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Triple Alliance War
パラグアイ 1865 - 1870
南米の歴史のウォーゲーマー的解釈

〔パート1〕植民地化
〔パート2〕独立

〔パート3〕国家紛争の始まり

 

南米中部ラ・プラタの繁栄
南米の移民人口はその後も増え続けた。18世紀までの100年間でブラジルの移民は60万人増加し、18世紀の終わりには、アルゼンチン地方に数十万人のスペイン人が移住していた。
アルゼンチンには、ヨーロッパから運ばれた牛と馬が放牧され、畜産と農業を中心とした産業形成が行われていた。ラ・プラタ(後のパラグアイ)で栽培されたマテ茶とタバコ、動物の皮は、アルゼンチンの主要な輸出品となり、さらに、ペルー・ポトシの銀によってスペインは莫大な富を得るようになった。

活性化した経済活動に対し、スペイン政府は1776年、植民地政府「ラ・プラタ副王領」をブエノスアイレスに新設した。この副王領の目的は、南米貿易の統制だった。すなわち、それまでスペイン政府は、ペルーの副王領を通じて貿易を行うことを義務づけていたが、実際にこのルールが守られることは少なく、大半の物産はブエノスアイレス港から密輸されていたのである。この闇貿易の相手国はブラジルだった。
同時に、スペインは、通商ライセンスを緩やかにすることで、貿易振興策をとった。このラ・プラタ副王領の設置によって、ブエノスアイレス港はオフィシャルな貿易港となり、ブエノスアイレスは過去にない経済成長を遂げた。現地には、富裕な白人層が生まれ、彼らは銀の食器で食事し、香水を使った。ブエノスアイレス市の街並みは、ヨーロッパそっくりにつくり変えられた。

ブエノスアイレス市の誕生
南米のすべての都市は、植民地時代に白人によって作られた都市である。スペイン人Juan de Garayはブエノスアイレス市の建設で有名であり、それは1580年のことだった。


Juan de Garay

バスク地方の貧しい家に生まれたJuan de Garayは、身を立てるために叔父のPedro de Zarateとともに南米に渡り、パラグアイ領事長の書記官になった(1568年)。書記官時代、原住民の襲撃を事前に知った彼は40名の兵士で数百人の原住民の攻撃を撃退し、キャプテンの地位を得ている。

1573年7月、Parana川をさかのぼったJuan de Garayは、Santa-Fe de Vera-Cruz市の建設に着手するが、Charruas族との戦闘のためにウルグアイ川までさかのぼり、この戦いにも勝利する。この功績によってフィリップ二世から中将の称号を与えられ、Assuncion市の統治を任された(1576年)。

それから4年後、パラナ川を下ったJuan de Garayは、原住民によって破壊されたブエノスアイレスに二度目の都市建設を試み、周囲を城砦化した。度重なる原住民との戦闘を通じて、彼らを「文明化」する必要性を知った彼は、宣教師とともに各地を訪れて村を作り、法を教え、住民を組織化した。

Juan de Garayの最後は、白人にとって、この地域での居住がいかに危険なものであったかを物語っている。1584年、Assuncion市に戻るために上流に向かった彼の船は嵐にあい、見知らぬ土地に漂着、そこで原住民に襲撃され、他の39名の乗組員とともに命を落としたのだった。


1536年のブエノスアイレス

イギリスの浸透
アルゼンチン独立の発端は、イギリスが仕掛けた対スペイン戦争だった。
フランス革命戦争(1792年〜)において、スペインは、当初、イギリスと同盟して対仏大同盟の一翼を担っていた。ところが、ピレネー山脈での戦闘でフランス軍に敗れると、スペイン王国はフランス革命政府を支持する側にまわった(1795年、第二次バーゼルの和約)。
これに対するイギリスの返答は、英国艦隊による大西洋の通商ルートの破壊だった。イギリス艦隊が大西洋のスペイン商船の通行を妨害、略奪すると、1796年に540万ペソだったラプラタ副王領の輸出は翌年30万ペソまで落ちた。国家予算を植民地貿易に依存していたスペインにとって、これは深刻な打撃だった。

