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Triple Alliance War
パラグアイ 1865 - 1870
南米の歴史のウォーゲーマー的解釈

〔パート1〕植民地化
〔パート2〕独立

〔パート3〕国家紛争の始まり

 

南米の火薬庫
南米の各地が独立した後、次に生まれた争いは国境紛争だった。それぞれの新政府は、従前の植民地の正当な継承者として、あるいは市民の支援によって建国したと主張したが、自国の権威が地理上、どこまで及び、どこで終わるかについての周囲との合意は、最初から存在しなかった。

1811年パラグアイ、1816年アルゼンチン、1822年ブラジル帝国が誕生すると、ミシオネス、コリエンテス、バンダ・オリエンタルが係争地になった。中でも、ブエノスアイレス市の対岸、ラ・プラタ川河口にあるバンダ・オリエンタルは、南米の火薬庫だった。

1820年代のラプラタ

  • ラプラタ河は、川上に登るにつれ、パラナ川、パラグアイ川と名前を変える。
  • エントレ・リオス、コリエンテス、ミシオネス、バンダオリエンタルは、ラ・プラタ副王領が消滅してから数十年間、帰属がはっきりしなかった。
  • ブラジル領マトグロッソへの唯一有効な交通手段はラプラタ河を遡る方法だった。この交通の自由を得ることは、ブラジルにとってきわめて重要だった。
  • 有効な陸路が存在しないため、パラナ川を封鎖されるとパラグアイは孤立する (ブラジル軍が内陸部を南下してマトグロッソに到達するまで二年かかった例がある)。
  • パラグアイは、その鎖国主義から、「内陸の日本(inland Japan)」と言われた。

ブラジル領バンダ・オリエンタル
バンダ・オリエンタルで最初に独立戦争をはじめたのは、Jose Gervasio Artigasだった。モンテビデオ出身の軍人Artigasは、アルゼンチン革命軍の指揮官として、バンダ・オリエンタルでスペイン王党派と戦った。

すなわち、1810年にブエノスアイレスに革命政府が誕生すると、Artigasは180名の革命軍を率いてバンダ・オリエンタルに侵入、1,000名のガウチョ(非正規の騎兵)を集めてスペイン王党派と戦争をはじめた。1811年5月、革命軍は1,200名の王党派を破り、500名を捕虜にした。当時よくあったように、捕虜の多くはArtigasの兵士になり、残存兵はモンテビデオ市に篭城した。

モンテビデオの王党派は容易に降伏せず、数年持ちこたえた。1814年になると、ブエノスアイレスの革命政府と政治的に対立したArtigasが、戦場から自分の軍隊を撤退させてしまった。革命軍はArtigas抜きでモンテビデオを陥落させたが、Artigasにとって幸運なことに、ブエノスアイレスで発生した反乱を機に、サンタフェ州、コリエンテス州、エントレ・リオス州、コルドバ州、ミシオネス州がブエノスアイレス政府から分離した。結局、Artigasは、これらの分離した州のリーダーとして返り咲き、「連邦同盟(Liga Federal)」を結成したのだった。Artigasは自らをバンダ・オリエンタルの「プロテクター」と名乗ったが、ブエノスアイレスは彼を「裏切り者」と呼んだ。

王党派撤退後にバンダ・オリエンタルでおきた争いはArtigas軍とブエノスアイレス軍の対決だった。1815年1月、Artigasの軍1,200名と800名のブエノスアイレス軍がGuayabosで戦った。ブエノスアイレス軍に200名の死者と400名の捕虜が出たため、ブエノスアイレス軍は、Artigasと講和を結んでモンテビデオから撤退した。後にウルグアイの初代大統領となるJose Fructuoso Riveraは、この時、ブエノスアイレス軍に従軍していた。

Artigasの天下は短かった。翌年8月、ジョアン6世とともにヨーロッパからリオデジャネイロに逃れてきたポルトガル正規軍が、一万人規模の軍でバンダ・オリエンタルに侵攻したからだった。ポルトガル軍はモンテビデオからArtigasを追い出し、翌々月にはArtigasの兵力は半分まで減っていた。その後3年間、Artigasはリオグランデソル(ブラジル南側)でゲリラ戦を展開するが、最後はパラグアイに亡命、バンダ・オリエンタルはシスプラチナ州と改名され(1821年)、翌年、ブラジル.帝国の一部となった。

ブエノスアイレス政府は反Artigasの立場からポルトガル軍の侵略行為を黙認していたと言われ、あるいは、他の地域の反乱で忙しく、ポルトガルと争う兵力がなかったとも考えられる。少なくともバンダ・オリエンタルの評議会は、ブエノスアイレスに軍事支援を求め、ブエノスアイレス政府も一度はこれに合意していた。しかし、Artigasは、バンダ・オリエンタルの政府がブエノスアイレスの影響下に入ることを望まなかった。


Jose Gervasio artigas

Jose Gervasio Artigasの「南アメリカ合衆国」
Artigasは、1764年にモンテビデオ市の裕福な牧場主の家に生まれた。12歳の時からガウチョとともに働き、武器と馬の扱いに習熟した。アメリカ合衆国の建国に強い影響を受けた彼は、合衆国憲法を手放さなかったと言われる。
1807年、イギリス軍がモンテビデオ市を占領した時はスペイン軍士官として戦い、イギリス軍の捕虜になった。彼がイギリスに護送されることを免れた理由は、健康上の理由だった。
1811年2月にブエノスアイレス市で軍役を志願、二ヶ月後に180名の兵士とともにバンダ・オリエンタルに戻り、こんどはスペイン軍を相手に戦った。スペイン軍を破った後はブエノスアイレス革命軍と戦い、1815年の「連邦同盟」によって、バンダ・オリエンタル一帯に自治圏のようなものを作った。

