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Triple Alliance War 〔パート1〕植民地化
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南米の火薬庫 1811年パラグアイ、1816年アルゼンチン、1822年ブラジル帝国が誕生すると、ミシオネス、コリエンテス、バンダ・オリエンタルが係争地になった。中でも、ブエノスアイレス市の対岸、ラ・プラタ川河口にあるバンダ・オリエンタルは、南米の火薬庫だった。
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ブラジル領バンダ・オリエンタル すなわち、1810年にブエノスアイレスに革命政府が誕生すると、Artigasは180名の革命軍を率いてバンダ・オリエンタルに侵入、1,000名のガウチョ(非正規の騎兵)を集めてスペイン王党派と戦争をはじめた。1811年5月、革命軍は1,200名の王党派を破り、500名を捕虜にした。当時よくあったように、捕虜の多くはArtigasの兵士になり、残存兵はモンテビデオ市に篭城した。 モンテビデオの王党派は容易に降伏せず、数年持ちこたえた。1814年になると、ブエノスアイレスの革命政府と政治的に対立したArtigasが、戦場から自分の軍隊を撤退させてしまった。革命軍はArtigas抜きでモンテビデオを陥落させたが、Artigasにとって幸運なことに、ブエノスアイレスで発生した反乱を機に、サンタフェ州、コリエンテス州、エントレ・リオス州、コルドバ州、ミシオネス州がブエノスアイレス政府から分離した。結局、Artigasは、これらの分離した州のリーダーとして返り咲き、「連邦同盟(Liga Federal)」を結成したのだった。Artigasは自らをバンダ・オリエンタルの「プロテクター」と名乗ったが、ブエノスアイレスは彼を「裏切り者」と呼んだ。 王党派撤退後にバンダ・オリエンタルでおきた争いはArtigas軍とブエノスアイレス軍の対決だった。1815年1月、Artigasの軍1,200名と800名のブエノスアイレス軍がGuayabosで戦った。ブエノスアイレス軍に200名の死者と400名の捕虜が出たため、ブエノスアイレス軍は、Artigasと講和を結んでモンテビデオから撤退した。後にウルグアイの初代大統領となるJose Fructuoso Riveraは、この時、ブエノスアイレス軍に従軍していた。 Artigasの天下は短かった。翌年8月、ジョアン6世とともにヨーロッパからリオデジャネイロに逃れてきたポルトガル正規軍が、一万人規模の軍でバンダ・オリエンタルに侵攻したからだった。ポルトガル軍はモンテビデオからArtigasを追い出し、翌々月にはArtigasの兵力は半分まで減っていた。その後3年間、Artigasはリオグランデソル(ブラジル南側)でゲリラ戦を展開するが、最後はパラグアイに亡命、バンダ・オリエンタルはシスプラチナ州と改名され(1821年)、翌年、ブラジル.帝国の一部となった。 ブエノスアイレス政府は反Artigasの立場からポルトガル軍の侵略行為を黙認していたと言われ、あるいは、他の地域の反乱で忙しく、ポルトガルと争う兵力がなかったとも考えられる。少なくともバンダ・オリエンタルの評議会は、ブエノスアイレスに軍事支援を求め、ブエノスアイレス政府も一度はこれに合意していた。しかし、Artigasは、バンダ・オリエンタルの政府がブエノスアイレスの影響下に入ることを望まなかった。
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シスプラチナ戦争 (500日戦争、第二次ウルグアイ独立戦争、アルゼンチン・ブラジル戦争) 「33人の東方人」の宣誓 1825年4月、Lavallejaはウルグアイ軍人を率いてアルゼンチン領からバンダ・オリエンタルに潜入した。"33人の東方人"と名乗った彼らは、「独立か死か」のスローガンの下に2,000名のウルグアイ人を現地でリクルート、ブラジル軍と戦闘を開始した。 ブラジル海軍はブエノスアイレス港を封鎖することでアルゼンチン経済に打撃を与えようとした。海軍らしい海軍を持っていなかったアルゼンチンがとった対抗手段は、外国通商船の略奪だった。アルゼンチンが出した公認略奪船は、特にイギリス・ブラジル間の通商に大きな損害を与えた。ブラジルとアルゼンチンは1828年まで数度水上で戦ったが、いずれの側も決定的な勝利を得ることはなかった。 一方、地上ではアルゼンチンが一万人の兵を動員、ブラジル軍と激しく交戦したが、アルゼンチン側の政治的不統一などにより、1826年11月にブラジル軍はモンテビデオを奪回、翌年1月にはブエノスアイレス攻略のために軍を差し向けるほど優勢になった。しかし1827年2月のイツザインゴ(パソ・ド・ロサリオ)の戦いで、ブラジル軍は200名の戦死と1,000名の捕虜・負傷者を出して敗退、しかしアルゼンチン軍にも500名近い損害が出て、地上戦もまた膠着状態になった。 