Wurzburg Pentomic: The Battle That Never Was
#263 June 2010

Kabul 1979: クレムリン政権に致命的となった冷戦の勝利

1978年4月27日にアフガニスタンで起きたクーデターは、ソ連で訓練を受けた極左翼の陸軍将校によるものだった。
事実上ソビエトが擁立したアフガニスタンの新大統領ヌール・ムハンマド・タラキーは、土地制度改革、女性解放、古い社会習慣の全廃を実行した。カブールもモスクワもこの時は知らなかったが、これがその後10年続く内戦と、ソビエト最大の敗北の始まりだった。

アフガニスタンの共産主義政治は、はじめからうまくいかなかった。将兵のほとんどがイスラム教徒である陸軍では抗争がはじまり、反政府勢力に合流する兵士が増加した。将校の半分は処刑されるか逃亡し、、90,000名いた陸軍は、1979年の終わりまでに40,000名に減っていた。9月、ハーフィズッラー・アミーンがタラキーを殺害、政権を掌握するが、アミーンも前政権と同様に反政府勢力に勝利することができなかった。KGBは、アミーンがモスクワに忠実なフリをしながら、国家主義の立場からパキスタンと中国との関係強化を図っている、と考えるようになった。ブレジネフは、アミーンがCIAのスパイであると疑いはじめた。

そこでモスクワの政治局は、アフガニスタンの共産主義政権を強化する新プランを実行した。最初に回復すべきは首都機能のコントロールであり、それはすなわち、アミーン大統領の暗殺だった。

皮肉なことに、アミーン大統領がモスクワに軍事援助を依頼していたことが、ソビエト軍のアフガン潜入を容易にしていた。モスクワの政治局は喜んでアミーンの要請に答えていたが、それは大統領が望む理由からではなかった。11月、アフガニスタン陸軍の軍服を来たスペツナツ大隊が、アミーン官邸を警備する大統領守備隊に合流した。中央アジア人から成るこの特殊部隊は、全員がパシュツ、ダリ、タジーク、ウズベク語を話すことができた。12月には、スペツナツ2個中隊が偵察のためにカブールに到着、それぞれの部隊はコードネームでGrom(雷)、Zenit(天頂)と呼ばれた。

アフガニスタン侵攻
12月24日午前7時、Termez(ロシアとの国境に位置する)南のAmu Darya川に浮橋がかけられ、ソビエト第40軍がアフガニスタンに侵攻した。KabulとBagramの飛行場は空挺部隊によっておさえられた。作戦は時間通りに始まり、厳密なスケジュール通りに進められた。作戦の目的は、国内の重要拠点を迅速に占拠することで防御側を混乱させ、反撃の機会を与えないことだった。この軍事侵攻は、アミーン暗殺計画「Operation Storm-333」と連動するものだった。アミーン大統領に対しクレムリンは、第40軍の侵攻は「反政府勢力を鎮圧するためのもの」と説明していた。

Operation Storm-333
アミーン暗殺はKGBの仕事だった。12月25日、大統領官邸で外交レセプション・パーティが行われたが、これはソビエト・ムスリム大隊が準備したものであり、大統領を油断させ、暗殺を容易にするためのものだった。パーティで大統領ボディーガードはソビエト軍人と両国の友好について乾杯し、キャビア、魚、ティーポットに入れたコニャック、ヴォッカを楽しんだ。
一方、Grom、Zenit部隊は官邸を偵察し、防御火器や戦車の位置を調べていた。

26日には、KGBは官邸の正確なレイアウト、入り口の数、警護のスケジュールと位置、警護の人数、電話やラジオの位置などすべてを把握していた。作戦に参加した兵士は、「アミーンは血に飢えた独裁者であり、政府を転覆することによって人民に国を返す」と教えられていた。

その夜、亡命中のバーブラーク・カールマルがソビエト第103空挺師団とともにBagram飛行場に到着した。彼はモスクワが指名した時期アフガニスタン大統領だった。

アミーン大統領は、27日の朝も自分が安全だと信じきっていた。午後はアフガニスタン人民民主党の設立を祝うパーティが開かれ、アフガニスタンの政治局や大臣とその家族、ソビエトの「友人」らが招かれた。豪勢な食事が用意されたレセプションで、アミーンは次のようなスピーチをした。
「ソビエトの師団はすでにこちらに向かっている。空挺部隊はカブールに降下した。すべてはうまくいっている。私は同志Gromikoと頻繁に電話で話し、ソビエトの軍事支援をどのように世界に発表するか検討している。」