バンダ・オリエンタルがアルゼンチンからの政治的独立を求めたのは、ブエノスアイレス市が周辺の地域と対立し争った理由と同じだった。
すなわち、ラ・プラタ副王領第一の貿易港ブエノスアイレスがもたらす税収入は飛びぬけてよく、ブエノスアイレス市の市民はその利益を独占したかった。同様に、モンテビデオはラ・プラタ副王領第二位の貿易港であり、バンダ・オリエンタルの人々にとって繁栄の源だった。彼らは、ブエノスアイレス市がモンテビデオ港の関税をコントロールすることを望まなかったのである。

Artigasの理想は、アルゼンチンの各州が対等の立場で連邦国家を形成し、すべての「アメリカ人」が、人種階層にかかわりなく、何らかの形で政治に参加することだった。「南アメリカをブエノスアイレス市の破滅的な規制から解放する」という彼のメッセージは、富裕層より貧困層から支持され、Artigasが失脚した後も南米に強い影響を残した。現代のウルグアイ市民は、Artigasの戦争を"第一次ウルグアイ独立戦争"と呼び、首都モンテビデオの広場には彼の銅像が建っている。

Artigasの「合衆国構想」はポルトガル軍とブラジル帝国の干渉によって消滅したが、失脚後の彼は、他の南米の政治指導者とくらべるなら、平穏な余生を過ごしたといえる。パラグアイに亡命したArtigasは、貧困の中で84才の生涯を終えた。

Artigasの連邦同盟に加わった地域。境界は現在の州境や国境によるもので、当時の各地域の境界と多少ずれる。


シスプラチナ戦争 (500日戦争、第二次ウルグアイ独立戦争、アルゼンチン・ブラジル戦争)
ブラジル領シスプラチナ州が存在した期間は4年だった。Artigasの副官だったJuan Antonio Lavallejaが、アルゼンチンの軍事支援を得て反乱を組織したからだった。
Artigasの時代に「連邦同盟」側で戦ったLavallejaは、1818年から三年間、ポルトガル軍の捕虜になっていた。捕虜から解放されると、ブエノスアイレスで他のウルグアイ軍人と合流、蜂起の計画を練りながら、リーダー格として頭角を現していった。

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「33人の東方人」の宣誓

1825年4月、Lavallejaはウルグアイ軍人を率いてアルゼンチン領からバンダ・オリエンタルに潜入した。"33人の東方人"と名乗った彼らは、「独立か死か」のスローガンの下に2,000名のウルグアイ人を現地でリクルート、ブラジル軍と戦闘を開始した。
Lavallejaの反乱軍には、アルゼンチン北部の軍人やRiveraの私軍も加わり、1825年10月のサランディの戦いでブラジル軍に600名の負傷と200名の戦死者という大損害を与え、ブラジル軍をモンテビデオ市とコロニア市に追い詰めた。
これに対し、ブラジルはアルゼンチンに宣戦布告(1825年12月)、後に"500日戦争"、"第二次ウルグアイ独立戦争"、"シスプラチナ戦争"とも呼ばれる戦争がはじまった。この戦争は、スペイン独立後の南米で最初の本格的な国家間紛争だった。

ブラジル海軍はブエノスアイレス港を封鎖することでアルゼンチン経済に打撃を与えようとした。海軍らしい海軍を持っていなかったアルゼンチンがとった対抗手段は、外国通商船の略奪だった。アルゼンチンが出した公認略奪船は、特にイギリス・ブラジル間の通商に大きな損害を与えた。ブラジルとアルゼンチンは1828年まで数度水上で戦ったが、いずれの側も決定的な勝利を得ることはなかった。

一方、地上ではアルゼンチンが一万人の兵を動員、ブラジル軍と激しく交戦したが、アルゼンチン側の政治的不統一などにより、1826年11月にブラジル軍はモンテビデオを奪回、翌年1月にはブエノスアイレス攻略のために軍を差し向けるほど優勢になった。しかし1827年2月のイツザインゴ(パソ・ド・ロサリオ)の戦いで、ブラジル軍は200名の戦死と1,000名の捕虜・負傷者を出して敗退、しかしアルゼンチン軍にも500名近い損害が出て、地上戦もまた膠着状態になった。

ウルグアイ誕生
s二年間つづいたシスプラチナ戦争は、ブラジルとアルゼンチン、ウルグアイの国力を著しく低下させた。
ブラジルの物価は一般市民が生活に支障をきたすレベルまで高騰し、ブラジル政府がイギリスの銀行家から調達した戦費は1826年にはなくなっていた。戦争を推進していたドン・ペドロ1世が軍事予算を獲得するために議会を召集すると、富裕層も民衆も彼の贅沢な暮らしぶりや愛人の存在を非難、1828年6月には傭兵の反乱がリオデジャネイロで発生、ドン・ペドロ1世は軍の後ろ盾も失った。

ブエノスアイレスの政治力は、シスプラチナ戦争が始まる以前からチリ・ペルーの遠征の失敗、パラグアイの喪失、リトラル三州との対立、Rosasに代表される地方軍閥の反乱によってすでに低下していた。シスプラチナ戦争によってアルゼンチンという国家概念が諸州に育つことはなく、ボルティーニョの知識と見識が"遅れた"地方諸州を近代国家に導く、というビジョンが失敗したことはあきらかだった。
戦争を推進したBernardino Rivadavia知事(中央集権派)は1827年6月に辞任、連邦派のManuel Doregoが政権を執ると、彼は地方の権利を復活させ、イギリスを仲介者としてブラジルとの停戦交渉をはじめた。

