ソビエト連邦の崩壊後、南オセチアとアブハジアは、国際的にはグルジア共和国の一部とみなされていた。しかしながら、同地域に住む人々の多くはグルジア人とは異なる民族であり、その民族的対立は流血の抗争にまで発展していた。
欧州安全保障機構(OSCE)は監視団を派遣したが、両者の停戦は長く続かなかった。
ロシアは南オセチアとアブハジアの独立を支持、プーチン首相(当時)はグルジア共和国大統領サアカシュヴィリを嫌悪していたと言われる。一般に、国際社会は、コソボがセルビアから独立して以来、旧ソビエト領の分離と独立には好意的であり、プーチンはこの理論を逆手に取って、南オセチアとアブハジアの分離と独立を支援した。
この地域紛争に勝つためにグルジア政府が行ったことは、西側諸国への接近だった。サアカシュヴィリ大統領は、NATOへの加盟のために西側でロビー活動を行い、アメリカは軍事トレーナーをグルジアに派遣した。グルジアはアメリカのイラク戦争を支持、派兵さえ行っている。グルジア共和国はまた、アゼルバイジャンに隣接する地域に油田を開発したが、ロシアと中東以外のエネルギー源を欲していた西側諸国にとって、これは望ましい変化だった。
この動きがモスクワの反発を招かないはずはなく、ロシアは国境の軍隊を増援すると同時に、南オセチアとアブハジアとの政治的結束を強化した。2007年までに、90パーセントのオセチア人はロシアパスポートを持っていた。
2008年5月、 ロシア政府は、「南オセチアの独立主義者は、ロシア市民と同等の地位を持つ市民であり、これらの市民に対する弾圧は許されるものではない。」との声明を発表した。
ロシアとグルジアは、お互いに相手が戦争をはじめたと主張しているが、少なくとも、8月の第一週から始まった本格的な交戦よりも前に、ロシアは本格的なサイバー戦争をグルジア共和国に仕掛けていた。
DDoS攻撃によってグルジアの政府と民間の通信システムは断絶状態になり、VOIPを使った電話システムもまた深刻な打撃を受けた。この攻撃のために、グルジア政府はWEBサイトをアメリカに移さなければならなかった。
8月1日になると、南オセチアで警察車両が爆破され6名の警察官が負傷した。夜までに各地で交戦が始まり、南オセチアの首都ツヒンバリには迫撃砲弾が落下した。翌2日にはロシアの「平和維持部隊」兵士が負傷、モスクワは軍事介入を示唆しながら、サアカシュヴィリ大統領に対し、ロシア・グルジア・南オセチア・アブハジアによる停戦会議を呼びかけたが、グルジアはこれを一方的な解決であるとして拒絶した。
8月4日(8日とも言われる)、ロシア135機械化ライフル連隊が先遣隊としてロキトンネル経由で南オセチアに侵入、首都ツヒンバリ北部を制圧した。それに対し、グルジア軍は作戦名「地域一掃作戦」に基づいてツヒンバリを強襲、ここにロシア・グルジア戦争がはじまったのである。
アブハジア沖海戦
数度にわたる激しい攻防戦によって、首都ツヒンバリは廃墟になった。結局、南オセチアのグルジア軍は全滅に近い損害を受け、ツヒンバリから撤退なければならなかった。
一方、ロシアは、アブハジア沖に黒海艦隊を派遣、8月9日(10日ともいわれる)、スクミ沖でミサイル艇と哨戒艇を含む5隻のグルジア海軍と交戦、これを撃退した。ロシア海軍も二隻が損害を受け、この海戦は第二次大戦以来の本格的な水上戦だった。
8月14日には港湾都市ポチにロシアの空挺部隊が降下、港湾のグルジア海軍施設を破壊した。アブハジアと南オセチアの占領によって、グルジアは黒海へのアクセスを失い、ロシアはグルジア国内の東西幹線道路を押さえた。グルジア軍に残された抵抗の道は首都トリビシの防衛だけだった。
結末
紛争開始から一週間後、フランス大統領サルコジらの介入によって、グルジアとロシアは部分的な合意によって停戦した。ロシア軍の損害は死亡74名、負傷174名、グルジア軍は200名の死亡者が出ており、戦闘は2009年になっても続いている。
この戦争において、グルジア軍は8月7日に南オセチアに総攻撃を仕掛けているが、この時彼らは、ロシア軍が10倍の兵力を同地域に集結していたことを知っていた。
サアカシュヴィリ大統領と防衛大臣がグルジア軍のすべてをコントロールしていたが、彼らは、専門の軍事教育を受けていなかった。
サアカシュヴィリ大統領は、チェチニア紛争の時のようにロシア軍の反応は鈍重であると予想していたのかもしれないし、ロシア軍が十分に持っていない最新兵器とNATOとアメリカ軍による近代戦術によって、過小な兵力でも勝てると考えていたのかもしれない。
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