The Battle of Shiloh
6 - 7 April 1862

#264 September 2010

シャイローの戦い 1862年

シャイローとは、ヘブライ語で「平和な土地」を意味する。
1862年4月6日から7日の二日間、テネシー州南西部で繰り広げられたこの戦闘は、北軍と南軍計10万名が激突した南北戦争最大級の戦闘だった。この戦闘による犠牲者数は、前年のブルランの戦いの5倍であり、この時までのアメリカ史上、最多だった。

南軍はその年の2月までに壊滅的な打撃を受けていた。北軍はテネシー川河口を占領、重要な鉄道連絡駅であるミシシッピ州コリンスを脅かす位置にまで来ていたのである。
4月6日に南軍が仕掛けた作戦は、ユリシーズ・グラント少将(北軍)率いるテネシー軍がドン・カルロス・ビューエル少将のオハイオ軍と合流するのを防ぐことが目的だった。

戦いの一日目、南軍の接近を予想してなかったテネシー軍は敗北寸前まで追い込まれた。南軍のボーリガード将軍は翌朝の勝利を確信、デイヴィス大統領(連合)に「完璧な勝利」と電報を打っていた。ところがその夜、オハイオ軍15,000名がテネシー軍に合流したため、形勢が逆転したのである。北軍1,754名、南軍1,728名の戦死者数を出しながら、戦いは北軍の辛勝に終わった。

最終的に北軍の勝利となったものの、グラント将軍にとって、シャイローの戦いは自身の経歴を傷つけるものとなった。リンカーン大統領の有名な介入、"I can't spare this man; he fights."がなければ、彼はライバルの将軍によって解任されるところだった。
一方、シャーマン准将は英雄として名を知られるようになった。4月6日の夜の戦場における彼の働きは誰もが目撃した事実であった。

付録ゲーム「Shiloh: Bloody April, 1862」
ゲームデザイナーが考えなければならないことは、プレイヤーを当時の指揮官の視点に置くことである。Paul Koenigがデザインし私がテストプレイした「Shiloh: Bloody April, 1862」では、双方の「指揮官」が絶えざる重大局面に遭遇する。このゲームは、僅差で圧倒的な勝利が得られるか、完全な敗北に終わるゲームである。

南軍は、北軍の勢力が結集する前に勝たなければならない。北軍は、反撃できるポジションまで素早く移動しなければならない。

南軍の奇襲、グラント将軍(北軍)の反撃、などの複数のシナリオが用意されている。ゲームはZOCを採用し、戦闘結果表は消耗が激しくなるよう作られている。リーダーシップの重要性を表現するため司令部ユニットは戦略移動を容易にし、戦闘結果を良くする。悪名高いホーネッネストや森を表現する特別ルールがある。

 

フラニ戦争

ハウサ諸王国は、かつて西アフリカに存在した都市群国家のひとつである。ナイジェリア北部に住むハウサ族が建設したと言われ、15世紀ぐらいまでは周辺都市と合従連衡を繰り返しながら拡大し、次いで縮小し、19世紀にはNiger河からChad湖までの範囲を支配していた。

フラニ族は、北アフリカから南下してきた遊牧民で、10世紀ごろからハウサ諸王国内に定住しはじめた。19世紀には、フラニ族の人口はハウサ諸王国の4分の1程度になっていた。数世紀の時間の中でフラニ族は農民と遊牧民とに分かれ、さらにイスラム教信者と現地の偶像崇拝者とに明確に分かれていた。

ウスマン・ダン・フォディオ
ウスマン・ダン・フォディオは、1754年、ハウサ諸王国のひとつゴビール王国に生まれた。高い教育を受け、イスラム教に深く帰依したウスマンは、スーフィズム(イスラム神秘主義)に傾倒した。敬虔さとカリスマ性を持った彼は、10代から信者を従えていた。

ウスマンは、イスラム教改革のために非イスラム的な習慣を捨てるべきだと唱えた。彼はまた、ハウサ王は腐敗しておりフラニ族を搾取していると非難した。この主張は、マイノリティとして何世紀もの間支配されていたフラニ族から支援された。

ゴビール王国で多くの支持者を得たウスマンは、1780年から5年間ケビ王国を遊説、さらに多くの支持者を集め、ハウサ国王も無視できないほど強力な聖職者になった。1804年、国王との仲が険悪になると、ウスマンはジハードを宣言した。彼はわずか5年でハウサ諸王国を滅ぼし、ソコトで帝位に就いたのだった。

目標アントワープ: ヒトラーのアルデンヌ攻勢

アメリカ軍事史においてバルジの戦いから容易に想起される地名は、バストーニュ、サン・ヴィット、エルセボーン、マルメディであり、アントワープではない。しかしながら、ベルギーのこの港町こそがドイツ軍の最終目標だった。