イギリスは、ブラジルとアルゼンチン間に政治的緩衝地帯を作った。すなわち、ブラジルとアルゼンチン連合に和平条約を締結させ、バンダ・オリエンタルに対する双方の領有権を放棄させたのである。その結果、バンダ・オリエンタルは「ウルグアイ東方共和国」として独立した(1828年12月)。

シスプラチナ戦争によってブラジル王室の権威は失墜し、ブラジル国王ドン・ペドロ1世は1831年に退位した。ブラジルの資本家は王室よりも議会へのロビー活動に重きを置くようになった。アルゼンチンでは、停戦に合意したDorego知事がバンダ・オリエンタルから帰還した軍によって逮捕、2時間後に裁判なしで銃殺された。Doregoの暗殺後、政権を握ったのはRosas(連邦派)だった。ウルグアイの人口は、長年の戦争によって激減していた。
シスプラチナ戦争で一番利益を得たのはイギリスだった。ウルグアイ東方共和国が自由貿易の拠点になるからだった。

"ミュージカル"大統領
1828年にウルグアイが独立すると、その大統領の座は"ミュージカル・チェア"のように頻繁に交代した。新生国家の政争解決の手段は、大統領の暗殺かクーデータだった。
ウルグアイの二大政党であるブランコ党とコロラド党は、"33人の東方人"が分裂してできた軍人派閥だった。それそれの軍人派閥をブラジルとアルゼンチンが支援したため、ウルグアイの政治はその後長きにおいて隣国によって翻弄される結果となった。

ウルグアイの生活
ブラジルとアルゼンチンに挟まれたウルグアイは、その90%以上が平坦な草原地帯であり、最も高い山でも海抜500mほどしかない。鉱物資源もなく、スペイン植民地の中でも特に開発が遅れた地域だった。

スペインから牛、羊、馬が移入されると、畜産業が主要産業となったが、牧畜は人手がかからないため、先住民インディオも黒人もほとんど労働に使われなかった。
移民はコロラド党派かブランコ党派の影響下にあり、脅迫と略奪が横行、組織の対立によって一家の長や長男が殺された。コロラド党とブランコ党は、いずれも、戦争遂行に必要な物資は民間からの"徴発"によって獲得し、十分な補償を牧場主に支払わないことが多かった。フランスやイギリスから移民した牧場主は、故国の大使館を通じて賠償を求め、それが後に外国が軍事介入する原因のひとつになった。

 

モンテビデオ
戦闘的なCharrua族が居住していたこの地域は、当初は魅力に乏しかった。ブエノスアイレスに植民地都市が出来た後も、モンテビデオやラプラタ川北側沿岸には、しばらくの間都市が作られなかった。その後のモンテビデオの歴史は、そのままウルグアイの歴史である。

放牧がバンダ・オリエンタル(後のウルグアイ)の主要産業になると、スペイン人総督がモンテビデオの都市計画を作り、砦、教会、公園、庁舎、区画整然とした道路を整備した(1726年)。それがモンテビデオ市の基礎となり、今日でも当時の建物がたくさん残っている。1776年にラ・プラタ副王領が設けられると、モンテビデオはブエノスアイレスに次ぐ第二の貿易港として発展を遂げた。

19世紀にスペインとポルトガルが没落すると、モンテビデオは戦略的な意味を持ち始めた。

最初にモンテビデオを襲ったのはイギリス海軍だった。1807年、イギリス軍はブエノスアイレス攻撃の足場としてモンテビデオを急襲して占領した。イギリス軍の敗退によってモンテビデオはいったんスペイン領に戻るものの、1811年のArtigasの独立運動(第一次ウルグアイ独立戦争)による名目上の独立、ポルトガル軍による再占領と1822年のブラジル領(シスプラチナ州)への編入を経て、1825年には"ウルグアイ人(33人の東方人)"によるモンテビデオ包囲戦があり、モンテビデオが陥落、アルゼンチンとの連合を宣言すると、シスプラチナ戦争が勃発、三年後、イギリスの介入によって、アルゼンチンとブラジルが係争地の領有を放棄、ウルグアイは「ウルグアイ東方共和国」として誕生した。
独立後も"大戦争"の舞台になり、ウルグアイとアルゼンチンとの間で9年間のモンテビデオ攻防戦が行われた。モンテビデオに平穏が訪れるのはTriple Alliance Warが終わってからだった。

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Charrua族
d現在のウルグアイ、エントレ・リオス、サンタフェ周辺に居住した狩猟民であり、漁労と採集により生計を立てていた。食人の文化があったとも伝えられる。ラ・プラタ川にやってきた最初のスペイン人Juan Diaz de Solisを殺害したのがCharrua族と言われる。

軍事的に訓練されたCharrua族は、スペイン人、イギリス人、ボルトガル人、ブラジル人らと交戦しながら部族の独立と尊厳を守ろうとしたが、200年におよぶ戦いを経て19世紀までにはウルグアイ北部にまで追い詰められていた。

Artigasの戦争ではトゥパマロス軍に加わり、スペイン軍やブエノスアイレスからの独立戦争に加わった。第二次ウルグアイ独立戦争が終わってウルグアイが独立した時、ウルグアイ初代大統領Riveraとは当初は友好的な関係だったが、有名な1831年のサルシプエデス川の虐殺でほとんどのCharrua族は殺害された。
記録によればRivera大統領は、自らの本拠地"Puntas del Queguay"に「国境を守る話し合い」のためにCharrua族のほとんどを集め、族のリーダー達には酒と軽食をふるまった。その場を、Bernabe Rivera(Rivera大統領の甥)に率いられた12,000名の兵士が襲撃し、公式記録ではCharrua族側に40名の死者が出て300名の捕虜を得た、とされている。
その後もRivera大統領はCharrua族を追いつめ、この時期にCharrua族は歴史から姿を消した。