スペイン王室は、中立国との通商を自由化することで貿易額の回復を狙ったが、この政策転換は、スペイン帝国の崩壊を促進しただけだった。ラ・プラタ領をはじめとする植民地に自治の概念が芽生え、独立の気運を醸成したのである。


現在のCordoba市

ペニンスラールとポルテーニョ
植民地時代のブエノスアイレス市のスペイン人社会では、「ペニンスラール」と呼ばれる封建的官僚と、白人二世「ポルテーニョ」の二層化が進んでいた。

「ペニンスラール」は"半島人"という意味で、イベリア半島からやってきた新参者であり、専売権や税制上の利点によって社会の上層部を占めていた。「ポルテーニョ」とは"港っ子"という意味で、ブエノスアイレス市で生まれた白人二世、三世を指す。経済的に新興勢力であり、社会的に下位層であったポルテーニョは、「白人の権利」から遠いところに位置していた。

19世紀にはラ・プラタ領の各地に大学や図書館ができていた。ポルテーニョの知識人は、アダムスミス、モンテスキュー、ルソーなどの"革命的"思想に親しんだ。南米という僻地に住んでいる自覚から、ヨーロッパの急進的な思想やフランス革命の概念は、極度に美化された。独立運動の中心となったのは、スペインからの独立によってもっとも利益が得られるポルテーニョの知識人達だった。

中立国との通商が自由化されたことによって、ポルテーニョは、ボストン、ニューヨーク、アンゴラ、ハンブルグの商事会社とネットワークを組み、貿易で大きな利益を上げた。
一番大きな社会的変化は、利益を得るために宗主国・スペインの保護が必要だった時代から、自力で利益が得られる時代に変わったことだった。物産は自前の船舶かチャーターした中立国の船で運び、1796年にはパラグアイ地域に最初の造船所がつくられる程、貿易は活発になった。それから四年後にはLa Primera号が160万ペソの銀を運び、19世紀に入ると、スペインぬきの貿易が当たり前になった。
物産の多くは、中立国を経て、本来の敵対国であるイギリスの商事会社が購入した。同時に、ブエノスアイレスに入荷する加工製品に英国製が年々増え、イギリスにとって、南米が工業製品の主要な輸出国となった。英国の文化と商品の流入もまた、ポルテーニョに自治を促す原因となった。

スペインの植民地

「太陽の沈まぬ国」と呼ばれたスペイン帝国の崩壊は早かった。
19世紀前半、南米の植民地が次々と独立している頃、カリフォルニア、ネバタ、アリゾナ、西フロリダ、テキサスのスペイン領もメキシコの独立 (1821年) で失われた。米西戦争 (1898年) では、キューバとフィリピンも失う。
現在残っている海外領土は、北アフリカのセウタとメリリャ、大西洋のカナリア諸島などである。

 


ブエノスアイレスのイギリス軍

イギリス軍がブエノスアイレスを占領
独立の気運は、トラファルガーの海戦で勝利した英国艦隊が、1806年6月、ラ・プラタ領に上陸したことで高まった。スペイン政府はこの強襲をまったく予想しておらず、スペイン人総督は第二都市・コルドバに逃げ、ブエノスアイレス市は1,600名のイギリス兵によって一年間占領された。翌年、ブエノスアイレス市の軍事評議会が設立した5,000名の市民軍が、3,000名のスペイン軍とともにイギリス軍を追い出したが、その結果、対岸のモンテビデオ港がイギリス軍に占領された。この一連の紛争は、植民地におけるスペイン政府の権威を失墜させるのに十分なものだった。

スペイン植民地の終焉を招いたのは、1807年におきたイベリア半島の権力の空白である。フランス軍がイベリア半島を支配すると、スペイン王フェルディナンドZ世はナポレオンによって廃位、同時に、ポルトガル王は英国艦隊に乗って、6,000名の宮廷官僚とともに、リオデジャネイロに逃亡した。

イベリア半島での政変のニュースが南米に届くと、ベネズエラではスペイン人総督が追放され、エクアドルでは独立宣言、メキシコとペルーでは反乱がおきた。ラ・プラタ副王領内には、複数の自治政権が誕生し、それぞれの政権がスペイン領の正統な継承者であると主張するようになった。
(S&T#254に関連記事「大英帝国のブエノスアイレス占領 1806-07」があります。)


