第一次大戦史において、シナイ半島におけるイギリスとオスマン帝国の戦いは、しばしば副次的要素として見なされる。しかし、これは大英帝国のライフランを賭けた戦いであり、後に、数世紀もの間、中東を支配し、ヨーロッパ中核地域をも脅かしたオスマン帝国の滅亡につながる戦争だった。
敵対関係の成立
1914年の中東の軍事ブロックは、イギリスおよびその植民地国・フランス・イタリアによる連合国と、ドイツ・オーストリア-ハンガリー・トルコ (オスマン帝国) の中央同盟国に二分されていた。
それぞれ、イギリスとオスマン帝国が主たる兵力を供給し、ドイツはオスマン帝国に士官を提供した。政治的コントロールは、ロンドンとコンスタンチノープルにあった。
名目上、イギリスは19世紀の終わりまでオスマン帝国の同盟国だった。事実、イギリスの関心は中東の安定であり、オスマン帝国はロシアの南下を防ぐ役割を果たしていた。一方において、イギリスはスエズ運河の防衛のために、エジプトとキプロスを支配しており、これらは理論的にはオスマン帝国に属する領土だった。1907年までに、ロシアのインドに対する脅威は大幅に減少しており、イギリスは、中東におけるロシアの進出をほとんど心配する必要がなくなっていた。その間、イギリスとオスマン帝国の既に冷めた関係は、ドイツのコンスタンチノープルへの影響力が増すにつれて、より緊迫したものになっていた。それでも、イギリス海軍は1914年までトルコ海軍の軍事訓練を行っていた。
ドイツはその帝国主義政策から、オスマン帝国を同盟化した。ドイツ軍事顧問の派遣は1886年から始まり、1914年にはLiman von Sanders少将がオスマン帝国陸軍の元帥に就任していた。1909年、青年トルコ派の将校グループがおこした反乱によって、スルタンであるアヴデュル・ハミト2世は退位させられ、オスマン帝国はドイツと同盟関係になったが、第一次大戦が勃発した時は中立だった。
1914年10月29日、オスマン帝国の船舶が黒海のロシア海軍基地を砲撃した事件によって、オスマン帝国は、ドイツ中央同盟の中の交戦国となった。11月14日、カリフが「聖戦」を宣言すると、イギリス同盟国側のイスラム教徒は反逆者となり、オスマン帝国軍は防備の薄い中東のイギリス軍を掃討、かつての帝国の威容を回復したのである。イギリス・フランスになり代わって中東を支配したオスマン帝国は、アラブ諸国の独立の先鋒だった。
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