最初のクーデータは1832年におきた。大統領選挙に敗れたLavallejaが、コロラド党の初代大統領Riveraに仕掛けたのだった。強力なリーダーシップを発揮したRivera大統領は、クーデータの首謀者とLavallejaの妻を逮捕、Lavalleja本人はブラジルに逃れたが、Lavallejaの全資産は没収された。
二年後、 Lavallejaは、アルゼンチンのRosasとブラジル分離主義者の支援を受けて政府転覆を試みた。Lavallejaはこの戦いにも負けたが、Rivera大統領自身は1834年にブランコ党との政争に破れ、二代目ウルグアイ大統領には、アルゼンチン大統領Rosasが支援するブランコ党Manuel Oribeが就任した。Oribeも1811年にArtigasの下でポルトガル軍と戦い、"33人の東方人"としてブラジルと戦争していた。

大統領に就任したOribeは法を改正してRivera(元大統領)の経済基盤を圧迫、彼の任期中の収賄を追及し軍司令官からも解任した。すると、Riveraがクーデータをおこした。
Riveraのクーデータも成功しなかった。数年前、大統領の立場からLavallejaを叩いたRiveraは、今回は政府から反逆者として弾劾される立場になった。政府軍兵士は「法の守護者」と書かれた布を軍服につけてRiveraのクーデータを阻止、この時、Oribe大統領から恩赦を受けていたLavallejaは、アルゼンチンの連邦派軍と連携してRiveraの反乱軍を攻撃した。それに対し、アルゼンチンの中央集権派はコロラド党(Rivera)と同盟してOribe大統領を攻撃した。争いは、[ブランコ党(Oribe) + アルゼンチン連邦派軍]対[コロラド党(Rivera) + アルゼンチン中央集権派軍]という構図になった。

敵の敵は味方
1960年に入るまで、常備軍はアルゼンチンにもウルグアイにも存在せず、軍隊とは私兵の集まりだった。ウルグアイにおけるブランコ党とコロラド党の政争、アルゼンチンにおける中央集権派と連邦派の政争において投入さたのは私兵やヨーロッパから来た傭兵だった。南米原住民がこれらの私軍に編入されることはまれだった。
戦いに敗れた政治グループは隣国に逃れ、その国の軍事支援を受けて本国の敵を葬り去ろうとした。その結果、二党の争いは国家間の争いに拡大された。すなわちウルグアイのブランコ党とコロラド党の争いはアルゼンチン政府(連邦派)とウルグアイ政府(ブランコ党)の戦争に発展し、アルゼンチンの中央集権派と連邦派の争いもまたアルゼンチンとウルグアイの戦争に拡大した。
これに、ブラジル本国、ブラジル分離主義者、フランス、イギリス、帰属のはっきりしないカウディーリョがいずれかの側についたり寝返ったたため、アルゼンチンとウルグアイの紛争は長期化した。
アルゼンチンとウルグアイの国家紛争は、Triple Alliance Warで共通の敵 - パラグアイ - を見つけるまで続いた。

OlibeとRiveraの熾烈な戦い
ウルグアイ政権をめぐるブランコ党(Olibe)とコロラド党(Rivera)の戦いは、アルゼンチン政権を巻き込みながらその後9年間続いた。
1836年9月19日、ウルグアイ政府軍であるブランコ党Oribe軍がカルピンテリアの決戦でRivera軍を破り、[コロラド党(Rivera) + ブラジル分離主義者軍]はブラジルに壊走した。分離主義者軍がブラジル政府軍と戦闘になる中、Riveraは新たな私軍を編成、10月22日に800名の兵士を率いて再びウルグアイに侵入、ブラジル国境付近のYucutujaでOribe軍(ウルグアイ政府軍)を破った。するとOribe軍の敗残兵はRivera軍の傘下に入り、軍勢は2,000名に膨れ上がった。Rosasと戦っていたフランス軍もRiveraがRosasの敵であるという理由から、Rivera元大統領を支援した。
1838年6月15日、Palmarの戦いでRiveraが勝利、10月、Oribe大統領は隣国アルゼンチンに逃れた。


Antonio Lavalleja
初代大統領選挙に敗れる
最初のクーデータ首謀者

Jose Fructuoso Rivera
初代ウルグアイ大統領
Oribeにクーデータ

Manuel Oribe
二代目ウルグアイ大統領
アルゼンチンに亡命

「大戦争(Guerra Grande)」 はじまる
アルゼンチン大統領Rosasは亡命してきたOribeを保護したが、これによりアルゼンチン・ウルグアイ間の対立がいっそう深まった。Riveraはアルゼンチン中央集権派と同盟してアルゼンチン連邦派軍(Rosas)に宣戦布告した。1839年、[コロラド党(Rivera) + アルゼンチン中央集権派 + フランス軍 + コリエンテス州]の連合軍は、アルゼンチン領に侵入して戦闘を開始した。これが1851年まで続く「大戦争、(Guerra Grande)」のはじまりだった。

Rosas、飼い犬に手を噛まれる
大戦争は当初、ブエノスアイレス郊外で行われていた。20ヵ月後にフランス軍は戦場から離脱し、1843年になると、[ブランコ党(Oribe) + アルゼンチン連邦派軍(Rosas)]が優勢になった。戦場はウルグアイに移り、[コロラド党(Rivera) + アルゼンチン中央集権派軍]はウルグアイの首都・モンテビデオに篭城した。ブラジルのMaua財閥とイギリスはコロラド党(Rivera)に武器・資金を提供するが劣勢は挽回できず、二年後にRiveraがブラジルに亡命すると、イギリスも支援を打ち切った。[ブランコ党(Oribe) + アルゼンチン連邦派軍(Rosas)]はモンテビデオの包囲を緩めず、Riveraなきコロラド党が降伏することは時間の問題と思われた。