1810年のカビルド(参事会)

アルゼンチンの独立と内戦
アルゼンチンでも、他の地域と同じことがおきていた。1810年5月22日、251人のブエノスアイレス市民が集まったカビルト(参事会)でスペインからの独立を宣言、1816年には「リオ・デ・ラ・プラタ連合州(United Provinces of the Rio de la Plata、後のアルゼンチン)」の建国宣言をした。しかし、この政府がコントロールできたのは、ブエノスアイレスの周辺地域にすぎなかった。

アルト・ペルー(後のボリビア)、コルドバ、バンダ・オリエンタル(後のウルグアイ)、パラグアイは、自ら「反革命」を謳ってスペインの植民地であり続けることを選び、ラ・プラタ副王領の首都はブエノスアイレスからバンダ・オリエンタルに移された。

アルゼンチンに設置された革命政府は、発足当初から内部で紛糾した。この新政府は、フランス革命の「自由・平等・博愛」を標榜しながらも、スペイン王フェルディナンド7世を君主として戴き、しかし、政治の実体は、少数のポルテーニョによる寡頭支配であり、これは地方との間に極端な経済的不均衡を生むものだった。統治形態についての一致もなく、参事会には、イギリスの摂政を求める者、共和制を主張する者、果てはポルトガル王妃による王政を主張する者などがいた。

新政府がスペイン副王領に対してとった戦略は、交渉と、交渉決裂後の武力制圧だったが、新政府軍はほとんどの遠征において、スペイン軍に敗退した。(バンダ・オリエンタルとパラグアイは、戦争でブエノスアイレス政権に勝った後で、スペイン軍も追い出して独立国になったが、ブエノスアイレスとの対立は、Triple Alliance Warが終わるまで続いた。後述)。 アルゼンチンは、ブエノスアイレスによる強い統制を望む「中央集権派」と、地方の自治を志向する「連邦派」との争いになり、さらに、各州に武装勢力「カウディーリョ」が台頭、1820年に新政府軍が政府に反乱すると、アルゼンチンは本格的な内戦状態になった。

アルゼンチンの内戦が、少なくとも小康状態になったのは、1832年にカウディーリョの巨頭Juan Manuel de Rosasがブエノスアイレス州の知事になってからだった。Rosasは独裁政治によって周辺の州を支配下に置き、あるいは友好的な関係を築いた。アルゼンチンの中央集権派は政治的弾圧を受けて解散、もしくはバンダ・オリエンタルに亡命した。

カウディーリョの時代
「カウディーリョ」の定義は"独裁的権力を持つ軍人政治家"である。彼らは封建地主であり、土地から上がる収益で私軍を養い地域を支配した。無政府状態になったスペイン領には無数の「カウディーリョ」が生まれた。カウディーリョの多くは政治的センスとカリスマ性を持ち、土着的な人気があった。(メキシコのパンチョ・ビリャもカウディーリョである)
カウディーリョが生まれた背景には、スペイン植民地特有の軍事システムと「ガウチョ」があった。植民地軍は、少数のプロフェッショナルな将校と、現地召集の多数の民間人兵士から出来ていた。後者は租税や一般市民の義務が免除され、民事・刑事上の訴追を免れ、演習や検閲の時に召集された。地方において、民間人兵士は大地主が統率していた。

1820年代に生じた権力の不存在によって、南米の旧スペイン領はカウディーリョの抗争の舞台になった。
カウディーリョにとって武力がすべてであり、誰を味方にして誰と戦うかが生死の鍵だった。都市部の自由主義者や知識人はカウディーリョを嫌ったが、彼らが地域に擬似的な平和をもたらしたことも事実で、知識層も大衆もカウディーリョの恩恵を受けていた。彼らが作り出した秩序は、南米の人々に共通のアイデンティティと思想を与えた。


ガウチョ

ガウチョ
ガウチョは、南米の草原地帯で主に牧畜に従事していた人々で、起源はペルー方面からやってきたスペイン系農業移民と言われる。ガウチョが放浪者や下層階級一般を指す場合もあった。
文盲が多く 、「イギリス」と「ロンドン」と「北アメリカ」が同じ場所を指す別な言い方だと思っているような人達だった。
彼らは慎ましく暮らしながら自分と故郷に誇りを持ち、一方で獰猛で、いつもナイフを携帯していた。賭け事や飲酒が原因で盗賊になる者もいた。