アミーンがスピーチしている間も、Drozdov将軍は政府転覆の仕事で大忙しだった。午後3時に、彼は作戦決行の時間を午後10時に変更し、後にそれを9時に変更、さらに7時30分に繰り上げていた。
祝賀会の食事には毒が盛られていた。アミーンと彼の子供、そして義理の娘、そしてたくさんのゲストは突然具合が悪くなり、意識を失う者が出はじめた。料理人は拘束され、ソビエト人の医師が宮殿に呼ばれ、食事と飲み物は検査のために病院に送られた。驚くべき事に、Operation Storm-333は極秘任務であったため、計画を知らないソビエトの医師たちは全力で蘇生に尽力し、午後6時にアミーン大統領は意識を回復したのである。

暗殺計画は、さらに15分くりあげられ、7時15分に襲撃は実行された。無線オペレーターの信号「Storm-333」がその合図だった。
大統領の血縁者で構成された大統領ボディーガードは、スペツナツを相手に猛烈な防衛戦を行い、45分の戦闘によって300名のうち200名が死亡した。アミーンは5才の子供と、事情を知らないソビエト人医師とともに宮殿内で射殺された。
Grom、Zenitの41名のスペツナツのうち5名が死亡、残り全員も負傷した。ムスリム大隊のスペツナツからは6名が死亡、35名が負傷した。

「Storm-333」では大統領暗殺の他に、13の攻撃目標が与えられていた。7時30分にはカブールの通信が遮断され、RPG-18と手榴弾攻撃を受けた警察署、内務省は15分で制圧された。スペツナツ空挺部隊はテレビ局とラジオ局を占拠、新政府樹立のアナウンスが流れた。テレグラフセンターは夜10時に占領され、アフガニスタン陸軍参謀ビルでは一時間の戦闘で制圧された。

まとめ
1956年秋のハンガリー侵攻では、相手は即時編成の市民軍だったにもかかわらず、ソビエト軍は669名の死亡と1,540名の負傷という損害を出し、さらにクレムリンは国際社会から激しい非難を受けた。
一方、1979年のカブールでは、装甲車まで持つ正規軍を相手に戦いながら、ソビエト軍の死亡者数はわずか11名であった。十分考えられた計画と、大胆な攻撃、奇襲効果の十分な使用が成功の原因である。

付録ゲーム「Cold War Battles 2」
「(SPI) Modern Battles」のルールを引用した「Cold War Battles 2」は、1950年代の架空の第三次世界大戦「Wurzburg」と1979年の「カブール侵攻」のふたつから成る。ユニットの戦闘力は交戦するまでわからない、という。

 

核戦争対応師団

核兵器の誕生によって、新しい師団は、1.核戦争と通常戦争への両面対応、2.戦場に数日で展開できる機動性、3.縦深、に対応しなければならないとされた。
これらの要求を満たすため、アメリカ陸軍は、第二次大戦以来続いていた師団編成を見直し、その結果考案されたのが「Pentomic(核戦争対応師団)」だった。

カエサルの勝利: ムンダの戦い 45BC

カエサルがローマに戻る頃、ポンペイウス率いる元老院派はギリシャに逃れ、カエサルに対抗すべく、シリアや小アジアの王国との同盟を模索した。
東に向かうことは、ローマのヒスパニア領やヒスパニアの同盟者を見捨てることだった。しかし、ポンペイウスには他に選択がなかった。彼の拠点は、過去に大きな軍事的成功を成し遂げた東にあったからである。
一方、カエサルは、ヒスパニアの元老院派の領土に移動した。これにより、彼は後方を固め、イタリアへの脅威をなくしたのだった。

アシカ作戦

1940年夏、西ヨーロッパを支配したヒトラーは、イギリス海峡でへだてた数マイルの距離で、敵対する最後の連合国イギリスと対峙していた。
フランスはあっけなく降伏し、ドイツ空軍はソビエト連邦を好き放題に攻撃することができた。敵対するイギリスをどうにかすることが最後の仕事であった。
1940年5月まで、ヒトラーはイギリス侵攻を真剣に検討したことはなかった。ポーランド侵攻で電撃作戦の有効性は実証されたものの、特にノルウェー侵攻後は、上陸作戦の実施について慎重だった。ノルウェーで、英国海軍はドイツ艦隊に大きな損害を与えた。この戦争で得られたもっとも大切なレッスンは、空軍力が英国海軍に対して有効である、ということだった。

第二次ブルランの戦い

1862年8月26日午後8時、北軍のジョン・ポープ少将は、最初の問題の兆候を受け取った。バージニア軍を率いる彼は、Rappahannock川北岸に70,000名の軍を展開していた。テレグラフが途絶える数分前、マナサス鉄道結節点から「敵騎兵隊が鉄道にやってきている」と信号を送っていた。
実際、南軍のストーンウォール・ジャクソン少将が23,000名以上の騎兵を率いて、Oragne & Alexandria鉄道のBristoe駅を占領していた。これによって、北軍の司令線は切断されようとしていた。