Allied fiasco at Dieppe 1942
#265 Nov 2010

してはならないリハーサル: ディエップ1942

1942年8月19日未明、230隻の艦船に分乗した6,000名の連合軍は、フランス北西部のディエップ港に向かっていた。

上陸後6時間で撤収するはずだったディエップ上陸作戦(ジュビリー作戦)は、イギリス・カナダ軍にとって歴史上まれに見る惨事となった。主な原因は、この奇襲作戦が政治的妥協の産物だったことである。

かねてからソビエト連邦は、東部戦線におけるドイツ軍の戦力を分散させるために、連合軍に対し西部戦線の発端を開くことを要求していた。
それに対する連合国の回答は、1943年8月か9月に百万人規模の上陸作戦を行う、という漠然としたものだった。しかし1942年になってチャーチル首相は、何らかの軍事アクションをヨーロッパでおこすという国内世論にまけ、親友の元帥ルイス・マウントバッテン卿に、上陸作戦の立案を命じた。

マウントバッテン卿らが港町ディエップを奇襲上陸地点に選んだ理由は三つあった。第一に、二個旅団で占領できる小さな都市であり、港からの上陸が容易と思われたこと。第二に、イギリスのNewhavenから100kmの近さであり、闇に乗じて上陸でき、昼間は連合軍空軍が支援できたこと。第三に、ドイツ側の防御が手薄であったこと。
ディエップを守備するドイツ軍は、一個歩兵大隊であると考えられていた。

しかし、フランス人の二重スパイによって情報を得ていたドイツ軍は、ディエップ海岸に防衛体制を敷き、防御が手薄に見えるよう偽装までしていた。その結果行った奇襲上陸作戦は、「ノルマンディー上陸作戦のためのしてはならないリハーサル」となった。

ジュビリー作戦では連合軍側に1,400人の死者と2,000人の捕虜が出た。午前11時に撤退命令が出た時、脱出用舟艇はドイツ空軍と砲兵の攻撃にさらされており、帰還できた兵士は1,000名にも満たなかった。

ディエップ上陸作戦で連合軍が学んだことは、1. 準備砲爆撃を行うべきであったこと、2. 要塞化された陣地への正面攻撃はしてはならないこと、3. 港でなくとも上陸できたこと、であった。

付録ゲーム「Operation Jubilee: Dieppe, August 1942」
連合軍の立場からプレイするソロゲーム。ドイツ軍ユニットは裏向きに配置され、その移動と攻撃はアクションチットと攻撃優先表によって決定される。上陸作戦を表現するために重火器、工兵、鉄条網の特別ルールがある。通常のゲームでは、降伏はユニットの除去として扱われるが、このゲームには「ユニットの降伏」ルールがある。

Operation Jubilee iWARSIMモジュールファイル

 

ラインバッカー作戦

1972年3月30日未明、NVA(北ベトナム軍)の三個師団が非武装地帯を越えて南ベトナムに侵入した。
この部隊は、四つの地域で同時に行われる攻勢の先遣隊であり、VC(ベトコン)の大攻勢 -イースター攻勢- と連動していた。
NVAの目標のひとつはAn Loc市の占領であり、この都市はSaigon市を攻撃するのに絶好の位置にあった。

リチャードニクソン大統領は1968年の就任時、「ベトナムからの名誉ある撤退」を公約にうたっていた。1972年までにベナム駐留兵は95,000名まで減っており、アメリカ地上部隊は大規模な撤退を開始していた。イースター攻勢が開始した時、アメリカ軍の多くは支援部隊だった。ハノイ政府は、このような理由から、アメリカ軍は限定的な反撃しか行わないと予想していた。

北ベトナムの予想ははずれだった。アメリカ空軍は獰猛な攻撃部隊を極東に擁しており、ニクソン大統領はこれを北ベトナムに投入することに躊躇しなかったからである。
4月4日からアメリカ空軍による報復が始まり、一ヶ月の間にF-4、F-105、EB-66、B-52が北ベトナム領を戦術的、戦略的に攻撃した。

 

ローマ人のイギリス征服

イギリスが鉄器時代だったBC55年、ジューリアス・シーザー率いるローマ艦隊は、WalmerとDeal間の海岸(ドーヴァーの白い崖付近)を航海していた。

ローマ人達が接岸に適した海岸を探している一方で、イギリスの戦士達は、海岸での決戦を仕掛けるべく崖の上に結集していた。彼らの体にはボディポイントが塗られ、入れ墨が彫られていた。

最初に海岸に降りたのはローマ軍団兵だった。彼らは腰まで水に浸かって進み、「野蛮人」と戦って撃退した。

シーザーのDeal上陸は、イギリス占領のためではなく偵察だった。


ボールズブラフの戦い

ワシントンからポトマック川沿いの数マイル上流のグリフィン基地で、北軍ジョージ・マクレラン少将は「次の勝利」というプレッシャーに直面していた。
それは1861年秋のことであり、第一次ブルランの戦いで北軍が敗北してから数ヶ月が経過していた。その後、リンカーン大統領はマクレランを全北軍の総司令官に指名し、彼に「結果」を求めていた。

冬の到来は早く、議会は性急であり、召集兵の兵役期間は終わろうとしていた。何かを起こさなければならないという周囲の空気とは別に、マクレラン少将には思惑があった。彼にとって、ブルランの戦いによって失墜した兵士の士気を取り戻すことが最優先事項であり、早急に事をおこすつもりはなかった。

南軍ポトマック軍の司令官、ジョセフ・E・ジョンストン中将もまた慎重な指揮官だった。ジョンストン中将は、マクレランの北軍の方が数においてまさっていることを知っていたので、条件が整うまで戦うつもりはなかった。
ジョンストン中将は、バージニアのセンタービル近郊に兵を結集させていた。そこには冬を越すだけの十分な食料があった。

その時までの戦闘は、双方の前哨隊による散発的な射撃だけだった。

 



「(国際通信社)新撰組始末記 鴨川血風録」

「新撰組始末記 鴨川血風録」をプレイしました。
S&Tに慣れた自分からすれば新鮮なゲームで、マップの美しさや、30分でインスト、プレイ開始できる手頃感もいいと思います。

ゲームスケールは、1ユニット1人。独創的な移動システムと戦闘システムがよくできています。
ゲームの流れは、昼間、隊列を組んで勤王派と切り合うために出かけ、夜になると宿屋に戻るイメージです。ただし、ゲームスケールではこれが半年です。半年ごとに暴れ回っている、と考えればいいかもしれません。
ユニットは、死んでも「違う人」になって再登場します。

司馬遼太郎の小説を読むと、隊士は場数を踏むほど自信がついて斬り合いが強くなっています。
ハウスルールで、「斬り合いで一人殺すごとにユニットの戦闘力が1増える。」というのを設けてもいいかもしれません。

ゲームの世界で、幕末動乱期のテーマが増えているのはいいことですね。

2010年11月14日(日)