ウルグアイ誕生 ブエノスアイレスの政治力は、シスプラチナ戦争が始まる以前からチリ・ペルーの遠征の失敗、パラグアイの喪失、リトラル三州との対立、Rosasに代表される地方軍閥の反乱によってすでに低下していた。シスプラチナ戦争によってアルゼンチンという国家概念が諸州に育つことはなく、ボルティーニョの知識と見識が"遅れた"地方諸州を近代国家に導く、というビジョンが失敗したことはあきらかだった。 イギリスは、ブラジルとアルゼンチン間に政治的緩衝地帯を作った。すなわち、ブラジルとアルゼンチン連合に和平条約を締結させ、バンダ・オリエンタルに対する双方の領有権を放棄させたのである。その結果、バンダ・オリエンタルは「ウルグアイ東方共和国」として独立した(1828年12月)。 シスプラチナ戦争によってブラジル王室の権威は失墜し、ブラジル国王ドン・ペドロ1世は1831年に退位した。ブラジルの資本家は王室よりも議会へのロビー活動に重きを置くようになった。アルゼンチンでは、停戦に合意したDorego知事がバンダ・オリエンタルから帰還した軍によって逮捕、2時間後に裁判なしで銃殺された。Doregoの暗殺後、政権を握ったのはRosas(連邦派)だった。ウルグアイの人口は、長年の戦争によって激減していた。 |
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"ミュージカル"大統領
最初のクーデータは1832年におきた。大統領選挙に敗れたLavallejaが、コロラド党の初代大統領Riveraに仕掛けたのだった。強力なリーダーシップを発揮したRivera大統領は、クーデータの首謀者とLavallejaの妻を逮捕、Lavalleja本人はブラジルに逃れたが、Lavallejaの全資産は没収された。 大統領に就任したOribeは法を改正してRivera(元大統領)の経済基盤を圧迫、彼の任期中の収賄を追及し軍司令官からも解任した。すると、Riveraがクーデータをおこした。 敵の敵は味方 OlibeとRiveraの熾烈な戦い
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「大戦争(Guerra Grande)」 はじまる |
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Rosas、飼い犬に手を噛まれる ところが包囲9年目の1851年、[ブランコ党(Oribe) + アルゼンチン連邦派軍(Rosas)]は予想しなかった原因で敗北した。エントレ・リオス州を支配するカウディーリョでありRosasの腹心だったJusto Jose de Urquizaがコロラド党に寝返ったのである。そしてUrquizaの動きは完璧だった。 Urquizaは1851年5月29日に、ブラジル、コロラド党、コリエンテス州の代表とで秘密協定を取り交わし、Rosas政権を転覆することの合意をとりつけていた。
Urquizaが動いたのは1851年6月、4,000名の軍勢がウルグアイのパイサンドゥを占領、ブラジル軍の援軍を待たずにモンテビデオの[ブランコ党(Oribe) + アルゼンチン連邦派軍(Rosas)]を攻撃、これに多数のウルグアイ軍人が味方したため、10月8日にOribeは降伏した。 Urquiza連合軍は1582年1月からアルゼンチンに侵攻を開始、ブエノスアイレス郊外のカセーロス(モンテ・カセロス)の決戦でも勝利した。この戦いでUrquiza軍は、19000名の私兵、ブラジル軍3,500名、ウルグアイ軍1,500名、50門の大砲を集めたが、兵士と呼べるのはブラジル軍だけだった。 イギリス大使館に逃れたRosasは娘とともにイギリス船でSouthamptonに脱出、20年におよぶRosas支配は終わった。 Urquizaは、イギリス資本によって鉄道を建設、貿易の自由化を行ったが、イギリス製品の流入は、後にアルゼンチンの地方産業が衰退する原因となった。ブラジルのMaua財閥はアルゼンチンに資本を投下し産業基盤を築きながら、アルゼンチン経済への影響力を強めていった。戦勝国ブラジルは、クアイレイム川流域のウルグアイ北部を自国の領土にした。 |
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国家間の対立が拡大 1856年、Mitreの騎兵隊160名がブランコ党の遠征隊と衝突、生き残ったのは27名だった。二年後にもブランコ党は同様の損害を出し、Quinterosではブランコ党がコロラド党の捕虜152人を惨殺した。この時代の戦争には捕虜への人道的扱いという概念はなく、捕らえられた兵士が喉をかき切る方法で処刑されることも珍しくなかった。 ブラジル、パラグアイ、イギリス、アメリカは両者の仲介に入ったが、ブエノスアイレス知事Valentin Alsina(Mitre側)がUruqizqaの解任を求めたため成立しなかった。 |
