The Kaiser's War: 1918
#261 March 2010

皇帝の戦争: 1918-19の大戦略

1918年1月の時点で、少なくとも純軍事的には、ドイツとその同盟国 - オーストリア・ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国 - は戦略的に優勢だった。

バルカン半島では1915年にセルビアを破り、翌年にはルーマニアに勝利した。1917年にはカポレットの戦いで北部イタリアに迫り、連合軍はサロニカの橋頭堡に留め置かれた。中東では、オスマン帝国がスエズとペルシャのイギリス軍を脅かしていた。

皇帝の軍隊が成し遂げたもっとも偉大な勝利は、ロシア帝国を葬り去ったことであろう。1914年のタンネンベルグ、マズルク湖の戦い、1915年ゴルリツェ-タルノフ、1917年リガでロシア軍を破った。

ドイツは政治的な破壊活動とプロパガンタにもたけていた。ニコライ二世の治世に反対する過激派を支援、1917年3月に政府を転覆させた後も、ドイツに敵対するケレンスキーの臨時政府を倒すため、レーニンを支援した。
レーニンがボルシェビキ政権を樹立すると、ドイツはペトログラードを脅かし、ブレスト・リトフスク条約によって、ナポレオンや後のヒトラーさえもできなかった偉業を成し遂げたのである。 ロシアを武力で降伏させ、領土を割譲したのだった。

ベルリン、ウイーン、ソフィア、コンスタンチノープルに楽観論が流れるには十分な理由があった。ロシア帝国が敗れたことで、中央同盟側は、麦、牛、馬、鉄、石炭、石油の産地を手に入れただけでなく、東部戦線に配置していた師団を、他の決定的な戦いが行われるべき戦線に振り向けることができたからである。

付録ゲーム「Kaiser's War」のデザイナーズノート
ゲームのヒントになったのはJohn Keegan著"Mask of Command"だった。
1918年のはじめ、中央同盟軍はヨーロッパを支配していた。彼らはパリとウクライナに肉迫していただけでなく、フィンランドとパレスチナにも遠征軍を配置していた。にもかかわらずその年の終わりには、ドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー、オスマン帝国は完敗したのである。
ウォーゲームは、なぜ、どのようにしてそれが起きたかを探究するのに最適である。

ゲームシステムは、軍事と政治のトレードオフであり、勝利ポイントがそれぞれの陣営の戦意をあらわす。
史実では、連合軍は前線と後方の戦意を維持できたが、中央同盟軍はそうではなかった。
軍事的敗北は、勝利ポイントの喪失として表現され、それはすなわち政治的ロスである。なぜなら勝利ポイントは兵士の動員に必要だからである。当時、いずれの陣営も最大限の軍事生産を行っていた。ゲームでは、より大きな軍隊を作るなら、より多くの負荷をその国の社会と経済にもたらす。

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コチェド捕虜収容所

1950年6月25日、北朝鮮軍が国境を超え、南側に侵攻して朝鮮戦争ははじまった。警察組織同然の韓国軍は容易に破られ、共産主義者がソウルになだれ込んだ。

d北朝鮮軍が南下するにつれ、数千名もの韓国軍および国連軍の兵士が捕虜になった。捕虜のほとんどは、収容所まで徒歩での移動を強いられ、あるいはその途上で処刑された。運良く収容所にたどりついた捕虜には、飢餓、殴打と思想教育が待っていた。

1950年9月に国連軍が反撃に出ると、最初の二ヶ月間だけでも13,000名の北朝鮮軍の捕虜を得た。国連軍が北上するにつれ捕虜の数は増加し、保安上の理由から、朝鮮半島の南東、鎮海湾にあるコチェド(巨済島)に巨大な捕虜収容所がつくられた。

コチェド捕虜収容所には、最大時十数万名の捕虜が収容されていた。理論上はアメリカ軍が収容所を仕切っていたが、実際には強硬派の共産主義者が収容所の支配者だった。彼らはプロパガンタと思想教育にたけた心理戦のプロであり、それがアメリカ軍の近代兵器に対抗する手段だった。

収容所の最大の問題は、あらゆる種類の捕虜が一括して収容されたことである。朝鮮人民軍の中には捕虜となっても北朝鮮に忠誠を誓う「親共派」と、自ら進んで降伏した「反共派」がいた。
中国人民義勇軍でさえ、毛沢東の信奉者と、蒋介石の国民軍だった者が混ざっていた。南朝鮮出身の捕虜にも共産主義者と、反共だが強制的に朝鮮軍に編入された者がいた。これらが分離されずに収容されたため、一発触発の状況を収容所に作った。