ところが包囲9年目の1851年、[ブランコ党(Oribe) + アルゼンチン連邦派軍(Rosas)]は予想しなかった原因で敗北した。エントレ・リオス州を支配するカウディーリョでありRosasの腹心だったJusto Jose de Urquizaがコロラド党に寝返ったのである。そしてUrquizaの動きは完璧だった。

Urquizaは1851年5月29日に、ブラジル、コロラド党、コリエンテス州の代表とで秘密協定を取り交わし、Rosas政権を転覆することの合意をとりつけていた。
UrquizaがRosasを裏切った理由は、第一に、"大戦争"中にRosasより力をつけたことであり、第二に、ブラジルが支援したからだった。ブラジルのペドロ2世は、Rosasが戦争に勝ってウルグアイがアルゼンチンに併合されることを阻止したかった。
秘密協定によってできたUrquiz連合軍28,000名のうちブラジル軍は4,000名にすぎなかったが、ブラジル帝国の後ろ盾が約束されたという点でその意味は大きかった。パラグアイも反Rosas連盟への参加を求められたが、従来の孤立主義の立場から名目以上の参加を拒否した。

 

1852年、カセーロスの戦い
右端の丸い建物は天文台で現存する。
カセーロスの戦い
Urquizaが動いたのは1851年6月、4,000名の軍勢がウルグアイのパイサンドゥを占領、ブラジル軍の援軍を待たずにモンテビデオの[ブランコ党(Oribe) + アルゼンチン連邦派軍(Rosas)]を攻撃、これに多数のウルグアイ軍人が味方したため、10月8日にOribeは降伏した。

Urquiza連合軍は1582年1月からアルゼンチンに侵攻を開始、ブエノスアイレス郊外のカセーロス(モンテ・カセロス)の決戦でも勝利した。この戦いでUrquiza軍は、19000名の私兵、ブラジル軍3,500名、ウルグアイ軍1,500名、50門の大砲を集めたが、兵士と呼べるのはブラジル軍だけだった。
Rosas軍は総勢22,000名と60門の大砲で対決、3時間におよぶ戦闘によってRosas大統領は腕を負傷、戦場から逃亡した。

イギリス大使館に逃れたRosasは娘とともにイギリス船でSouthamptonに脱出、20年におよぶRosas支配は終わった。
Urquizaは抵抗を受けることなくブエノスアイレスに入り、暫定政府の大統領に最高裁長官Vicente Lopez y Planesが就任した。

Urquizaは、イギリス資本によって鉄道を建設、貿易の自由化を行ったが、イギリス製品の流入は、後にアルゼンチンの地方産業が衰退する原因となった。ブラジルのMaua財閥はアルゼンチンに資本を投下し産業基盤を築きながら、アルゼンチン経済への影響力を強めていった。戦勝国ブラジルは、クアイレイム川流域のウルグアイ北部を自国の領土にした。


Urquiza

アルゼンチン連合大統領、Justo Jose de Urquiza
エントレ・リオス州生まれのUrquizaは、Rosasの腹心となるまで、地方のカウディーヨのひとりにすぎなかった。
Rosas連邦派についた彼は、大戦争では4,000名の兵を率いてウルグアイを攻め、1845年3月のIndia Muertaの戦いではRiveraの軍隊を破って500名の捕虜を処刑した。
この戦功の見返りに、RosasはUrquizaをエントレ・リオス州の知事に任命、Urquizaは知事の承認なしの商取引を禁じ、自分の農園で生産した麦だけが流通できるようにした。Urquizaはエントレ・リオス州の経済を独裁的に支配することで莫大な富を手にした。

UrquizaとRosasの信頼関係は長くは続かなかった。1850年にRosasがイギリスとフランスに対しラプラタ河の通行を禁止すると、Urquizaは、かつての敵だったコリエンテス州知事Visarosoと連携してRosas政治を非難、翌年には二人とも知事を辞任し、エントレ・リオス州とコリエンテス州は自治を宣言、さらに大戦争中のモンテビデオの包囲戦では、ブラジル帝国と秘密同盟を組んでRosasを裏切ったのだった。

Rosas政権を転覆したUrquizaは、1853年に連邦制の憲法を制定、その翌年3月、「アルゼンチン連合」の大統領となった。アルゼンチン連合の首都はエントレ・リオス州のパラナに設定された。するとUrquiza政権に対抗する分離主義者がブエノスアイレスに集結、ブエノスアイレス州は独自の憲法を作ってアルゼンチン連合から独立した。
この時の分離主義者のリーダーが、Bartolome Mitreだった。


Mitre

ブエノスアイレス州知事、Bartolome Mitre
ブエノスアイレス生まれのBartolome Mitreは読書好きの文筆家だった点からも、Urquizaなどのカウディーヨとは対極的な人物だったと言える。
1837年に文学サロンを装った政治組織に入ったMitreは、Rosasの独裁政治に強く反対していた。Mitreが亡命を余儀なくされた理由は、彼が発表した詩が反政府的であるという理由からだった。
その後15年間、ペルー、ボリビア、ウルグアイを移り住み、軍事行動に参加しながら新聞「El Mercurio」を発行してRosas政権を批判した。モンテビデオ市包囲戦やカセーロスの決戦ではVenancio Floresと共にRosas軍を相手に戦った。1952年のRosas政権崩壊後はブエノスアイレスで台頭、分離主義者のリーダーになり、新聞「論争(Los Debates)」でUrquiza政権を攻撃し、1860年にブエノスアイレス州知事に就任した。
Urquizaがブランコ党・ウルグアイと同盟関係にあったのに対し、Mitreは、コロラド党・ウルグアイを支援していた。

