General Vol.25 No.4 P49

アメリカ大陸海軍のWooden Ships & Iron Men
THE CONTINENTALS
リチャード・オルセン

「Wooden Ships & Iron Men」のオリジナルゲームでは、三つのシナリオでしかアメリカ大陸海軍を扱っていない。WSIMのデザイナーは「アメリカを守る海軍は、建国前には存在しなかった」と記している。
この記事では10の独立戦争時代のショートシナリオを掲載する。
Only three scenarios in "Wooden Ships & Iron Men" dealt with the continental U.S. Navy. The game designers notes that "no navy existed before the founding of the United States"..
This article lists 10 Revolutionary War-era short scenarios.

大陸海軍の歴史
大陸海軍は1775年10月に議会で承認された。独立戦争の間、56隻の船が大陸海軍として使われ、この数には承認前にジョージワシントンが使った船舶を含めていない。
当初は他国から購入するか、商船を改造した軍艦しかなかったが、1777年から、自国で建造したフリゲート艦が登場するようになった。

56隻の50%以上が捕獲されるか戦闘によって破壊されている。残りの30%は敵に捕獲されることを防ぐために自沈された。

大陸海軍の目的は、北大西洋上のイギリス軍の補給を断つことだった。イギリス艦を捕獲してアメリカ海軍に仕立てることがさらなる野心的な目標だったが、実際に果たせたのは、少量の物資の運搬と重要な手紙をヨーロッパに届けたことだった。

大陸海軍にとって最大の問題は、経験の不足だった。独立戦争前、アメリカ人はイギリス軍の徴発を拒んでいたため、ほとんどの乗員は商船の経験しかなく、戦闘経験があったとしても海賊相手のものだった。ほとんどのアメリカ人は勇敢に戦ったが、勇気は経験不足を補うものではなかった。

第二の問題は人員不足だった。大陸海軍で働く水兵は、結末がイギリスの捕虜か、運がよくても遅れた給与の支払い、あるいは無給だと信じていた。私掠船で働く水兵は「非愛国的な金の亡者」と呼ばれたが、同時に現実的なプラクマティストでもあった。私掠船でイギリスに海賊行為を働くことも、同時に「愛国的」とされた。

 

 


SCENARIO C-1
BLOCK ISLAND (1776)
1776年4月6日 ブロック島沖の海戦
2017年8月27日(日)対戦

【概要】
1775年に大陸議会が竣工を承認したのは13隻のフリゲート艦だった。
しかし1776年の時点では建造が間に合わず、初期の大陸海軍は、他者から購入したり商船を改造したものから編成されていた。

その大陸海軍の初遠征の指揮をとったのは、エセク・ホプキンス海軍代将である。ホプキンス代将には海戦の経験はなく、政治的理由から選ばれていた。
1776年2月、ホプキンスに下された命令は、8隻の艦隊でロードアイランド、チェサピーク湾からコネチカット、サウスカロライナに至る海域においてイギリス艦を発見次第破壊することだった。
さらに、任務が遂行できない場合は他の適切な行動をとってよい、とされていた。

[アメリカ]
USS Alfred (24)
USS Columbus (20)
USS Cabot (14)
USS Andria Doria (14)
USS Providence (12)

[イギリス]
HMS Glascow (20)

2017年8月27日(日)

【特別ルール】
10ターン以降にボードエッジ1からHMS Glascowが脱出した時、イギリスの勝利。

【詳細】
1776年2月17日、デラウェア川から出航したホプキンスの艦隊はバハマ諸島に向かった。そこにはイギリスの豊富な物資があることが知られていた。ホプキンスはニュー・プロビデンス島のナッソーの町を占領、イギリス物資の略奪に成功した。さらに帰還の途上、大陸艦隊は二隻の私掠船とHMS Hawkを捕獲した。
大陸海軍による初遠征は、ここまでの段階では大成功だった。

アメリカへの帰還を目前にした4月6日の晩、ロードアイランド・ブロック島沖は晴天の満月だった。大陸艦隊は二列で航行し、右側はUSS Cabotを先頭にUSS Alfredが続き、左側はUSS Andria Doria、USS Columbus、USS Providenceの順だった。

最初にUSS Andria DoriaとHMS Glascowが相互を視認した。
チャールストンに向かう途中だったHMS Glascow(20門、第六級艦)は30分かけて敵艦隊の編成を偵察、最後はアメリカ艦に声が届く距離まで近づいたが、その間、Hopkinsの艦隊は戦闘隊形をとらなかった。

