1942年8月19日未明、230隻の艦船に分乗した6,000名の連合軍は、フランス北西部のディエップ港に向かっていた。
上陸後6時間で撤収するはずだったディエップ上陸作戦(ジュビリー作戦)は、イギリス・カナダ軍にとって歴史上まれに見る惨事となった。主な原因は、この奇襲作戦が政治的妥協の産物だったことである。
かねてからソビエト連邦は、東部戦線におけるドイツ軍の戦力を分散させるために、連合軍に対し西部戦線の発端を開くことを要求していた。
それに対する連合国の回答は、1943年8月か9月に百万人規模の上陸作戦を行う、という漠然としたものだった。しかし1942年になってチャーチル首相は、何らかの軍事アクションをヨーロッパでおこすという国内世論にまけ、親友の元帥ルイス・マウントバッテン卿に、上陸作戦の立案を命じた。
マウントバッテン卿らが港町ディエップを奇襲上陸地点に選んだ理由は三つあった。第一に、二個旅団で占領できる小さな都市であり、港からの上陸が容易と思われたこと。第二に、イギリスのNewhavenから100kmの近さであり、闇に乗じて上陸でき、昼間は連合軍空軍が支援できたこと。第三に、ドイツ側の防御が手薄であったこと。
ディエップを守備するドイツ軍は、一個歩兵大隊であると考えられていた。
しかし、フランス人の二重スパイによって情報を得ていたドイツ軍は、ディエップ海岸に防衛体制を敷き、防御が手薄に見えるよう偽装までしていた。その結果行った奇襲上陸作戦は、「ノルマンディー上陸作戦のためのしてはならないリハーサル」となった。
ジュビリー作戦では連合軍側に1,400人の死者と2,000人の捕虜が出た。午前11時に撤退命令が出た時、脱出用舟艇はドイツ空軍と砲兵の攻撃にさらされており、帰還できた兵士は1,000名にも満たなかった。
ディエップ上陸作戦で連合軍が学んだことは、1. 準備砲爆撃を行うべきであったこと、2. 要塞化された陣地への正面攻撃はしてはならないこと、3.
港でなくとも上陸できたこと、であった。
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