国家間の対立が拡大
Rosasが失脚した後も、ウルグアイとアルゼンチンの緊張は続いた。アルゼンチンの内戦はアルゼンチン連合(Urquiza)とブエノスアイレス州の分離主義者(Mitre)の戦いに変わり、ウルグアイのブランコ党とコロラド党も依然内戦を続けていて、Mitreはコロラド党、Urqizaはブランコ党と連携しながら、それぞれが他方の勢力と戦争した。

1856年、Mitreの騎兵隊160名がブランコ党の遠征隊と衝突、生き残ったのは27名だった。二年後にもブランコ党は同様の損害を出し、Quinterosではブランコ党がコロラド党の捕虜152人を惨殺した。この時代の戦争には捕虜への人道的扱いという概念はなく、捕らえられた兵士が喉をかき切る方法で処刑されることも珍しくなかった。

ブラジル、パラグアイ、イギリス、アメリカは両者の仲介に入ったが、ブエノスアイレス知事Valentin Alsina(Mitre側)がUruqizqaの解任を求めたため成立しなかった。
1859年のセペタの戦いでは、戦争に投入される兵士の数がさらに増え、アルゼンチン連合(Urquiza)の14,000名の部隊にブエノスアイレス州(Mitre)の率いる9,000名の軍隊が戦った。惨敗したMitreは2,000名の兵士とともにブエノスアイレスに逃れた。


Solano Lopez

パラグアイの登場
1859年のセペタの戦いが終わると南米の国際社会に第三のプレイヤーが参加した。その国は独裁国家パラグアイである。パラグアイの次期大統領Solano Lopezの介入によって、UrquizaとMitreは短期間だが停戦した。

Lopezはこの時34才、父親はパラグアイの二代目大統領で、本人はナポレオンV世の治下のヨーロッパに数年間滞在、軍事・国際政治を学んでいた。目が眩むほど飾り立てた軍服を好むLopezは、南米社会の中でパラグアイはもっと敬意を払われるべきだと考えていた。

セペタの戦いが終わった時、ブエノスアイレスに逃げたMitreは敗北寸前だったが、Urquizaにはブエノスアイレスを占領するだけの戦力がなく、政治的仲裁を必要としていた。
Solano Lopezは、UrquizaとMitreの停戦を手際よく実現した。Lopezは、ブエノスアイレス知事Valentin Alsinaを解任させ、これによって停戦協定の道筋をつけた。協定は、ブエノスアイレス(Mitre)を連邦(Urquiza)に組み込むものだったが、中央集権派の憲法を採用、従来のブエノスアイレスが持つ特権は温存された。

アルゼンチン統一に寄与したSolano Lopezに対し、ブエノスアイレス市は市民代表を通じて感謝状を贈った。しかし、この協定で一番得をしたのはMitreだった。第一に、MitreのライバルAlsinaが失脚したため、Mitreは自動的にブエノスアイレス市の権力を手にした。第二に、Mitreは停戦の時間を権力の強化に費やしたため、次にUrquizaと対決した時、MitreはUrquizaと互角の兵力を戦場に集めることができた。
(後にMitre大統領がパラグアイに宣戦布告するとは、この時のSolano Lopezは考えもしなかったに違いない。)

Urquizaの敗北
Solano Lopezの仲介にもかかわらず、MitreとUrqizaは政治上のいざこざからすぐに停戦を解消、1861年のパボンの戦いでは、Urqiza17,000名とMitre15,000名が激突、この時はMitreが勝利した。Urquizaは本拠地エントレ・リオス州に逃れ、Mitre政権に抵抗を続けた。

サンノゼ宮殿
Urquizaがエントレ・リオス州に建てたサンノゼ宮殿は、19世紀のイタリア・アルゼンチン様式の建築物であり、カウディーヨの富の象徴である。
サンノゼ宮殿は、回廊に囲まれた二つの中庭、38の部屋、図書館、遊技場、巨大なダイニングルーム、チャペル、ふたつの監視塔から成る。内装にはイタリアの大理石、フランスの鏡と黄金の装飾が使われ、Urquizaが勝利した戦争の絵画も飾られていた。1854年にアルゼンチン大統領になると、彼はブエノスアイレスから略奪した美術品でサンノゼ宮殿を飾った。

Triple Alliance Warが終わった1870年、Urquizaは、腹心であり盟友Lopez Jordanがおこした反乱によってサンノゼ宮殿で殺害された。同じ日、Urquizaの二人の息子WaldinoとJusto Carmeloも反乱の中で殺されたが、彼らはLopez Jordanの親友だった。
Urquizaが殺害された部屋には、本人の血染めの手形が残っているが、これはUrquizaの妻が鎮魂のために残したものだという。
保存状態のよいサンノゼ宮殿はUrquiza博物館の一部となり、通常は外観の撮影のみが許されている。


サンノゼ宮殿の建造は1848年から始まり、1858年に完成した。

Floresの台頭
パボンの戦いに勝利することで、Mitre大統領はアルゼンチンで最大の権力を手にしたが、その地位は依然として不安定だった。エントレ・リオス州のUrqizaはいつ反旗を翻すかわからず、コリエンテス州、サンタフェ州もブエノスアイレスに反抗的で「ない」にすぎなかった。
ウルグアイ政府(ブランコ党)は、Mitre政権への接近を図ったが、Mitreは「大戦争」時代の盟友Venancio Flores(コロラド党、元ウルグアイ大統領)を支持していた。

Triple Alliance Warがはじまるまで
Triple Alliance Warの直接の発端は、Flores(コロラド党)が仕掛けたウルグアイ政府(ブランコ党)へのクーデータだった。Floresを保護したのがアルゼンチン大統領Mitreであり、武器を提供したのもまたMitreだったことから、アルゼンチンとウルグアイの政治的対立は、いつ戦争がはじまってもおかしくない状態にまで発展した。