USS Andria DoriaがHMS Glascowに爆弾を投げ込み戦闘がはじまった。まもなく、HMS Glascowの砲撃によってUSS Cabotが操舵不能となり漂流、二番目に戦闘したUSS Alfredも操舵不能になり、その結果、USS Andria Doriaは砲撃できなくなった。USS ProvidenceとUSS Columbusの砲撃はHMS Glascowに損害を与えず、三隻から攻撃を受けたHMS Glascowはニューポート方面に逃れた(ニューポートにはイギリスの大艦隊が停泊していた)。

帰還したホプキンス代将は海軍から罷免され、港を封鎖された大陸艦隊はしばらく外洋に出れなくなった。


SCENARIO C-2
ハンコックの初航海と勝利
HANCOCK VS. FOX (1777)

【概要】
USS Hancockは大陸軍初の新造フリゲート艦である。数奇な運命をたどったUSS HancockをSCENARIO C-2SCENARIO C-3で描く。

[アメリカ]
USS Hancock (32)

[イギリス]
HMS Fox (28)

【詳細】
1775年12月、大陸議会は13隻のフリゲート艦の建造を決議した。これらは商船の改造ではなく、はじめから戦艦として作られる予定だったが、ポーツマス、ニューハンプシャー、バルチモアの造船所の仕事は遅く、二年後に7隻が完成しただけだった。原因は計画の杜撰さ、造船所における優先順位の低さ、資材と熟練工の不足であった。

経験ある船乗り達が、その報酬の多さから大陸艦隊よりも私掠船を選んだように、造船所もより収入の多い私掠船の仕事を優先した。

最初の大陸海軍の軍艦は、強健だがオーバーサイズで、速力の出ない商船タイプのものとして建造が始まり、途中から仕様が変更された。それゆえ、大陸海軍のフリゲート艦は建造の時期によって仕様が異なる。
この時完成した7隻のフリゲート艦のうち6隻が破壊か沈没、残り一隻は捕獲されている。

「SCENARIO C-2」ではUSS Hancockの初航海と初勝利を扱う。

1777年6月7日、USS HancockはHMS Boxを捕獲した(英語版Wikiでは海戦開始から1時間後にUSS Bostonも参戦してFoxが降伏したと書かれている)。


SCENARIO C-3
1777年7月7日 セーブル岬の海戦
CAPE SABLE (1777)

【概要】
SCENARIO C-2で大陸海軍が捕獲したHMS Foxをイギリス艦隊が取り返した海戦。
この海戦でUSS Hancockもまたイギリスに捕獲され、後にHMS Irisと名前が変えられてアメリカと戦った(HMS IrisはSCENARIO C-8で大陸海軍と戦う)。

[アメリカ]
USS Boston (24)
USS Fox (28)
USS Hancock (32)

[イギリス]
HMS Rainbow (SOL、44)
HMS Victor (10)
HMS Flora (32)




2017年8月26日(土)

【詳細】
USS BostonとUSS HancockはHMS Flora、HMS Rainbow、HMS Victorと遭遇した。イギリス艦は相手が大陸軍と知り、大陸軍を追い越し、至近距離に位置した。

戦いに勝ち目がないと考えたUSS BostonとUSS Hancockは別々な方向に逃げた。これは当時の大陸軍と英国海軍との間でよくみられた光景だった。USS HancockとFoxは捕獲され、USS Bostonは逃れたが指揮官Hector McNeillは軍法会議にかけられた。

イギリスに捕獲されたUSS Hancockは、HMS Irisと名前が変更され、さらに1781年フランス海軍に捕獲されている。


SCENARIO C-4
1778年3月7日 ランドルフ対ヤーマス
RANDOLF VS. YARMOUTH (1778)

【概要】
ニューヨークとフィラデルフィアがイギリス軍の手に落ちた時、大陸軍は13隻あったフリゲート艦のうち5隻を破壊した。USS Hancokが英軍に捕獲されていたため、大陸海軍の残りは7隻だった。

1778年3月、西インド諸島でUSS Randolfが4隻の商船を護衛している時、HMS Yarmouthに遭遇した。

[アメリカ]
USS Randolf (32)
USS Gen. Moultine (18)
USS Notre Dame (16)
USS Poly (16)
USS Fair American (14)