2008年のロシア・グルジア戦争

ソビエト連邦の崩壊後、南オセチアとアブハジアは、国際的にはグルジア共和国の一部とみなされていた。しかしながら、同地域に住む人々の多くはグルジア人とは異なる民族であり、その民族的対立は流血の抗争にまで発展していた。
欧州安全保障機構(OSCE)は監視団を派遣したが、両者の停戦は長く続かなかった。

ロシアは南オセチアとアブハジアの独立を支持、プーチン首相(当時)はグルジア共和国大統領サアカシュヴィリを嫌悪していたと言われる。一般に、国際社会は、コソボがセルビアから独立して以来、旧ソビエト領の分離と独立には好意的であり、プーチンはこの理論を逆手に取って、南オセチアとアブハジアの分離と独立を支援した。

この地域紛争に勝つためにグルジア政府が行ったことは、西側諸国への接近だった。サアカシュヴィリ大統領は、NATOへの加盟のために西側でロビー活動を行い、アメリカは軍事トレーナーをグルジアに派遣した。グルジアはアメリカのイラク戦争を支持、派兵さえ行っている。グルジア共和国はまた、アゼルバイジャンに隣接する地域に油田を開発したが、ロシアと中東以外のエネルギー源を欲していた西側諸国にとって、これは望ましい変化だった。

この動きがモスクワの反発を招かないはずはなく、ロシアは国境の軍隊を増援すると同時に、南オセチアとアブハジアとの政治的結束を強化した。2007年までに、90パーセントのオセチア人はロシアパスポートを持っていた。
2008年5月、 ロシア政府は、「南オセチアの独立主義者は、ロシア市民と同等の地位を持つ市民であり、これらの市民に対する弾圧は許されるものではない。」との声明を発表した。

ロシアとグルジアは、お互いに相手が戦争をはじめたと主張しているが、少なくとも、8月の第一週から始まった本格的な交戦よりも前に、ロシアは本格的なサイバー戦争をグルジア共和国に仕掛けていた。
DDoS攻撃によってグルジアの政府と民間の通信システムは断絶状態になり、VOIPを使った電話システムもまた深刻な打撃を受けた。この攻撃のために、グルジア政府はWEBサイトをアメリカに移さなければならなかった。

8月1日になると、南オセチアで警察車両が爆破され6名の警察官が負傷した。夜までに各地で交戦が始まり、南オセチアの首都ツヒンバリには迫撃砲弾が落下した。翌2日にはロシアの「平和維持部隊」兵士が負傷、モスクワは軍事介入を示唆しながら、サアカシュヴィリ大統領に対し、ロシア・グルジア・南オセチア・アブハジアによる停戦会議を呼びかけたが、グルジアはこれを一方的な解決であるとして拒絶した。

8月4日(8日とも言われる)、ロシア135機械化ライフル連隊が先遣隊としてロキトンネル経由で南オセチアに侵入、首都ツヒンバリ北部を制圧した。それに対し、グルジア軍は作戦名「地域一掃作戦」に基づいてツヒンバリを強襲、ここにロシア・グルジア戦争がはじまったのである。

アブハジア沖海戦
数度にわたる激しい攻防戦によって、首都ツヒンバリは廃墟になった。結局、南オセチアのグルジア軍は全滅に近い損害を受け、ツヒンバリから撤退なければならなかった。

一方、ロシアは、アブハジア沖に黒海艦隊を派遣、8月9日(10日ともいわれる)、スクミ沖でミサイル艇と哨戒艇を含む5隻のグルジア海軍と交戦、これを撃退した。ロシア海軍も二隻が損害を受け、この海戦は第二次大戦以来の本格的な水上戦だった。

8月14日には港湾都市ポチにロシアの空挺部隊が降下、港湾のグルジア海軍施設を破壊した。アブハジアと南オセチアの占領によって、グルジアは黒海へのアクセスを失い、ロシアはグルジア国内の東西幹線道路を押さえた。グルジア軍に残された抵抗の道は首都トリビシの防衛だけだった。

結末
紛争開始から一週間後、フランス大統領サルコジらの介入によって、グルジアとロシアは部分的な合意によって停戦した。ロシア軍の損害は死亡74名、負傷174名、グルジア軍は200名の死亡者が出ており、戦闘は2009年になっても続いている。

この戦争において、グルジア軍は8月7日に南オセチアに総攻撃を仕掛けているが、この時彼らは、ロシア軍が10倍の兵力を同地域に集結していたことを知っていた。
サアカシュヴィリ大統領と防衛大臣がグルジア軍のすべてをコントロールしていたが、彼らは、専門の軍事教育を受けていなかった。
サアカシュヴィリ大統領は、チェチニア紛争の時のようにロシア軍の反応は鈍重であると予想していたのかもしれないし、ロシア軍が十分に持っていない最新兵器とNATOとアメリカ軍による近代戦術によって、過小な兵力でも勝てると考えていたのかもしれない。