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Triple Alliance War 〔パート1〕植民地化
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南米中部ラ・プラタの繁栄 活性化した経済活動に対し、スペイン政府は1776年、植民地政府「ラ・プラタ副王領」をブエノスアイレスに新設した。この副王領の目的は、南米貿易の統制だった。すなわち、それまでスペイン政府は、ペルーの副王領を通じて貿易を行うことを義務づけていたが、実際にこのルールが守られることは少なく、大半の物産はブエノスアイレス港から密輸されていたのである。この闇貿易の相手国はブラジルだった。
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イギリスの浸透 スペイン王室は、中立国との通商を自由化することで貿易額の回復を狙ったが、この政策転換は、スペイン帝国の崩壊を促進しただけだった。ラ・プラタ領をはじめとする植民地に自治の概念が芽生え、独立の気運を醸成したのである。
中立国との通商が自由化されたことによって、ポルテーニョは、ボストン、ニューヨーク、アンゴラ、ハンブルグの商事会社とネットワークを組み、貿易で大きな利益を上げた。
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イギリス軍がブエノスアイレスを占領 スペイン植民地の終焉を招いたのは、1807年におきたイベリア半島の権力の空白である。フランス軍がイベリア半島を支配すると、スペイン王フェルディナンドZ世はナポレオンによって廃位、同時に、ポルトガル王は英国艦隊に乗って、6,000名の宮廷官僚とともに、リオデジャネイロに逃亡した。 イベリア半島での政変のニュースが南米に届くと、ベネズエラではスペイン人総督が追放され、エクアドルでは独立宣言、メキシコとペルーでは反乱がおきた。ラ・プラタ副王領内には、複数の自治政権が誕生し、それぞれの政権がスペイン領の正統な継承者であると主張するようになった。 |
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アルゼンチンの独立と内戦 アルト・ペルー(後のボリビア)、コルドバ、バンダ・オリエンタル(後のウルグアイ)、パラグアイは、自ら「反革命」を謳ってスペインの植民地であり続けることを選び、ラ・プラタ副王領の首都はブエノスアイレスからバンダ・オリエンタルに移された。 アルゼンチンに設置された革命政府は、発足当初から内部で紛糾した。この新政府は、フランス革命の「自由・平等・博愛」を標榜しながらも、スペイン王フェルディナンド7世を君主として戴き、しかし、政治の実体は、少数のポルテーニョによる寡頭支配であり、これは地方との間に極端な経済的不均衡を生むものだった。統治形態についての一致もなく、参事会には、イギリスの摂政を求める者、共和制を主張する者、果てはポルトガル王妃による王政を主張する者などがいた。 新政府がスペイン副王領に対してとった戦略は、交渉と、交渉決裂後の武力制圧だったが、新政府軍はほとんどの遠征において、スペイン軍に敗退した。(バンダ・オリエンタルとパラグアイは、戦争でブエノスアイレス政権に勝った後で、スペイン軍も追い出して独立国になったが、ブエノスアイレスとの対立は、Triple Alliance Warが終わるまで続いた。後述)。 アルゼンチンは、ブエノスアイレスによる強い統制を望む「中央集権派」と、地方の自治を志向する「連邦派」との争いになり、さらに、各州に武装勢力「カウディーリョ」が台頭、1820年に新政府軍が政府に反乱すると、アルゼンチンは本格的な内戦状態になった。 アルゼンチンの内戦が、少なくとも小康状態になったのは、1832年にカウディーリョの巨頭Juan Manuel de Rosasがブエノスアイレス州の知事になってからだった。Rosasは独裁政治によって周辺の州を支配下に置き、あるいは友好的な関係を築いた。アルゼンチンの中央集権派は政治的弾圧を受けて解散、もしくはバンダ・オリエンタルに亡命した。 |
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パラグアイの独立 しかし、この紛争は勝ったはずのVelasco領事にとって皮肉な結果に終わった。パラグアイの白人は、ブエノスアイレス市との衝突を通じてスペイン副王領が崩壊したことを知った。そして戦いが終わった後にAsuncion市に入ってきた200名のポルトガル軍が、彼らをおおいに驚かせたからだった。スペイン領事館は密かに、Rio
Grande do Sulのポルトガル軍に援軍を頼んでいた。しかもVelasco領事は、爆竹を鳴らしてポルトガル軍を迎えていた。
独裁者Jose Gaspar de Francia 恐らく、パラグアイ新政権の中で、Franciaだけが外国留学の経験のある人物だったに違いない。彼は、領土問題、港の使用ならびに通商の規約についてブエノスアイレス政権と交渉し、パラグアイの独立を非公式に認めさせることができた。その見返りにFranciaが得たものは、軍部の支持だった。 パラグアイの鎖国主義 Franciaの政治思想 結果から判断するなら、Franciaの鎖国主義と富国強兵策は正しい選択だった。建国を宣言した後も、パラグアイは周囲を敵に取り囲まれていた。ブエノスアイレスは1810年のBelgrano遠征でパラグアイを領有しようとしたし、Artigasはミシオネスで暴れまわっていた。そして北には最も危険な国、ブラジルがいた。 その後パラグアイは、他の南米の国々を凌ぐ経済的・政治的発展を遂げ、鎖国は、パラグアイ人の「Guarani-スペイン混血文化」をいっそう堅固なものにした。パラグアイにみられた社会的結束は、ブエノスアイレスや周辺の旧植民地領ではみられないものだった。Triple
Alliance Warがはじまった時、パラグアイはブラジル帝国に次ぐ軍事強国になっていた。 |
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ブラジル帝国 一般大衆にとって独立は遠くの出来事だった。権力は植民地時代と同じ層が握り、独立による経済の自由化を楽しんだのは大農園主と商人だった。大多数の社会エリートが強い国家を望んだ結果、ブラジルではスペイン領にみられるような地域の分裂はおきなかった。奴隷制度に依存するブラジル経済には国家主義が必要であり、ドン・ペドロ皇帝は統一のプロパガンタと社会的な重石(おもし)の役割を果たした。皇帝というシンボルのおかげで、一般大衆は、政治的決定権がまったくないにもかかわらず、帝国に仮の信頼を寄せることができたのである。 奴隷は大農園だけでなく、地域社会のどこにでもいた。ブラジルの政治指導層は、貧困層に政治を考えさせたなら、それは極端な奴隷解放主義か、宗教的な空想にしかならないと考えていた。統一国家形成の背景には奴隷の反乱への恐怖があり、それは一般の白人も同様だった。 |
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