[イギリス]
HMS Yarmouth (64)


2017年8月26日(土)

【詳細】
通常なら逃げるところ、USS Randolfはイギリス艦に戦いを挑み、戦闘が始まって15分後にHMS Yarmouthの砲弾がUSS Randolfの火薬庫に命中、大爆発をおこした。4隻の商船は脱出に成功した。4日後イギリス艦が発見できたのは、即席のいかだに乗ったRandolfの3名の乗組員だけだった。


SCENARIO C-5
1778年3月9日 アルフレッドの捕獲
CAPTURE OF THE ALFRED (1778)

【概要】
1777年8月、USS RaleighとUSS Alfredは軍需物資の輸送のため、ロリアン(Lorient、L'Orient、フランス・ブルターニュ)に向かった。往路では4隻の私掠船、帰路にアフリカの沿岸でスループ船を捕獲した艦隊は、さらなる戦果を求めて西インド諸島に向かったが、バルバドス付近でイギリス艦と遭遇した。

[アメリカ]
USS Raleigh (32)
USS Alfred (20)

[イギリス]
HMS Ariadne (20)
HMS Cerbus (16)

【詳細】
西インド諸島をパトロールしていたUSS RaleighとUSS Alfredは、二隻の戦列艦と思われる敵に待ち伏せされた。実際には、この敵艦はフリゲート級だったが、USS RaleighとUSS Alfredは直ちに脱出を図った。
USS Alfredが操艦に手間取っているうちにUSS Raleighとの距離が開き、30分の戦闘でイギリス艦はUSS Alfredを圧倒した。USS Raleighが救援に戻る前に、USS Alfredは降伏した。


SCENARIO C-6
1778年9月27日 マチニカス島

SEAL ISLAND (1778)

【概要】
1778年3月9日の海戦(SCENARIO C-5)でUSS Alfredを救出できなかった責任によりUSS Raleighの艦長Thompson大佐は停職、代わりにジョン・バリー大佐がUSS Raleighの艦長となった。
しかし7月にボストンに到着したバリー大佐が目撃したのは、乗員のいないUSS Raleighと空になった船倉だった。バリー大佐は一から艦艇づくりを行い、9月にブリグとスループを率いて、ニューハンプシャーのポーツマスから出航した。

[アメリカ]
USS Raleigh (32)

[イギリス]
HMS Unicorn (22)
HMS Experiment (50)

【特別ルール】
ボードエッジ5-6からUSS Raleighが脱出した時、アメリカの勝利。

【詳細】
ポーツマス港を出て6時間後、USS Raleighは二隻のイギリス艦(HMS UnicornとExperiment)と遭遇した。イギリス艦はUSS Raleighに港に戻るよう命じたが、USS Raleighはこれに従わず、イギリス艦はこれを翌日の午後まで追跡した。
27日の午後、7時間におよぶ砲撃と追撃の後、USS Raleighはメーン沖ペノブスコット湾に逃れようとしたが、深夜にイギリス艦が放った砲弾がUSS Raleighのフォアマストを破壊、逃走が不可能になり、マチニカス島東2kmのWooden Ball Island沖に座礁した。
ボートで逃れたバリー大佐はUSS Raleighの破壊を命じるが失敗、USS Raleighはイギリスのものとなった。


SCENARIO C-7
1780年7月1日 トランブル対ワット
TRUMBALL VS. WATT (1780)

【概要】
大陸海軍の最終期まで就役していたのはUSS Trumballだった。独立戦争でもっとも血なまぐさいと言われた海戦。

[アメリカ]
USS Trumball (32)

[イギリス]
HMS Watt (36)

【詳細】
USS Trumballは風上に敵艦を発見した。指揮官ジェイムズ・ニコルソンは、風上に船を進め、迂回して風上をとった。この間、USS Trumballはイギリスの旗を掲げていた。偽装が見破られると2時間半におよぶ砲撃戦になった。この戦いで、両艦のリギンはほぼ全壊、危険なレベルまで浸水し、乗員の損耗もおびただしいものだった。
USS Trumballは8名の乗員が死亡31名が負傷、HMS Wattは13名が死亡79名が負傷した。
戦闘不能になった両艦は別々な方向に逃れた。