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パラグアイの登場 Lopezはこの時34才、父親はパラグアイの二代目大統領で、本人はナポレオンV世の治下のヨーロッパに数年間滞在、軍事・国際政治を学んでいた。目が眩むほど飾り立てた軍服を好むLopezは、南米社会の中でパラグアイはもっと敬意を払われるべきだと考えていた。 セペタの戦いが終わった時、ブエノスアイレスに逃げたMitreは敗北寸前だったが、Urquizaにはブエノスアイレスを占領するだけの戦力がなく、政治的仲裁を必要としていた。 アルゼンチン統一に寄与したSolano Lopezに対し、ブエノスアイレス市は市民代表を通じて感謝状を贈った。しかし、この協定で一番得をしたのはMitreだった。第一に、MitreのライバルAlsinaが失脚したため、Mitreは自動的にブエノスアイレス市の権力を手にした。第二に、Mitreは停戦の時間を権力の強化に費やしたため、次にUrquizaと対決した時、MitreはUrquizaと互角の兵力を戦場に集めることができた。 Urquizaの敗北
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Floresの台頭 Triple Alliance Warがはじまるまで
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Floresのウルグアイ潜入作戦 アルゼンチン政府はFloresの軍事行動への関与を否定したが、Floresに武器を供給していたのは他ならぬMitreだった。7月、ウルグアイ政府が武器を積んだアルゼンチン船Salto号を拿捕すると、アルゼンチンは賠償と謝罪を求め、「ウルグアイの不法行為に対して断固たる措置をとる」と通告した。報復としてアルゼンチンはウルグアイのGeneral Artigas号を捕獲した。アルゼンチンの新聞は、ウルグアイとの戦争がまじかであると報道した。 パラグアイが国際政治に登場 1863年9月、Lopez大統領(パラグアイ)は、アルゼンチン政府に対し、ウルグアイへの内政不干渉を求める文書を送り、ウルグアイ支援を表明した。これはアルゼンチンとウルグアイの緊張をさらに高めただけだった。パラグアイを後ろ盾に持ったウルグアイ政府は外交交渉による解決を断念、両国は12月に国交断絶になった。 Mitre、イギリスを動かす
1864年、老獪なMitre大統領は、ブエノスアイレスに滞在していたイギリス公使Edward Thorntonを仲介役として担ぎ出した。アルゼンチン外交官Rufino
de Elizaldeを同伴したThorntonはイギリス船でモンテビデオ市に渡り、Jose Antonio Saravia(ブラジル外交官)とJuan
Jose de Herrera(ウルグアイ外務大臣)と折衝をはじめた。 1864年6月18日、ブラジル、アルゼンチン、ブランコ党、コロラド党は停戦協定に署名した。歴史家の中には、この合意形態がパラグアイの孤立のはじまりであり、Triple Alliance Warにおける三国協定の原型であったと指摘する者がいる。 イギリスの仲介は失敗 停戦協定にによって、Aguirre大統領は国軍に対し停戦を命令し、コロラド党への恩赦と次期選挙におけるコロラド党の参加を認めると、Floresは停戦の条件をつりあげた。すなわち、コロラド党が武装解除するための条件として、ブランコ党と等しい数の閣僚の入閣を求めたのである。Aguirre大統領が当然の如くこれを拒否したため、ウルグアイに内戦が復活した。 ブラジルの思惑 ここに至って、ウルグアイ政府(ブランコ党)が頼れる国は独裁国パラグアイだけになった。
ブラジル軍が動く 9月に入ると、ブラジル議会は開戦の熱気に包まれていた。リオデジャネイロ、モンテビデオ、ブエノスアイレス、アスンシオンでは、誰もが戦争について熱く語った。その中でMitre大統領は絶対的な中立を宣言し、ブラジルとウルグアイが戦争になった場合の"不干渉"を唱えていた。 ブラジルがウルグアイへの軍事侵攻を決めた理由は、次の4つがあげられる。第一に、Mitreの影響が強いコロラド党(Flores)が単独で勝利した場合、ウルグアイがアルゼンチンの属国になる可能性があること。第二に、ウルグアイ北側にはブラジル人牧場主が多数居住し、彼らがコロラド党を支持していること。第三に、ウルグアイ政府(ブランコ党)がパラグアイに軍事支援を求めていたこと。ブラジルは、ウルグアイにパラグアイの影響力が強まることを望んでいなかった。第四に、アルゼンチン大統領Mitreが、ブラジルとウルグアイの戦争に"不干渉"を表明したこと。 1864年10月16日、ブラジル軍がLopes大統領の不可侵勧告を無視して公然とウルグアイ領内に侵入した。これがTriple Alliace Warの幕開けだった。 パラグアイにとっての不幸は、これによって始まったパラグアイとブラジルとの戦争がアルゼンチンの参戦を招き、さらにはウルグアイ内部でコロラド党が瓦解したため、支援していたつもりのウルグアイからも宣戦布告されたことである。
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