1066年9月25日のスタンフォード・ブリッジの戦いで、イギリス王Haloldは、イングランドを手中に収めんとして上陸したHarald Hardrada(ハーラル3世)を破り、Haraldは戦死、バイキングは壊滅した。
その19日後のヘースティングの戦いで、Halold自身がノルマンディ公Williamに破れ戦死したため、スタンフォード・ブリッジの戦いは小さく扱われやすいが、この戦いこそ、ノルウェーからヨーロッパ、北アフリカ、ビザンチン、イングランドまで版図を広げたバイキングの軍事行動の終わりとなった出来事だった。
Harald Hardradaの生涯
ノルウェー東部の小王を父親に持つHarald Hardradaの人生は、彼が15歳の時に劇的に変化した。1030年、デンマーク王Canute the Great(クヌート)と戦ったノルウェー王Olaf(オーラヴ2世)がスティクレスターの戦いで敗れると、オーラヴ2世側について戦ったHaraldは、ルーシ(Rus、キエフ大公国)への亡命を余儀なくされた(当時、15歳で戦争に参加することは珍しくなかった)。ルーシは、キエフに移住した北欧系のヴァイキングによってはじめられた国で、10世紀までに同地の東スラヴ人との混血によってスラヴ化していた。
ルーシ国王Jaroslav(ヤロスラフ1世)は、Haraldを傭兵のリーダーとして雇った。司令官となったHaraldはポーランド、ドナウ川から黒海に攻め入り、1035年にはビザンチン帝国のミカエル4世に雇われ、小アジア、アルメニア、果てはシリアまで攻め入り、これらの都市を占領した。一説には、エルサレムまで足跡を残したとも言われる。
ビザンチン帝国に8年仕えたHaraldは、1042年秋にルーシに戻り、1045年に私軍を率いてノルウェーに戻った。その時のノルウェーは甥のMagnus I Olafsson(マグヌス1世)だったが、翌年、Magnus1世は不可解な状況の中で死亡、Haraldは「ハーラル3世“苛烈王”」としてノルウェー国王となった。
彼はデンマーク国王も名乗り、その後17年間デンマーク人と戦うが勝利を得ることはなかった。次の目標をイングランドに定めたHaraldは、1064年、デンマークと講和した。
運命の年
1066年のイングランドの政情は混乱していた。エドワード懺悔王の死後、Harold2世がイングランド王に即位したが、これに反対するノルマンディー公Willam1世がイングランド南岸に上陸すべく、ヨーロッパで兵力を集めていた。
そのような情勢の中、Harald3世はイングランドを手中に収めるため、300隻の船でYork東方に上陸した。
Harald3世の軍は上陸に際してはいかなる抵抗も受けなかったが、イングランド王に忠誠を誓う4,000名の軍隊と戦わなければならなかった。1066年9月20日、フルフォードゲートの戦いで地元貴族の連合軍に勝利したHarald3世はYorkを占領した。
ロンドンのHarold2世の関心は、ノルマンディー公Willam1世とノルウェー王Harald3世のいずれが先にイングランドに上陸するか、であった。
フルフォードゲートの戦いの敗戦の知らせを受けたHarold2世は、直ちに8,000名の兵をYorkに差し向け、油断していたノルウェー王Harald3世を殺害した(スタンフォード・ブリッジの戦い)。上陸地点に逃げたノルウェー軍は壊滅し、これが歴史上、最後のバイキングのイングランド侵略となった。
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