Flores

Venancio Flores
モンテビデオ郊外の牧場主を父親とするFloresは根っからの軍人だった。1825年のシスプラチナ戦争ではブラジル軍、1836年にはウルグアイ政府(Rivera大統領)を相手に戦い、1851年のモンテビデオ篭城戦では司令官となってMitreとともに、[Rosas・Oribeブランコ党軍]と戦った。

コロラド党のリーダーだったFloresは、1853年、ウルグアイにLavalleja、Riveraとともに三頭政治を敷くが、彼らが1953年と54年に相次いで死亡したため54年から大統領になった。独裁的なFloresの政治は他の政治エリートに不評だったため、ブラジルの支持があったにもかかわらず、わずか一年で失脚した。
ブエノスアイレスに逃れたFloresはのアルゼンチン大統領Mitreの保護を受け、三年後の1858年、ウルグアイ政府にクーデータを仕掛けたが失敗、1863年4月に三度目のクーデータを試みた。公式には認めなかったが、この時Floresに武器を提供したのはMitre大統領だった。

Floresのウルグアイ潜入作戦
すなわち1863年4月、武器、兵士とともにアルゼンチン船に乗ったVenancio Floresは、アルゼンチン領からウルグアイのRincon de las Gallinasに上陸、「Quinterosの報復」をスローガンに500名のガウチョを組織、ウルグアイBerro大統領(ブランコ党)を相手に内戦をはじめた。それに対し、ウルグアイ軍部はブランコ党政府を支持、Urquizaの息子、WaldinoとJusto Carmeloもウルグアイ政府側に立って戦った。

アルゼンチン政府はFloresの軍事行動への関与を否定したが、Floresに武器を供給していたのは他ならぬMitreだった。7月、ウルグアイ政府が武器を積んだアルゼンチン船Salto号を拿捕すると、アルゼンチンは賠償と謝罪を求め、「ウルグアイの不法行為に対して断固たる措置をとる」と通告した。報復としてアルゼンチンはウルグアイのGeneral Artigas号を捕獲した。アルゼンチンの新聞は、ウルグアイとの戦争がまじかであると報道した。

パラグアイが国際政治に登場
Flores軍の侵入とアルゼンチン軍の潜在的脅威に脅かされたウルグアイ政府(ブランコ党)は、生存をかけてアルゼンチンを含むあらゆる国と交渉したが、ブランコ党を支持したのはパラグアイのSolano Lopez大統領だけだった。建国以来、ブラジル・アルゼンチンとの国境紛争が絶えなかったパラグアイは、これらの隣国がウルグアイを領有することを望まなかった。もし、ウルグアイに親アルゼンチン政府が誕生するなら、ラプラタ河を通じての通商が困難になり、パラグアイは内陸国として孤立すると考えられた。パラグアイは南米一の陸軍を持つ軍事国家で、徴兵制による国民軍はよく統制されていた。

1863年9月、Lopez大統領(パラグアイ)は、アルゼンチン政府に対し、ウルグアイへの内政不干渉を求める文書を送り、ウルグアイ支援を表明した。これはアルゼンチンとウルグアイの緊張をさらに高めただけだった。パラグアイを後ろ盾に持ったウルグアイ政府は外交交渉による解決を断念、両国は12月に国交断絶になった。
同じ月、ペニャローサの反乱を鎮圧したMitreは、アルゼンチン北部(リトラル地方の国境付近)に最強の部隊を展開、ウルグアイ国境のMartin Garcia島に砦を建設した。この地点は、Floresへの武器供与のルート上にあった。

Mitre、イギリスを動かす
イギリスは1820年以来、ウルグアイの独立を保障しており、コロラド党、ブランコ党のいずれの側につくことも表明していなかった。
一方、Mitreもウルグアイの内戦に対し、公に干渉できない理由があった。エントレ・リオス州とその周辺州に強い政治力を持つUrquizaがブランコ党を支持していたからだった。Mitre大統領は、Uruquizaに対してはエントレ・リオス州の保障を仄めかしながら、Lopez大統領には、「ブラジルが共通の敵」と言っていた。事実、Mitreは、ウルグアイに対するブラジルの影響力が増すことを望まなかった。


Edward Thornton

1864年、老獪なMitre大統領は、ブエノスアイレスに滞在していたイギリス公使Edward Thorntonを仲介役として担ぎ出した。アルゼンチン外交官Rufino de Elizaldeを同伴したThorntonはイギリス船でモンテビデオ市に渡り、Jose Antonio Saravia(ブラジル外交官)とJuan Jose de Herrera(ウルグアイ外務大臣)と折衝をはじめた。
Mitreの計算どおり、イギリス公使の存在はブランコ党とコロラド党の対立を大きく緩和した。イギリスの仲介を歓迎したSaravia(ブラジル)は、ウルグアイ大統領Aguirre(ブランコ党)に対し、コロラド党への譲歩を強く勧めた。

1864年6月18日、ブラジル、アルゼンチン、ブランコ党、コロラド党は停戦協定に署名した。歴史家の中には、この合意形態がパラグアイの孤立のはじまりであり、Triple Alliance Warにおける三国協定の原型であったと指摘する者がいる。

イギリスの仲介は失敗
かつての多くの合意と同様、この停戦協定も結ばれてすぐに破られた。 Floresが停戦協定に合意したのは、これを次の戦争の足がかりにするためだった。コロラド党(Flores)の軍隊は、総合的な軍事力ではブランコ党ウルグアイ政府に優っていたが、騎馬中心の軍隊であり、ウルグアイ北部しか支配できなかった。

