1978年4月27日にアフガニスタンで起きたクーデターは、ソ連で訓練を受けた極左翼の陸軍将校によるものだった。
事実上ソビエトが擁立したアフガニスタンの新大統領ヌール・ムハンマド・タラキーは、土地制度改革、女性解放、古い社会習慣の全廃を実行した。カブールもモスクワもこの時は知らなかったが、これがその後10年続く内戦と、ソビエト最大の敗北の始まりだった。
アフガニスタンの共産主義政治は、はじめからうまくいかなかった。将兵のほとんどがイスラム教徒である陸軍では抗争がはじまり、反政府勢力に合流する兵士が増加した。将校の半分は処刑されるか逃亡し、、90,000名いた陸軍は、1979年の終わりまでに40,000名に減っていた。9月、ハーフィズッラー・アミーンがタラキーを殺害、政権を掌握するが、アミーンも前政権と同様に反政府勢力に勝利することができなかった。KGBは、アミーンがモスクワに忠実なフリをしながら、国家主義の立場からパキスタンと中国との関係強化を図っている、と考えるようになった。ブレジネフは、アミーンがCIAのスパイであると疑いはじめた。
そこでモスクワの政治局は、アフガニスタンの共産主義政権を強化する新プランを実行した。最初に回復すべきは首都機能のコントロールであり、それはすなわち、アミーン大統領の暗殺だった。
皮肉なことに、アミーン大統領がモスクワに軍事援助を依頼していたことが、ソビエト軍のアフガン潜入を容易にしていた。モスクワの政治局は喜んでアミーンの要請に答えていたが、それは大統領が望む理由からではなかった。11月、アフガニスタン陸軍の軍服を来たスペツナツ大隊が、アミーン官邸を警備する大統領守備隊に合流した。中央アジア人から成るこの特殊部隊は、全員がパシュツ、ダリ、タジーク、ウズベク語を話すことができた。12月には、スペツナツ2個中隊が偵察のためにカブールに到着、それぞれの部隊はコードネームでGrom(雷)、Zenit(天頂)と呼ばれた。
アフガニスタン侵攻
12月24日午前7時、Termez(ロシアとの国境に位置する)南のAmu Darya川に浮橋がかけられ、ソビエト第40軍がアフガニスタンに侵攻した。KabulとBagramの飛行場は空挺部隊によっておさえられた。作戦は時間通りに始まり、厳密なスケジュール通りに進められた。作戦の目的は、国内の重要拠点を迅速に占拠することで防御側を混乱させ、反撃の機会を与えないことだった。この軍事侵攻は、アミーン暗殺計画「Operation
Storm-333」と連動するものだった。アミーン大統領に対しクレムリンは、第40軍の侵攻は「反政府勢力を鎮圧するためのもの」と説明していた。
Operation Storm-333
アミーン暗殺はKGBの仕事だった。12月25日、大統領官邸で外交レセプション・パーティが行われたが、これはソビエト・ムスリム大隊が準備したものであり、大統領を油断させ、暗殺を容易にするためのものだった。パーティで大統領ボディーガードはソビエト軍人と両国の友好について乾杯し、キャビア、魚、ティーポットに入れたコニャック、ヴォッカを楽しんだ。
一方、Grom、Zenit部隊は官邸を偵察し、防御火器や戦車の位置を調べていた。
26日には、KGBは官邸の正確なレイアウト、入り口の数、警護のスケジュールと位置、警護の人数、電話やラジオの位置などすべてを把握していた。作戦に参加した兵士は、「アミーンは血に飢えた独裁者であり、政府を転覆することによって人民に国を返す」と教えられていた。
その夜、亡命中のバーブラーク・カールマルがソビエト第103空挺師団とともにBagram飛行場に到着した。彼はモスクワが指名した時期アフガニスタン大統領だった。
アミーン大統領は、27日の朝も自分が安全だと信じきっていた。午後はアフガニスタン人民民主党の設立を祝うパーティが開かれ、アフガニスタンの政治局や大臣とその家族、ソビエトの「友人」らが招かれた。豪勢な食事が用意されたレセプションで、アミーンは次のようなスピーチをした。
「ソビエトの師団はすでにこちらに向かっている。空挺部隊はカブールに降下した。すべてはうまくいっている。私は同志Gromikoと頻繁に電話で話し、ソビエトの軍事支援をどのように世界に発表するか検討している。」
アミーンがスピーチしている間も、Drozdov将軍は政府転覆の仕事で大忙しだった。午後3時に、彼は作戦決行の時間を午後10時に変更し、後にそれを9時に変更、さらに7時30分に繰り上げていた。
祝賀会の食事には毒が盛られていた。アミーンと彼の子供、そして義理の娘、そしてたくさんのゲストは突然具合が悪くなり、意識を失う者が出はじめた。料理人は拘束され、ソビエト人の医師が宮殿に呼ばれ、食事と飲み物は検査のために病院に送られた。驚くべき事に、Operation
Storm-333は極秘任務であったため、計画を知らないソビエトの医師たちは全力で蘇生に尽力し、午後6時にアミーン大統領は意識を回復したのである。
暗殺計画は、さらに15分くりあげられ、7時15分に襲撃は実行された。無線オペレーターの信号「Storm-333」がその合図だった。
大統領の血縁者で構成された大統領ボディーガードは、スペツナツを相手に猛烈な防衛戦を行い、45分の戦闘によって300名のうち200名が死亡した。アミーンは5才の子供と、事情を知らないソビエト人医師とともに宮殿内で射殺された。
Grom、Zenitの41名のスペツナツのうち5名が死亡、残り全員も負傷した。ムスリム大隊のスペツナツからは6名が死亡、35名が負傷した。
「Storm-333」では大統領暗殺の他に、13の攻撃目標が与えられていた。7時30分にはカブールの通信が遮断され、RPG-18と手榴弾攻撃を受けた警察署、内務省は15分で制圧された。スペツナツ空挺部隊はテレビ局とラジオ局を占拠、新政府樹立のアナウンスが流れた。テレグラフセンターは夜10時に占領され、アフガニスタン陸軍参謀ビルでは一時間の戦闘で制圧された。
まとめ
1956年秋のハンガリー侵攻では、相手は即時編成の市民軍だったにもかかわらず、ソビエト軍は669名の死亡と1,540名の負傷という損害を出し、さらにクレムリンは国際社会から激しい非難を受けた。
一方、1979年のカブールでは、装甲車まで持つ正規軍を相手に戦いながら、ソビエト軍の死亡者数はわずか11名であった。十分考えられた計画と、大胆な攻撃、奇襲効果の十分な使用が成功の原因である。
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