収容所のさらなる問題は、捕虜を直接扱った韓国軍が、躊躇せずに捕虜虐待を行ったことだった。アメリカ軍には韓国語や中国語を話せる兵士が不在で、警備兵と捕虜の比率は10:1以下だった。1952年までに、収容所は捕虜達がコントロールしていた。強硬な共産主義者達は人民裁判をひらき、時には仲間の捕虜を処刑した。

d捕虜を分離するため、何通りかの方法で捕虜の尋問も行われた。問題は、アメリカ軍が通訳に使った捕虜が、しばしば隠れた共産主義者であったことだった。実際、彼らの多くはソビエトで英語の訓練を受けた兵士であり、収容所に潜入するために故意に捕虜になっていた。

1951年5月には、収容所長ドット准将が捕虜との交渉中に誘拐される事件が発生した。ドット准将のミスは、誠意をあらわすために護衛なしで捕虜施設に立ち入ったことだった。間もなくドット准将は解放されたが、翌年は暴動が起きた。親共派の収容棟に米軍1個大隊が強制調査で立ち入ると暴動になり、アメリカ軍は1名死亡、13名が負傷、捕虜には150名の死傷者が出た。

言うまでもなく、共産主義国は捕虜の蜂起をプロパガンタとして世界にアナウンスした。北朝鮮はこの暴動を、「アメリカ軍による組織的な捕虜虐待」とした上で国連に抗議した。

 

ハーラル3世: バイキングの偉大な王

11066年9月25日のスタンフォード・ブリッジの戦いで、イギリス王Haloldは、イングランドを手中に収めんとして上陸したHarald Hardrada(ハーラル3世)を破り、Haraldは戦死、バイキングは壊滅した。
その19日後のヘースティングの戦いで、Halold自身がノルマンディ公Williamに破れ戦死したため、スタンフォード・ブリッジの戦いは小さく扱われやすいが、この戦いこそ、ノルウェーからヨーロッパ、北アフリカ、ビザンチン、イングランドまで版図を広げたバイキングの軍事行動の終わりとなった出来事だった。

Harald Hardradaの生涯
ノルウェー東部の小王を父親に持つHarald Hardradaの人生は、彼が15歳の時に劇的に変化した。1030年、デンマーク王Canute the Great(クヌート)と戦ったノルウェー王Olaf(オーラヴ2世)がスティクレスターの戦いで敗れると、オーラヴ2世側について戦ったHaraldは、ルーシ(Rus、キエフ大公国)への亡命を余儀なくされた(当時、15歳で戦争に参加することは珍しくなかった)。ルーシは、キエフに移住した北欧系のヴァイキングによってはじめられた国で、10世紀までに同地の東スラヴ人との混血によってスラヴ化していた。

ルーシ国王Jaroslav(ヤロスラフ1世)は、Haraldを傭兵のリーダーとして雇った。司令官となったHaraldはポーランド、ドナウ川から黒海に攻め入り、1035年にはビザンチン帝国のミカエル4世に雇われ、小アジア、アルメニア、果てはシリアまで攻め入り、これらの都市を占領した。一説には、エルサレムまで足跡を残したとも言われる。

ビザンチン帝国に8年仕えたHaraldは、1042年秋にルーシに戻り、1045年に私軍を率いてノルウェーに戻った。その時のノルウェーは甥のMagnus I Olafsson(マグヌス1世)だったが、翌年、Magnus1世は不可解な状況の中で死亡、Haraldは「ハーラル3世“苛烈王”」としてノルウェー国王となった。

彼はデンマーク国王も名乗り、その後17年間デンマーク人と戦うが勝利を得ることはなかった。次の目標をイングランドに定めたHaraldは、1064年、デンマークと講和した。

運命の年
1066年のイングランドの政情は混乱していた。エドワード懺悔王の死後、Harold2世がイングランド王に即位したが、これに反対するノルマンディー公2Willam1世がイングランド南岸に上陸すべく、ヨーロッパで兵力を集めていた。

そのような情勢の中、Harald3世はイングランドを手中に収めるため、300隻の船でYork東方に上陸した。
Harald3世の軍は上陸に際してはいかなる抵抗も受けなかったが、イングランド王に忠誠を誓う4,000名の軍隊と戦わなければならなかった。1066年9月20日、フルフォードゲートの戦いで地元貴族の連合軍に勝利したHarald3世はYorkを占領した。

ロンドンのHarold2世の関心は、ノルマンディー公Willam1世とノルウェー王Harald3世のいずれが先にイングランドに上陸するか、であった。
フルフォードゲートの戦いの敗戦の知らせを受けたHarold2世は、直ちに8,000名の兵をYorkに差し向け、油断していたノルウェー王Harald3世を殺害した(スタンフォード・ブリッジの戦い)。上陸地点に逃げたノルウェー軍は壊滅し、これが歴史上、最後のバイキングのイングランド侵略となった。


アルベマール・サウンドの戦い

パムリコ・サウンドとアルベマール・サウンドの北軍艦船の封鎖を破るため、南軍の造船技師John L. Porterは、長い棒の先に爆弾を装着した外装水雷を備えた甲鉄艦CSSアルベマールを建造した。
1863年4月から起工したこの船は完成まで約一年かかり、CSSアルベマールがロアノーク川に浮かんだのは翌年3月だった。

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