副王領崩壊後のラ・プラタでは、警察と法律はまったく役に立っていなかった。役人はほぼ例外なく賄賂を受け取り、処罰されるのは貧しい者だけ、金持ちで友人の多い者はコネによって刑罰を免れることができた。ガウチョのように武器を持ち歩く習慣こそ、身を守る最善の手段だった。

 


Juan Manuel de Rosas

最初のアルゼンチン統治者
牧場経営者だったJuan Manuel de Rosasは、洗練された政治力によって1820年までにカウディーリョの最大実力者のひとりになった。彼は1829年にブエノスアイレス市を占領、他のカウディーリョと連盟を組んで長期政権を築いた。
政権を握ったRosasは大学を閉鎖し、新聞の発行を禁止、秘密警察で反対勢力を粛清するなど恐怖政治を敷いた。このRosas時代でさえ内戦は継続しており、インディオの襲撃が政情不安に輪をかけた。

進化論を著したダーウィンは1833年に「荒野の討伐作戦」で原住民を掃討中のRosasと出会っている。「ビーグル号航海記」の中で、ダーウィンはRosasを「飛びぬけた人物。360平方キロの土地と30万頭の牛を持つ。」と記し、「乗馬の達人で、ガウチョの服装や習慣をよく守った。部下から絶大な支持を得ていた。掟を厳格に適用し、数百人の荒くれ男をうまく束ねていた。」と書いている。
当時のアルゼンチン社会において乗馬術はきわめて重要で、指導者を選ぶのに「荒馬ならし」の腕前で決めたほどだった。馬が倒れても本人は落ちていないでいられる神業を演じられることがリーダーの条件のひとつだったのだ。


1811年5月14日、Velasco領事の前で行われた独立宣言

パラグアイの独立
ブエノスアイレスに革命政権が誕生した時、パラグアイ一帯はスペイン人領事Bernardo de Velascoが管轄していた。当然ながら、Velasco領事は、ブエノスアイレスの革命政府を承認しなかった。
1810年、革命政府が送った使節がVelasco領事によって逮捕されると、パラグアイ制圧の任務は軍隊を編成中の法律家Manuel Belgranoに託された。翌年、彼は1,500名の騎兵でパラグアイに侵攻するが、Belgranoが入手していた「スペイン支配に抵抗する大規模な市民軍がパラグアイに存在する」という情報はまったくの誤りだった。Velasco領事を支持したパラグアイ軍将校は短期間に6,000名の軍隊を編成していた。寄せ集めのブエノスアイレス軍は、同程度に寄せ集めの6,000名のパラグアイ軍に押し返されたのである。

しかし、この紛争は勝ったはずのVelasco領事にとって皮肉な結果に終わった。パラグアイの白人は、ブエノスアイレス市との衝突を通じてスペイン副王領が崩壊したことを知った。そして戦いが終わった後にAsuncion市に入ってきた200名のポルトガル軍が、彼らをおおいに驚かせたからだった。スペイン領事館は密かに、Rio Grande do Sulのポルトガル軍に援軍を頼んでいた。しかもVelasco領事は、爆竹を鳴らしてポルトガル軍を迎えていた。
Velasco領事とポルトガルとの秘密協定は、400年間ポルトガルの侵略と戦ってきたパラグアイの人々にとって受け入れられるものではなかった。
翌年 、兵士の無血クーデターによって、パラグアイ新政権がAsuncion市に誕生したのだった。


Dr. Francia

独裁者Jose Gaspar de Francia
スペイン支配時代、コルドバ大学で神学を学んでいたFranciaは、金銭で学位を買うポルテーニョを激しく軽蔑するような人物だった。憤慨する代わりに努力を選んだ彼は、ラテン語、フランス語、スペイン語、Guarani語に堪能な法律家になり、富と社会的地位を得た。FranciaはGuarani語しか話せない貧しい人々の訴訟も受けたが、これは当時の法律家では珍しいことだった。やがてFranciaの名は、農奴や貧しい農民にも知られるようになった。