SCENARIO C-8
1781年8月28日 十三隻のうちの最後
THE LAST OF THE THIRTEEN (1781)

【概略】
チャールストンが陥落した1780年、大陸海軍は3隻のフリゲート艦を喪失しており、このうちの二隻は1775年に大陸議会が承認した13隻のものであり、1781年の時点でUSS Trumballは最後の一隻だった。
1781年8月8日、USS Trumballは私略船と私掠免許状船の計三隻で、28隻の商船を護衛して、デラウェア川から出航した。
(HMS IrisはSCENARIO C-3でアメリカから捕獲した艦船である。)

[アメリカ]
USS Trumball (32)

[イギリス]
HMS Iris (32)

【詳細】
1781年8月28日、USS Trumballは追尾する二隻の敵艦を発見したが、その晩の激しい嵐によってUSS Trumballはフォアマストを喪失、メインマストも激しい損傷を受けた。
船団護衛から離脱したUSS Trumballは、HMS IrisとHMS General Monk(18)に追跡され、最初にHMS Irisから砲撃を受けた(HMS General Monkは大陸海軍General Washingtonを捕獲した船である)。
1時間半の交戦後、USS Trumballは降伏した。USS Trumballの損害は2名の死亡10名の負傷、一方、HMS Irisは1名の死亡6名の負傷だった。


SCENARIO C-9
1781年4月14日 コンフェデラシーの降伏
SURRENDER OF THE CONFEDERACY (1781)

【概要】
コンフェデラシーは36門フリゲート艦で、1778年コネチカットで進水し、フランス大使 アメリカ初代大使などの奔走にに利用された。
デラウェア岬でHMS Roebuck、HMS Orpheusと遭遇し捕獲された。
これにより大陸海軍が保有する軍艦は二隻のフリゲート艦のみになった。

[アメリカ]
USS Confederacy (36)

[イギリス]
HMS Roebuck (44)
HMS Orpheus (32)

【特別ルール】
ボードエッジ1からUSS Confederacyが脱出した時、アメリカの勝利。

【詳細】
西インド諸島カパイシャン(Cape Francois、ハイチ北)を出航したUSS Confederacyは37隻の商船を護衛していた。
1781年4月14日、デラウェア岬でイギリス艦と遭遇、一発の砲弾を打つこともなしに降伏したが、護衛していた商船はすべて逃れることができた。


SCENARIO C-10
1783年3月10日 アライアンス対シビル
ALLIANCE VS. SYBLE (1783)

【概要】
アメリカ独立戦争最後の海戦。

USS Allianceの任務はハバナ・マルティニーク島のスペイン銀をフィラデルフィアに輸送することだった。マルティニーク島に着くと、USS Allianceの艦長ジョン・バリーは、先に停泊するUSS Duc de Lauzunもまた同じ命令を受けており、スペイン銀を積み終わっていることを知った。

1783年3月6日、両艦は帰国の途に就いたが、翌日、HMS AlarmとHMS Sybilを遠方に発見した。USS Duc de Lauzunが銀を満載しているため、アメリカ艦隊の速度は遅かった。バリーは戦闘を避け、フロリダに向かって北上した。

10日、HMS Alarm、HMS Sybil、HMS Tobagoは、ケープ・カナベラル付近でバリーの艦隊を発見した。

[アメリカ]
USS Alliance (36)

[イギリス]
HMS Syble (32)

【特別ルール】
ボードエッジ5-6からUSS Allianceが脱出した時、アメリカの勝利。

【詳細】
フロリダ近海に達した9日、USS Duc de Lauzunの銀の多くをUSS Allianceに移しかえていたにもかかわらず、USS Duc de Lauzunの速度は依然遅かった。
10日 、バリーは水平線に第三の艦隊を認めたが、英国艦が下がったことから、それがフランスかスペインの艦隊であると推測した。

バリーのUSS Allianceが、後方を走るUSS Duc de LauzunとHMS Sybilの間に割り込み、海戦が始まった。
バリーは至近距離からの砲撃を試み、HMS Sybilに40名の死者と40名の負傷者が出ると、HMS Sybilは潰走した。

第三の艦隊はフランスだった。バリーらはフランス艦隊と一緒にイギリス艦を追跡するが、夜に見失い、スペイン銀は無事アメリカに届いた。

しかし、その年の2月3日にパリ条約によってアメリカ独立戦争は既に終結していた。