際にはNVAの侵入を防ぐために、南ベトナム領北三分の一をカバーすることが目的だった。以後、Da Nang基地はNLFの攻撃を何度も受ける。
5月、Saigon北部の空港守備のために米第173空挺旅団がBien Hoaに配置、各地で連隊規模のNVA、NLFとの散発的な戦闘が発生する中、7月、中央高原のAn Kheに配置された第1騎兵師団が二個師団相当のNVAと激しく交戦する。これまでにない規模の戦闘に対し、Bien Hoaの第173空挺旅団が投入され、戦いはNVAが撤退する9月まで続いた。

同時に海岸部のChu Lai周辺でもNLFの活動が活発化、8月、アメリカ軍はスターライト作戦を実施、三個大隊で1,500名のNLF第一連隊を攻撃、NLF側は614名の死傷者を出して壊滅する。この戦闘は、NLFに対する米軍戦闘部隊初の正規作戦と言われる。

そして11月、アメリカ軍とNVAの最初の大規模な地上戦を繰り広げる。中央高原の戦闘でIa Drang(イア・ドラン)渓谷に撤退したNVAが、第66旅団との連携を求めてPlei Meを総攻撃したことがきっかけたった。この戦いは、、米第7騎兵隊のChu Pongへの投入やその他の空中機動部隊の支援で米軍の勝利に終わったが、米軍にも大きな損害が生じた。Ia Drang渓谷の戦いはMel Gibson主演「We Were Soldiers」で2002年に映画化されている。

結論

1966
米軍の勝利の理由は、最初のNVAとの大規模戦闘の時から新戦術を用いたことだった。海兵隊は戦場に"立体環境"の概念を導入、地上部隊が敵勢力を釘付けにしながら、ヘリコプター部隊が敵背後に部隊を展開、敵の退路を絶った。
米第173旅団は、機動化した旅団がベトナムのどこにでも数時間で展開できることを証明した。1965年に大規模なパラシュート作戦がなかったにもかかわらず、第173旅団の勝利は第二次大戦後の空挺戦術を根本から塗り替えた。
さらに、米第1騎兵師団は未来の戦いを実現した。ヘリコプターは数分のうちに師団を戦場に送ることを可能にし、空中機動で送られた師団は強力な地上支援を行った。
実際、部隊の機動能力があまりにも高まったため、規範的な戦法の重要性は失われた。師団および旅団司令官は、両翼の師団・旅団との相互支援を無視して、ひたすら前進した。戦場における通常の部隊密度よりも、速度とショック効果に優先順位が置かれたからある。
ほんどの場合、米軍の機動単位は大隊か中隊だった。NVAおよびNLFの連隊に米軍の旅団全体が交戦することはなかった。大規模な敵勢力に小規模の味方部隊を露出させる戦法は、米軍に多大の犠牲を生んだ。ひとたびアメリカ軍が戦闘をはじめると、空中および大規模な砲爆撃の支援を受けた。しかし、待ち伏せを受けたNVA、NLFはヒットアンドラン戦法で姿を消し、必要な戦力をキープできた。
1966年になっても、米軍はなおもNVAの侵攻を食い止める壁だったが、戦争は長期化したのである。

 

年 表
1964年 8月2-4日 トンキン湾事件。
  11月2日 大統領選挙でJonson大統領が再選。
  12月24日 NLFが1,500名の兵力で、サイゴン南東60qにあるビンザー村を攻撃。戦闘は一週間続きアメリカ人5名、ARVN160名、NLF480名の死者を出す。
1965年 1月20日 Jonson大統領の宣誓「我々はかつてのように名誉ある孤立を保つことはできない。外国の出来事だとみなしていた危険と脅威が、我々の中に潜入しつつある...」
  1月27日 Khanh将軍が南ベトナム政権を掌握。
  2月6日 NLFがPleikuの米軍基地を攻撃、6名死亡、126名負傷、10機の米軍機を破壊。
  2月7日 Flaming Dart作戦。米海軍機がDong Hoi周辺のNVAキャンプを空爆。大統領の支持率は70%に上昇、80%のアメリカ人がベトナム戦争を支持した。
  2月18日 軍事クーデターでKhanh将軍が失脚、Dr. Phan Huy Quatが政権を握る。
  3月2日 Rolling Thunder作戦。北ベトナム領内とHo Chi Minh trailの空爆開始。(当初8週間で終了するはずだったこの作戦は3年続いた。第二次大戦の4倍の爆弾・計800万トンが投下され、この数字は史上最大である)
  3月8日 Da Nangの防衛のため、米海兵隊が「公式な」最初の戦闘部隊としてChinaビーチに上陸、23,000名の米軍事顧問と合流する。
  3月11日 Market Time作戦。米海軍と南ベトナム海軍のこの共同作戦は、北ベトナムの海上補給を遮断することだった。作戦は成功し、以後NVAは陸の補給路を増強する。
  3月29日 NLFがSaigonの米大使館を攻撃。
  5月3日 第173空挺旅団がSaigon北に到着。
  5月11日 NLFがPhuoc LongのARVNを撃退、南ベトナム各地でNLFの攻撃。
  6月18日 Nguyen Cao Kyが政権掌握。
  7月1日 NLF、Da Nang空軍基地を攻撃、三機の米航空機を破壊。
  8月上旬 Da Nangでの交戦が続く。
  8月18-24日 Starlite作戦。 1500名のNLFがChu Laiの米空軍基地への攻撃を計画していた。NLF連隊は戦術を誤り壊滅、アメリカ軍の大勝利となった。
  10月19日 Ia Drang渓谷の戦いの前哨戦。NVA、Plei Meの米特殊部隊を攻撃。
  11月14-16日 Ia Drang渓谷の戦い。米軍とNVAとの最初の大規模な交戦。米第1騎兵師団による空中機動戦、B-52によるはじめての地上戦闘支援。2日間にわたる戦闘でNVAは約2000名の損害を出し敗退。米軍の損害は79名の死亡と121名の負傷だった。
  12月4日 Saigonのホテルで爆弾、8名の米兵が死亡、137名が負傷。
    この年の終わりまでに地上部隊として投入された米兵の数は184,000名である。南ベトナムに浸透していたNVAの総数は35,000名と推定され、南ベトナム領土の50%はNLFがコントロールしていた。
     
1966年 1月28-3月6日 Masher作戦。後にWhite Wing作戦と改名された42日間にわたるこの作戦はBong Sonにおけるもので、米第1騎兵師団が再び空中機動戦を行った。米側の損害は228名の死亡と788名の負傷、NVA側の死亡者数は1,342名と言われる。
  4月 B-52を北爆に投入、この年の春から秋にかけて北爆は戦争中の最大規模となる。
  5月 毎月4,500名のNVAが南ベトナム領内に潜入していると米国防省は推定。戦争は長期化する。
     

(c) Larry Burrows Collection

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