停戦協定にによって、Aguirre大統領は国軍に対し停戦を命令し、コロラド党への恩赦と次期選挙におけるコロラド党の参加を認めると、Floresは停戦の条件をつりあげた。すなわち、コロラド党が武装解除するための条件として、ブランコ党と等しい数の閣僚の入閣を求めたのである。Aguirre大統領が当然の如くこれを拒否したため、ウルグアイに内戦が復活した。

ブラジルの思惑
内戦状態に戻ったウルグアイを見たブラジルは、アルゼンチン大統領Mitreに協同での軍事侵攻を呼びかけた。これはブラジル軍とアルゼンチン軍がウルグアイを占領し、自由選挙によるウルグアイ政府樹立後に、双方が撤退するプランだった。しかしながら、ブラジルと軍事同盟を組めば、Mitre大統領がアルゼンチン国内の保守派層から反発を受けることは必至で、Mitreにとっては自らの足元に火をつける行為に等しかった。
立場上中立にこだわったMitreは、結局ブラジルにフリーハンドを与えなければならなくなった。
8月22日、ブラジルとアルゼンチンは、「バンダ・オリエンタルの和平のための相互支援声明」を発表したが、その実質的な意味は、アルゼンチンは、ブラジルが行うウルグアイへの"軍事干渉に対しても"中立を保つ、というものだった。

ここに至って、ウルグアイ政府(ブランコ党)が頼れる国は独裁国パラグアイだけになった。

パラグアイ軍
戦争開始時、パラグアイ軍は60〜80,000名の兵士を動員したが、これは全人口の10分の1にあたり、兵役につける男子すべてに等しかった。
兵役は貧富や社会的地位にかかわりなく健常な男子すべての義務だった。ブラジル、アルゼンチンが傭兵も用いていたのに対し、パラグアイ軍はGuarani族か混血(Guarani族とスペイン人)によって構成された国民軍だった。
完全徴兵制によってつくられたパラグアイ軍は、南アメリカでもっとも統制のとれた軍隊だった。
パラグアイ兵は、戦争が自国の領土で戦われたことも加えて、その高い国民意識によって、Triple Alliance Warでは最後まで自己犠牲的な戦いを続けた。

パラグアイ海軍は小規模な艦隊を持っていたが、Tacuari号を除いて、商船を改造した戦艦だった。パラグアイ海軍は、その他に一門の8インチ砲を搭載した艀(平底の運搬船)を多用した。

 

 

ブラジル軍
パラグアイ軍と異なり、ブラジル兵は社会の最下層から徴用された。
開戦時のブラジル陸軍は18,000名で、これは8,000,000の人口から比べればきわめて少なかった。兵力の不足を補うため、身分開放を代償に奴隷からも兵員を募り、ヨーロッパから傭兵も集めた。

南アメリカでもっとも錬度の高い士官が指揮していることがブラジル陸軍の特徴で、士官の多くはヨーロッパの士官学校を卒業していた。武装は、一般的にパラグアイ軍のそれを凌駕し、最新式の重火器と仕官のレベルの高さが、兵士の戦意の低さを補っていた。

ブラジル海軍は、開戦時に17隻の戦艦を持ち、これは南アメリカで最強の艦隊だった。

アルゼンチン軍
開戦時、アルゼンチンは30,000名の兵士を持っていたが、ほとんどが反乱や原住民との戦いのために地方に展開していた。ブラジル軍と同様、ドイツ、イタリア、ポーランド、スイスなどからの傭兵を使っていたが、その割合は戦争が進むにつれ大きくなった。

ウルグアイ軍
ウルグアイは、数千名の兵士しか出すことができず、戦争中は増援を送ることもできなかった。兵力不足を補うため、パラグアイ兵捕虜を兵士に用いた。戦争が終わったとき、ウルグアイ軍は800名しかいなかった。

ブラジル軍が動く
バランス・オブ・パワー論の信奉者だったLopez大統領は、ウルグアイの独立が自国の生存に不可欠であると確信していた。8月30日、Lopes大統領はブラジルに対し、ブラジルがウルグアイに侵攻した時に何がおきるかについて疑う余地のない警告を発した。
「パラグアイの平和と富は、ラ・プラタ地方におけるバランス・オブ・パワーに依存している。ブラジル帝国によるウルグアイへのいかなる軍事的占領もバランスの破壊と認め、万一の場合、最終的手段をとらざるを得ないことを通告する。」

9月に入ると、ブラジル議会は開戦の熱気に包まれていた。リオデジャネイロ、モンテビデオ、ブエノスアイレス、アスンシオンでは、誰もが戦争について熱く語った。その中でMitre大統領は絶対的な中立を宣言し、ブラジルとウルグアイが戦争になった場合の"不干渉"を唱えていた。

ブラジルがウルグアイへの軍事侵攻を決めた理由は、次の4つがあげられる。第一に、Mitreの影響が強いコロラド党(Flores)が単独で勝利した場合、ウルグアイがアルゼンチンの属国になる可能性があること。第二に、ウルグアイ北側にはブラジル人牧場主が多数居住し、彼らがコロラド党を支持していること。第三に、ウルグアイ政府(ブランコ党)がパラグアイに軍事支援を求めていたこと。ブラジルは、ウルグアイにパラグアイの影響力が強まることを望んでいなかった。第四に、アルゼンチン大統領Mitreが、ブラジルとウルグアイの戦争に"不干渉"を表明したこと。

1864年10月16日、ブラジル軍がLopes大統領の不可侵勧告を無視して公然とウルグアイ領内に侵入した。これがTriple Alliace Warの幕開けだった。

パラグアイにとっての不幸は、これによって始まったパラグアイとブラジルとの戦争がアルゼンチンの参戦を招き、さらにはウルグアイ内部でコロラド党が瓦解したため、支援していたつもりのウルグアイからも宣戦布告されたことである。


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