第二次大戦中、イギリスに亡命していたドゴールと自由フランス政府は、北アフリカのアラブ人の支援を得るために、戦後のフランス植民地の自立と独立を表明していた。当然、戦争に協力したアラブ系住民は、戦後はより多くの権利が得られるものと信じた。
1830年の植民地化以来、アルジェリアではヨーロッパ人の人口が増えていた。政治と経済を握る彼らはピエ・ノワール(黒い足)と呼ばれ、終戦時には人口の10%(100万人)を占めていた。ピエ・ノワールとは、商人、会社経営者、農園経営者のことであり、フランス人、スペイン人、イタリア人、ユダヤ人などから構成される彼らは、地元のアラブ人社会には無関心だった。出生率の多さから、近い将来、ピエ・ノワールがアラブ人の人口を上回ると考えられていた。
そして戦後のフランス政府もまた、アラブ系住民に市民権を与えるつもりはなかった。彼らがアルジェリアやパリで政治力を行使することはフランス政府にとって望ましいことではなかった。
アルジェリア暴動は、ドイツが連合軍に降伏した日からはじまった。1945年5月20日、戦勝祝いの最中にアラブ系住民とピエ・ノワールが衝突、フランス治安部隊によって6,000人のアラブ人が殺された。フランス政府が出したアルジェリアの行政改革案はピエ・ノワールによって阻まれ、1948年の選挙では不正行為によって、アラブ人はほとんど議席を得ることができなかった。このような経緯によって、アラブ系住民の政治運動は、ピエ・ノワールとの融和から先鋭的な民族闘争に変わって行った。
1954年5月、フランス軍がベトナム・ディンビェンフーで敗退、ベトナムから撤退した事実は、世界中のフランス植民地を揺るがした。この戦争によってフランス軍は、空挺、外人部隊などの精鋭部隊を失った。1940年にフランス軍がドイツに降伏してから14年目の敗北は、フランス軍へのさらなる侮りにつながった。
インドシナで戦ったアルジェリアのアラブ人兵士もまた、フランス軍に大きな幻滅を感じていた。彼らはフランス政府の弱腰やインドシナ戦争に対する政治的な態度の変化を身をもって経験していた。
アルジェリア民族解放戦線
1954年、アルジェリアでFLN(アルジェリア民族解放戦線)が組織され、武力闘争が本格化した。最初の一斉蜂起は同年10月1日であり、ラジオ・カイロを通じて独立への闘争が宣言された。初日の戦果は大きくなかったものの、FLNを侮ったフランス軍はその年の冬まで彼らを追いかけるはめになった。
この時すでにFLNはよく組織化されていた。アルジェリア全土を6つの作戦地域に分け、それぞれに軍事リーダーが存在した。
FLNは政治部と軍事部から構成されていた。政治部は市民の支援拡大と兵士のリクルート、ゲリラ戦は軍事部を担当した。戦争の目的は、フランス軍の軍事力の暫時消耗と戦意低下であった。FLNがとった戦略は、ベトミンの戦略とまったく同じだった。フランス軍の力が十分に落ちた時に総攻勢を仕掛け、すでに分断させた政府軍を壊滅させた上で国家を掌握する。
アルジェリアは、広大な国土と分散した人口、侵入の困難な山岳地帯があるという点で、ゲリラ戦に有利だった。1956年にモロッコとチュニジアが独立すると、FLNの拠点はこれらの「聖域」内に移された。
人民コントロール
ベトナムとの相違点は全人口の10%を占めるピエ・ノワールが政治と経済をコントロールしていたことである。アラブ系住民のコントロールが民族闘争を成功させる上で、最も決定的な要素だった。
FLNは、政治局員を村落や町に送って政治教育とリクルートを行いながら、対立する勢力を抑圧した。独立を支持する人々は残らず動員されなければならず、フランス政府を支持する者は全員脅迫されるか殺害されなければならなかった。フランス政府との対話や中庸を唱える者も同様に抹殺の対象となる。政治に無関心である態度は許されなかった。
結果はしばしば凄惨なものになった。Philipville村で、FLNは群衆に、地域に住むすべてのヨーロッパ人を殺害するよう鼓舞した。フランス空挺部隊は迅速に反応し、目に見えるすべてのアラブ系住民に発砲したのである。
アラブ系住民を味方にするために、FLNはヨーロッパ系移民とアラブ系住民との間に断絶を作った。すなわちFLNは、フランス政府から見て、すべてのアラブ系住民がFLN支持者に思えるように意図的にテロ活動を行ったのである。結果はフランス軍のオーバーリアクトであり、アラブ系住民への被害が大きくなるほど、FLNの支持者が増えて行った。
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