恐らく、パラグアイ新政権の中で、Franciaだけが外国留学の経験のある人物だったに違いない。彼は、領土問題、港の使用ならびに通商の規約についてブエノスアイレス政権と交渉し、パラグアイの独立を非公式に認めさせることができた。その見返りにFranciaが得たものは、軍部の支持だった。
Franciaはまた、人心の掌握にも長けていた。独裁者になる前、彼は突如、政府から脱退して隠居をはじめた。政府閣僚はFranciaに政府に戻るよう依願し、Franciaは慇懃にこれを受諾したが、Francia直属の大隊を編成すること、政府でFranciaのみが拒否権を発動できること、を条件としたのだった。パラグアイ政府はこれを受け入れ、Franciaは、絶大な権力を手にした。

パラグアイの鎖国主義
独裁者Franciaの政治は反動的なものだった。彼は、国内の政敵や不服従な地域を制圧して独裁者としての地位を固めたが、パラグアイの本質的な社会構造を変えることはしなかった。 国内の奴隷制度は維持され、地方のエリート階級は農奴制による支配を続けることができた。
彼は国内の技術と産業を育成しながら、鎖国政策をとり、外国資本と技術の流入を封じた。すなわち、外国人ビジネスマンを国外に追放、外国人の入国を禁じたのである。

Franciaの政治思想
Franciaは、自分がナポレオンや大帝ピョートル一世のような父権的独裁者だと考えていた。ブエノスアイレスの先進的な政治家と同じように、Franciaも初期には急進的な言辞を用いたが、彼の実際の政治は、どの保守派より保守的だった。
彼は、フランス革命の三つの精神「自由、平等、博愛」のうち、「平等」しか支持しなかった。「自由」は規律を破り、「博愛」に至っては考えのはっきりしない左翼人の感傷であり、パラグアイでは通用しないフランス人の女々しい煽動だった。

結果から判断するなら、Franciaの鎖国主義と富国強兵策は正しい選択だった。建国を宣言した後も、パラグアイは周囲を敵に取り囲まれていた。ブエノスアイレスは1810年のBelgrano遠征でパラグアイを領有しようとしたし、Artigasはミシオネスで暴れまわっていた。そして北には最も危険な国、ブラジルがいた。

その後パラグアイは、他の南米の国々を凌ぐ経済的・政治的発展を遂げ、鎖国は、パラグアイ人の「Guarani-スペイン混血文化」をいっそう堅固なものにした。パラグアイにみられた社会的結束は、ブエノスアイレスや周辺の旧植民地領ではみられないものだった。Triple Alliance Warがはじまった時、パラグアイはブラジル帝国に次ぐ軍事強国になっていた。


ドン・ペドロ1世

ブラジル帝国
ブラジルが単一国家として独立できたのは、そこにポルトガル宮廷が存在したからだった。
1807年にヨーロッパから逃れてきたジョアン6世は、リオデジャネイロに宮殿、省庁、銀行、印刷所、士官学校を建設、イギリスは300万ドルを宮廷政府に融資した。七年後にブラジルは王国に昇格、1822年には王子ドン・ペドロ1世を皇帝とするブラジル帝国が誕生した。
これによってイギリスが得たものは、ブラジルにおける最恵国待遇と治外法権、無制限の輸出権であり、王国であるはずのブラジルは、経済的にはイギリスの周辺国化していた。

一般大衆にとって独立は遠くの出来事だった。権力は植民地時代と同じ層が握り、独立による経済の自由化を楽しんだのは大農園主と商人だった。大多数の社会エリートが強い国家を望んだ結果、ブラジルではスペイン領にみられるような地域の分裂はおきなかった。奴隷制度に依存するブラジル経済には国家主義が必要であり、ドン・ペドロ皇帝は統一のプロパガンタと社会的な重石(おもし)の役割を果たした。皇帝というシンボルのおかげで、一般大衆は、政治的決定権がまったくないにもかかわらず、帝国に仮の信頼を寄せることができたのである。

奴隷は大農園だけでなく、地域社会のどこにでもいた。ブラジルの政治指導層は、貧困層に政治を考えさせたなら、それは極端な奴隷解放主義か、宗教的な空想にしかならないと考えていた。統一国家形成の背景には奴隷の反乱への恐怖があり、それは一般の白人も同様だった。

 

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